私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

後楽園沢ノ池の「御野郡」の石標

2011-02-16 19:47:22 | Weblog

 後楽園のほぼ中央部に「沢ノ池」があります。この池の東側に、「中の島」と「御野島」の二つの島が並んであります。この二つの島の間が「境澤」です。何故、境なのでしょうか。これは藩主池田綱政が、この地に回遊式庭園を作られた時に、上道郡と御野郡の境がこの辺りにあったからとい事から名付けられたと言い伝わっています。
 筆敬氏の御指摘の「寸簸之塵」を紐解いてみますと、土肥経平は、此の「御野郡」のいわれについて書かれていました。

 「神代、素盞鳴尊が高天原を追放されて葦原中つ国に下られる時、その道中で雨が降り続きます。仕方ないので尊はそこら辺りに生えていた草を結んで蓑笠を作って旅を続けます。途中で宿を求めるも、鬼神だと恐れられて、宿を貸さなかったのだそうです。
 漸く、中つ国に下られて、備前国石上簸の川上の山あしなづち手魔つちがもとに至り、大蛇を殺したのですが、その時になってようやく身に着けていた青草の蓑笠を脱いで、その場所に置かれたのです。その場所を、尊が着ていた「蓑(みの)」を置いたところ、即ち、『御野郡』になったのだと言い伝えられている」
 と。

 ここでも「簸川は備前にあった」と、主張されています。だから、当然、あしながつちなども吉備の人です。すると、土肥は書いてはないのですが、あの「クシイナダヒメ」も、やはり、吉備の美人の一人として挙げなくてなならなくなります。
 
 今では、素盞鳴尊が、神の国、高天原から葦原中つ国に降り立たれた場所は「出雲の国」というのが定説になったいて、「備前の国」であったというお話は、ほとんど、それこそ、吉備の国の人であろうと知っている人はいないのです。しかし、このように、本気になって、「それは、吉備での話である」と力説した人もおられたのです。そんなことも知ってほしいものだと思い書いてます。