私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

「欺大后」

2011-02-12 16:43:05 | Weblog

 よほど仁徳天皇は、その后「石之日売命」を恐れていたのでしょう。本当に日本歴史上で最大の恐妻家であったとしか思われません。「欺大后」と、古事記には書いて、<オホギサキヲ アザムカシテ>と読ましています。これ以外に、愛しい恋人に逢う手段がなかったのだろと思われます。
 
 普通の天皇であったなら、当時の社会では、特に天皇になると、后の他、第2第3の妃がいても当然だったのです。むしろ、それが普通だったのです。何も后を欺いてまで逢いに行くまでもなく、堂々と行ってもいいのではと思われるのですが。そこが、また、この仁徳天皇のいいところなのでしょうか、大后を欺いてまで、わざわざ、黒日売に逢いに吉備の国まで行幸されたのです。この部分も書紀には記述がありません。
 なお、この仁徳天皇にも、妃は髪長比売、長日比売、八田若女郎、宇遅能若女郎の4人いらっしゃいます。

 それは兎も角として、此の時、天皇は、一途に黒日売に逢いたいと思われて、大后を欺いて吉備の国にやってきます。どのように欺いたかと言えば、

 「大后よ、吾は、この度、淡道島(あわじしま)周辺を視察する行幸の旅に出る。留守をしっかりと守ってくれよ」
 と、言ったか云わなかったかは分かりませんが、瀬戸内海を西に下るのです。普通、天皇は皇后と共に行幸されるのですが、この度の行幸には特別の意味があるのです。仁徳が、考えて考えてからの計画です。大后に分からないように、吉備に帰った黒日売に逢うのです。もし大后に知られたりでもすれば、自分までどんな仕打ちを受けるかもしれません。まして、あのかわいい黒日売の為を思うと、それはそれは、内に秘めたる秘密裏の行幸にならなければなりません。しかし、それが、堂々と、日本の正史に記されているのです。そこら辺りにも、この古事記の歴史的な意義があるのかもしれませんが。

 そのような天皇一行が、一端、難波の津を離れますと、もう、大后の事など、きれいさっぱり、どこ吹く風の如くに忘れ去ったように歌われます。はやる心は、ただ一つ吉備の黒日売の元に居ります。この度の主目的の淡路島を通っても、そんなこともう知らんとばかりに、得手に帆掛けて、一直線に吉備へ向かうのです。其の仁徳天皇のはやる心は歌となって現われています。その御歌は

 「淤志弖流夜 那爾波能佐岐用 伊伝多知弖 和賀久邇美礼婆 阿波志摩 淤能碁呂志摩 阿遅摩佐能 志摩母美由 佐来志摩美由」です。

 これを<オシテルヤ ナニワノサキヨ イデタチテ ワガクニミレバ アワシマ オノゴロシマ アジマサノ シマモミユ サケツシマミユ>と読ましています。
 意味は、「難波の港を出て、沢山の島々を見ながら、あっという間に、船旅の終着港≪サケツシマ≫に到着したことか。いよいよあの恋しい黒日売に逢えるぞ。やったあ」というぐらいではないかと思われます。淡路島など瀬戸内に広がる島々は何も心には残らなかったという事だと思います。何か知らない多くの島々という意味で、日本には生えてない「アジマサ」がある島だとか、伝説上の島で、何処にあるのかも分からないような島「オノコロ」等という言葉を、この歌の中に並べたのではないかと思われます。黒日売の事で、他の事は一切眼中になかったという一途な思いが、この歌の中に現われているように思えます。
 
     これって少々ばかり考え過ぎではないでしうかね?????
 
 なお、この御歌にある「アジマサノシマ」ですが、これは「檳榔」の木(ヤシに似た木「びろう」)が生えている島だそうです。この木は、現在の瀬戸内海の島には見当たりません。熱帯に生える木です。仁徳天皇の頃でも、日本には生えてはしません。大方、当時、海岸によく生えている「ウバベガシ」を「アジマサ」と呼んでいたのではないかと思われますが、どうでしょうか???確証はありませんが。
              これが瀬戸内海にある島のウバメガシの写真です。

 また、「オノゴロシマ」という島は、古事記によりますと、イザナギイザナミの二柱が「天浮橋」にお立ちになって、天沼矛を海の水の中に入れてかき回して最初にお作りになった島です。淡路島より前に生まれた島です。家島諸島辺りの島ではないかとも言われていますが、何処にあるかは諸説粉々の伝説的な島です??
 そのような瀬戸内の島々を片目で見やりながら、ひたすら吉備の国を目指した「黒日売。恋しいや。恋しいや」と、待ち焦がれる心が、この歌の中ににじみ出ているように思われます。


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