私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

黒日売と仁徳天皇の別れ

2011-02-24 10:45:07 | Weblog

 仁徳帝が吉備の山方に行幸されて、その山縣に黒日売と一緒に青菜を摘まれます。その時の歌に

  「岐備比登登 等母邇斯 都米婆 多怒斯久母阿流迦」、これを<キビヒトト トモニシ ツメバ タヌシクモアルカ>と読ませています。
 天皇のこの歌を、もし、あの石之日売命が、お聞きになったらどう思われたのでしょうか。でも、この地には、その大后はおいでにはなられません。それ幸いとお二人とも、この吉備での生活を随分と楽しんだ事であろうと想像できます。
 「何と楽しい事であることよ。こんに楽しい事は、いまだかって経験がない」とまで、仁徳帝は言われるのです。「多怒斯久母」・「阿流迦」です。
 <母>「も」という字に、随分と、勢いを感じさせられますよね。その前にある『等母邇斯』の<母>と、一緒に考えてみても、そんな感じがしますが。

 そんな時、難波の高津宮に居られた大后は歌われます???

 「君が行き け長くなりぬ 山尋ね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ」(万葉集に)

 と。
 
 「淡路に行くと言って出られたままになっています。一体、どこを、我が背子は、ほっつき歩いているのでしょうか。どうせ吉備辺りに腰を落ち着けてうつつを抜かして居るのでしょう。本当に、しょうもない我が夫であることよ。吉備に行って、その首を縄でもひっくくって連れて帰ってこようかしら。心配で仕方ありません。でも、そんな事をしたら、みんながどう言って私の事を攻めるか分かったものではありません。そんなことになるのもいやだし、寂しさを我慢して、ここで、お帰りになるまでお待ちしていた方がいいのかしら。どっちにしたらいいでしょうかね。」と、<アシモアガガニネタマイキ>ではなかったのでしょうか。

 こんな解釈が成り立つと思うのです。

 その天皇は「たのしくもあるか」です。そんな心配で心配でたまらなかった皇后の気持ちなんか知る由もなく、難波の宮に帰る気なんかこれっぽっちも起こらなかったのとちがいますか。

 でも、何時までもと、いうわけには行きません。天皇としての政務があります。やはり難波宮にお帰りになる時が来ました。少なくとの半年ぐらいはこの吉備に居られたのではないでしょうか。皇后の「け長く」というのがどのくらい長さを指しているのかは分かりませんが、多分、その「け」という言葉から受ける数字的な感じとしては、半年か、それとも、もう少し長く1年ぐらいを意味しているのではないでしょうか。

 なお、「黒日売」には「命」がついていません。という事は「妃」にまではならないで、あくまでも天皇の恋人として一生を終えたのではないでしょうか。これも例の蛇足ですが。

 いよいよ天皇が此の愛しい黒日売と別れて、難波に帰る時が来ます。その時に詠んだ黒日売の歌が2首「古事記」には出ています。

 「倭辺に 西風吹き上げて 雲離れ 退り居りとも 我忘れめや」と「倭辺に 行くは誰が夫 隠水の下よ延へつつ 行くは誰が夫」です。


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