私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

葛城之曾都毘古という人

2011-02-09 13:35:05 | Weblog

 穴海(吉備の海)を中心とした海上の運輸権を独占していたと思われる黒日売の父親です。当然、それ相当な武力を備えた海賊的な集団だったのではと想像しています。その吉備海部直である人の船です。難波から、自分の愛娘を密かに連れ戻すことなど、海に生きている男です。朝飯前の事だと思いますが、それが出来なかったのです。娘は石之日売命の遣わされた人によって船から、古事記には「追下」<オヒオロシ>と書かれています。即ち、否応なしに強制的に無理やりに引き下ろされたのではないかと、この二文字から読みとれます。
  
 どうしてでしょうかね????天皇ですら、あきらめて、折角手に入れた愛しい黒日売が吉備に帰国するのを、黙って、密かに、見送っていたのですよ。

 吉備海部直の海上権を上回る程の大后の力とは何だったのでしょうか。それは、やはり、これも石之日売命の父親の力が働いたのではないかと、私は見ています。
 彼女の父親の名は「葛城之曾都毘古」です。

 この人は武内宿禰の子であり、当時の大和から河内にかけての陸上交通の要を掌握しており、更に、難波津(大阪湾)一帯の軍事をも司どっていて、強大な力を保持していたのです。国の軍事力を握っていたのです。如何に吉備の国というより、瀬戸内一帯を我が池のように行き来していて海運権を独り占めにしていた、というより、海賊の大親分棟梁だった黒日売の親でも、相手が難波津一帯をその軍事力で持って掌握していた葛城氏です。どうしようもなく、彼らの為すがままに大人しくその指図に従うほかはなかったのだろうと思われます。大后石之日売命の一方的な勝利です。だからこそ、引きずり降ろされるように、一端は大阪湾に出ていたのですが、難波の大浦という港に連れ戻されるのです。

 石之日売命は、自分の夫仁徳が、その出船を見送る時に詠んだ「摩佐豆古 和芸毛」<マサヅコ ワギモ>という言葉を聞いて、日ごろから持っている嫉妬の心が俄かに高まり、強く敵愾心を起こし、それが嵐となって舞い上がったのではないでしょうか。

 「何と小憎らしいあの小女め。我が夫をたらしこめた憎き女。いまにみろ。わが仕打ちをもろに受けてみなさい。・・・・・・・いいきみだ。ウフフフ」
 と、地団太踏みながら、薄笑いを浮かべながら、そんなことぐらくい言ったのだろうと、想像しています。

 なお。この大浦という地名は現在の大阪湾一帯にはなく、徳島県に、この地名がある事から、徳島の郷土史家の人たちの一部は、黒日売の故郷が徳島県にあったのではという人もいるようですが。それはとんでもない妄想的な肥大解釈に過ぎません。

 


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