私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

「夜麻賀多」に

2011-02-18 14:50:18 | Weblog

 「山方」にいた黒日売を訪ねて、仁徳帝は吉備の国に行幸されます。どのくらいこの地に滞在されたのかも不明ですが、この天皇のために青菜を摘みに黒日売は山方にある野辺に出かけます。それを、古事記には『夜麻賀多』と書き表して、黒日売の住んでいる地【ところ】『山方(やまがた)』と区別しています。では、この『夜麻賀多』とはなんでしょうか???普通は山県と解釈されています。「県」とは<あがた>と読み、意味は上田<あがりた>の事で、田の上に広がる地、即ち、畠を意味する言葉だそうです。だから、この意味は「山にある畠」だそうです。 

 その黒日売が山県に出かけたのを、目ざとく見つけら、天皇もそこに出かけられ、声高らかに詠われます。
 “山県に 蒔ける青菜も 吉備人と 共にし摘めば 楽しくもあるか”
 と。

  仁徳帝が吉備の黒日売に逢いに来たのは何時であるかその時期は明らかではないのですが、この歌から、この歌が詠われたのは正月7日の七草の事であったと考えられます。
 この日に、男女が共に野に出でて若菜を摘み、その若菜を食すると、その人に万病がなく 年中の邪気を除くと言い伝えられている行事です。、古今集に「君がため 春の野に出でて 若菜摘む・・・」の歌も見られますように、平安時代に盛んに行われた年中の行事だそうですが、吉備の国では、仁徳帝の時代から、既に、行われていたのです。なお、万葉集の一番最初の歌「籠よ み籠持ち・・・」という雄略天皇の歌にもありますように、この風習は、相当、古い時代から行われていたようです。

 このようにして、「多怒斯久母阿流迦」 <たぬしくもあるか>と吉備での仁徳帝の生活が続きますが、どのくらいの間、この吉備の国に滞在していたのでしょうか。
 万葉集にある仁徳天皇の后、磐之媛命の歌として、
  “君が行き け長くなりぬ 山尋ね 迎へに行かむ 待ちにか待たむ”
 が載っています。この歌を詠まれたのが、仁徳帝の吉備への行幸の時であったと仮定するならば、相当、長期間に渡ったのではないかと思われます。半年か1年ぐらいは吉備に居られたのかもしれませんね。??????どうでしょうかね。
 “山尋ね”ですから、此の山は「山方」と捉えてもおかしい事ではないように思われるのですが。しかし、こんな解釈はあの契沖だってしていません。念のために。

 なお、仁徳帝が、この吉備へ行幸されたのは、あの民家の竈から煙が立ち上ってないのを見られて、国民への租税を全廃され、そのための厳しい財政運営を強いられてから数年の後、漸く、そこからも抜け出して、再び、国民の間に余裕が生まれ、国家としても、随分と安定した時期に入っていた時です。1年や2年、天皇が不在でも、十分、国政は運営できた安定期だったのです。これも蛇足ですが。