私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

「自歩追去<カチヨリ ヤライタマイキ>」

2011-02-10 17:58:54 | Weblog

 大后の激しい妬みを避けようとして吉備国に出船する黒日売を、密かに高台に上って、見送りながら、そっと仁徳帝は 「摩佐豆古 和芸毛」(我が愛するいとしいかわいい娘子よ)と呟きます。その言葉をもの陰で聞いていたた石之日売命は、「足母阿賀迦邇嫉妬<アシモアガガニ ネタミタマイキ>」されて、既に、難波津を出発していた黒日売を、大浦に「追下」させます。

 これから如何なる制裁が黒日売を持ちうけていたか、読む者をわくわくさせるのですが、その後は簡単に「自歩追去」とだけ書かれています。何の事はありません。船ではなく、歩いて吉備の国まで帰らせたというのです。
 これについて、宣長は、其の「古事記伝」の中で、次のように説明しています。

 「如此為(かくし)たまう故は、船より行ば安易(やす)きを歩より行しめて苦しめたまふなり。追去は、夜良比伎<ヤラヒタマヒキ>と訓ずる」と。

 この説、誠に尤もだとは思いますが、仁徳天皇の時代には、もう相当、山陽道の整備も進み、苦しいはずの黒日売の旅も、石之日売が考えていたよりも、案外に、楽しい旅になったのではないかと思われます。

 此の当時の山陽道の旅の様子は、書物には、何も書かれてはいないので、はっきりとした事は分からないのですが、例の孝霊天皇の皇子の比古伊佐勢理比古命(大吉備津彦命)が吉備国に来て、温羅らの悪人を滅ぼし、吉備の国を平和な国にされますが、その様子について。古事記には、次のように記しております。

  吉備津彦が攻め入る吉備の国には、敵が強烈過ぎて、直接攻め込むことはできません。その為に、先ず、、針間(播磨)の氷河(ひのかは)に入り、その前線基地を設けます。そこを起点として、吉備の国にいた敵を攻撃します。何故、針間の氷河だったかと言いますと、孝霊天皇の当時、既に、この播磨の国は、完全に大和朝廷の勢力範囲であり、随って、山陽道は、この時代には、既に、播磨の国までは安全に通行出来たのです。
 黒日売の時代はと言いますと、この孝霊帝よりも十二代も後の時代です。とっくに、山陽道は九州まで、交通の整備は十分に整っていたと考えられます。旅の安全性は十分に保障されていた時代なのです。
 更に、この黒日売は吉備国海部直の女です。例え、海上でなくて陸上を行ったとしても、古事記が書いているように、そんなんに苦しい旅にはならなかったはずです。むしろ、黒日売にとっては、又、海上の旅より、趣の異なったとっても楽しい旅であったのではないでしょうか。第一、大后石之日売命の激越なる仕打ちから逃げ得たのですから、こころも、いと軽やかな快適な旅であった事は間違いないと思うのですが。お供を連れたのんびりとした大名旅行ではなかったのかと思われます。

 では、なぜ、「記」には、そのような自由なのんびりとした黒日売の旅であったにもかかわらず、わざわざ「自歩」と云う字を使って、この史実を伝えたのでしょうか??????

 それは、この時代には、もうとっくに、海上だけでなく、十分、陸上の交通の安全も保障できたという事を、筆者は知らしめたかったのではないかと思われます。と、いう事は、黒日売というか弱い女性でも、既に、十分安全に旅が可能な、という事は、日本の全土に天皇の支配が、あまねく行き渡っていたのだという事を知らせたいとい事で、わざわざこのようなお話を作り上げたのではないかと考えられます。(この史実は、古事記だけで、書紀には出ていません)

 万葉集に歌われている

     “大和の国は おしなべて 吾こそ居れ しきなべて 吾こそ座せ”

 これを高らかに「宣らめ」たのです。