私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

其国之山方地而

2011-02-17 11:23:00 | Weblog

 又、古事記の「仁徳紀」に戻ります。

 「佐気都志摩」〈サケツシマ〉を遥かに見据えて船を進めます。そして、「自其島伝而」〈ソノシマヨリツタイテ〉です。酒津に到着された仁徳帝は船から上がり、その島を経由して 「行幸吉備国」〈キビノクニニイデマシキ〉、行かれたのです。そして、「爾黒日売 令大坐 其国之 山方地而」〈カレクロヒメ ソノクニノ ヤマガタノトコロニ  オホマシマサシメテ〉。懐かしい黒日売のいる地「山方」を訪ねられたのです。
 この「山方」を、本居宣長は、吉備の国に有った事は間違いないが、どこに有ったのかは“詳らかにならず“としています。しかし、宣長の高弟であった藤井高尚先生が書かれた賛が見える、天保期に発行された「備中国巡覧大絵図」には、この「山方」について、

   
 写真に見えるように、窪屋郡山手村にありと、記されています。
 
 なお、黒日売の父については、ただ、「吉備海部直」という姓だけが出でいるに過ぎません。果たして、どんな名か、また、どのような人物であったかのかは、記録も言い伝えも一切残ってはいません。当時、吉備の穴海一帯を支配していた人物が、この山方、即ち、現在の山手辺りに、その館の一部を作っていて、そこに、石之日売命の妬みを避けるために、吉備に歩いて帰っていた黒日売が住んでいたのではないかと、私は想像しています。
 

 話がややこしくなっては来るのですが、この吉備海部直という人物、ひょっとして、兄媛を訪ねて吉備国に行幸された応神天皇を饗応した御友別の長子稲速別(いなはやわけ)辺りと繋がりがある人物ではないかとも思われますが。なにせ、この人は書紀によりますと川島県主になって、下道郡臣の始祖になっているのですから???????????。