私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

造山古墳

2011-02-28 20:36:29 | Weblog

 春の一日を満喫して、伝黒日売塚(こうもり塚)を後にして吉備津に車を走らせました。途中、「造山古墳へ」という道標がありましたので、ポカポカ陽気の天気にも誘われて道を横にとって日本第4位の大きさを誇る古墳を訪ねました。
 ここが「造山古墳」の全貌を見るのに一番適した場所だという地元の人に案内して頂いて少々歩を進めました。その写真をどうぞ。

          

 ここから、この日本第4位の古墳を見ていますと、またまた、私のへんてこりんなものが頭の中に何やら浮かび出て来ます。

 吉備の山方で、黒日売と菘菜と摘まれて「多怒斯久母阿流迦」と歌われ、吉備の国での生活に満足された仁徳天皇は、酒津に上陸され、この山方に来られる途中で、全長350mもあるこの造山古墳が目に入らなかったという事はないと思います。きっと見たに違いありません。
 「この造山古墳に葬られた人は誰か」という事は、昔から論争になってはいますが、未だ、はっきりとそれが誰だかという事は分かっていますん。しかし、私は、仁徳の父「応神天皇」が、又吉備に行幸された時に饗応した兄媛の兄、御友別だと考えています。
 するとです。仁徳天皇が、この吉備で見られた御友別の陵墓と比べて、日本の大王である御自分の墓は、これよりももっと大きいものでなくてはと思われたことは間違いありません。そこで、486mもあるあの伝仁徳陵を造ったのではないでしょうか。
 なお、黒日売と御友別との関係についても、なに一つ分かってはいません。古事記と日本書紀にそれぞれにある日本の正史の一つに過ぎません。
 また、伝応神天皇陵も422mありますが、その辺りの事は何一つ明らかにはなっていません。総て憶測で語られているに過ぎません。だから、私だって大胆な仮説を立ててもよいのではと思って、敢て、こんな説を思い付いたのです。 

 まあ、それはそうとしてです。吉備のど真ん中って、こんな素晴らしいものがいっぱい散らばっていますよ。これこそ吉備路の宝なのです。是非一度お訪ね下さい。


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