下道郡南山の墳に続いて、江漢はこの足守にいる間に見たであろう、現在、日本4位の大きさを誇る造山古墳の事だろうと推測される墳墓について、「備中下道郡二万里塚の図」という題で「画図西遊譚」に記しています。
「下道郡二万里塚の図」、これは正しくは、「窪屋郡新庄造山古墳の図」とすべきだったろうと思います。
その説明書きには、
「塚の前後左右昔の塘(どて)と見えて今は田となる。大墳高さ八間、小墳高さ七間、小墳大墳に傍(そう)て穴あり、土崩て穴口広さ六尺、二三十年以前までは人這入りしと云う。伝聞に穴の内平にして 凡十四五歩行ば石門ありて、石の扉あり、それよりは底の方に穴ありて入がたしという。上古の王侯の墳なり」
とあります。
これらの図は、あの西欧の遠近法を熟得していたといわれる日本洋画の先駆者として知られる江漢にしては、いくら旅の途中でメモ的に描いたものであったとしても、どの辺りから見て描いたのかも分からないような、誠に、稚拙な図だとしか言いようがないようなものです。しかも、この塚は前方後円墳です。上部は丸くお椀を伏せたような形になっているのですが、この図では平たく描かれています。その場で写生をしたのであれば、こんな形には決してならなかったと思います。多分、写生用具など持ち合わせがなかったのでしょうか、ただ見ただけで、後になって記憶に残っていたものを空書きしたのだろうと思われます。
司馬江漢には、此の「画図西遊譚」を発行する時の原本としたのでしょうか「西遊旅譚」という別の本があります。それを見ても、やはりこの図と大体において同じ構図になっています。
これからも分かるように、これら江漢が描きとめた図の総ては、現場での直接的なスケッチではなく、見てきてから、しばらく経ってから、頭に残っているものを描いたものだと思われます。
なお、今、この絵図を見ただけでは、これが、あの造山古墳の図だと気がつく人は誰もいないと思います。念のために。
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