仁徳天皇がどうしてその存在をお知りになったのかは何も書いてはないのですが、古事記には
「其容姿端正」
としか、書いてはいません。
これをどう読ませるかですが、本居宣長の「古事記伝」には(それ かほよしと キコシメシテ)と読ましています。その読み方に従うならば、仁徳天皇は、黒日売という「吉備海部直之女」が大変美しいという噂をお聞きになってから、「喚上而使也」と書いています。この読み方も、宣長によると、(メサゲテ ツカイタマヒキ)とあります。今流に言いますと「直接に自分の元に召して、自分の思い者、妃にした」ぐらいな解釈になると思います。何せ、黒日売は、吉備の国から遣わされた妥女だった人ですから、天皇の思い通りになる人でもあったのです。
誰が噂したのかもしれませんが、噂にしてもらいたくないと誰もが思っている時に噂になったのです。天皇に召された黒日売の思いはいかばかりであったでしょうか。
普通であるならば、天皇に呼ばれてお側に仕えることは名誉であるばかりか、皇太子でも誕生しようものならば、将来の皇后にも成り得るくらいの女性としては格別の出世のはずです。でも、それを黒日売は嘆き悲しんだのです。自分の不運といいましょうか、美女にうまれた悲運を呪ったことだと思います。石之日売の嫉妬を恐れてのことです。
そのままのほほんと宮中に留まっていようものならば、自分の運命はどうなるか分かりません。多分、命がなくなるくらいの覚悟は必要だと思います。それで命を失った女性も、古事記の中には書いてはありませんが、多分いたのではないかと思われます。
黒日売は、当時、大和と力を並べるほどの勢力があった大国「吉備」からの「妥女」です。そんな簡単に「石之日売」に命を取られる程、無力ではなかったのです。吉備から遣わされた黒日売を、当初から警護していた屈強の知恵者がいたのだと思われます。
本来なら、勝手に、例え命がなくなろうとも、自分の思いどうりに行動が出来ないのが「妥女」なのです。一端、宮中に上ったからには、2度と自分の思いどうりの自由な行動なんてできっこないはずです。
でも、黒日売には、その自由があったというが古事記には書かれています。この事件は、それだけ吉備の国の力を如実に物語る事だったと言えます。
こんな古事記には書かれていない裏話も、深く読むと、何となく頭の中を横切ります。宣長を始め、誰もが思わなかったであろう新説ですが、まだまだ、続けますので、どうぞ、お付き合いください。
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