私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

我が家の御神渡り

2011-01-11 11:29:50 | Weblog

               

 これは何だとお思いですか????
 
  この冬一番の寒さに畑に置いてある水桶の中の水が凍って、あの諏訪湖のような規模ではないのですが、我が家の小さな御神渡りが出来ていました。人の力を以てしては、決して造る事の出来ない複雑な模様が描かれていす。大地溝帯も、大平原も、大山脈も、その他小いさな山々もあり、その描かれている総てに、何か名前でも、つけてやりたいという思いに駆られます。その形を、早速、カメラに写してみました。
 何年ぶりかで目にしたようでもあり、初めてであったかもしれませんが。
 
 桶の左下に出来た3角形と、そこから次第に高くなって2cmほどはあるだろう盛り上がって連なる氷の山脈(やまなみ)。その山脈を取り囲むようにしてできた幾本もの波紋のような筋。水桶と云うごく限られた宇宙に咲いた自然の不思議さにしばらく見とれていました。
 桶の底に落ちていた枯葉は、満月を桶の中に連れてきたようでもありました。更に、それに続いて、氷の山脈一帯に描き出している反射の妙でしょうか、そこに写しだされている青色の影に、何やら神秘な世界が広がっているかのようでもありました。今朝の真っ青な空の色ではないにしても、その小さな御神渡りが取り込んでいて、膨大なる宇宙の一部が目の前に広がっているようで、えもいわれぬ世界に引きずり込まれたような気分になりました。

 鳴る釜の神事は後回しにして、今朝の自然の不思議さを感嘆している私です。年をとると、こんなことまで気にかかるものでしょうかね。


木下長嘯子と細谷川

2011-01-10 15:06:52 | Weblog

 吉備津神社の鳴る釜神事についてくわしく説明した文献として残っているものに、木下勝俊の「九州道の記」があります。この人は備中足守藩の2代藩主です。叔母は豊臣秀吉の妻北政所(ねね)です。後に弟と領地の事で争い、「長嘯子」と号して、京都に移って晩年は歌人として活躍します。 彼はの歌に
        ●あらぬ世に身はふりはてて大空も袖よりくもる初しぐれ
 等多くの歌があります。

 その彼の「九州道の記」(文禄2年)には、次のように、お釜殿の事が書かれています。一応、書き出しから全部書いてみます。

 「日かずをへつヽゆくままに、備中のくにきびの中山につきぬ。つれづれさのあまり、こヽかしこに見ありきはべりて、かのほそ谷川の辺にいたりて
        けふぞふる ほそ谷川の おとにのみ 聞わたりにし きびの中山
 その水上にのぼりてみれば、ちいさき池のなかより、たえだえ出る清水なりけり。かのしみず、みな月のころほひもたゆることなしといへり。その谷川ひろき篳篥というものヽながさばかりなむありける。その夜は、神主のいへにとまりぬ。」

 長嘯子がこの吉備の中山につ到着したのは、文禄2年(1592)ですから、その時には、ここ宮内は、まだ、あの不夜城を誇る山陽道随一の歓楽街はできてはおらず。宿場も辛川にあったと思われますが、先ず宮に参り、次に、歌人ですから、当然、心に懸けていたと思われる平安の面影を留めているだろうと期待して細谷川を訪ねたことだろうと思います。
 しかし、現実に眼にした川は、こわいかに、その幅はたった篳篥ぐらいしかないではありませんか。小さい池から細々とです清水がちょろちょろと流れ出ているに過ぎません。。
 これが昔から歌枕に詠まれたあの有名な川かと、驚くやらあきれるやらした長嘯子の心が“おとにのみ”と云う言葉として、この歌の中に生きているのだと思います。

 こんな事を考えながら読んでみると、やはりこの長嘯子の読んだ細谷川は、備前と備中の境を流れる両国橋のある所の谷川ではなく、今、言われている吉備津神社のすぐ南側を流れている川だと思います。なお、まだ、彼は、此の時には足守藩主になろうなんてことは夢にも思ってない時のことなのです。


吉備津神社のお竈殿

2011-01-09 13:31:00 | Weblog

 吉備津彦命によって退治された温羅の髑髏(しゃれこうべ)が埋めてあると言い伝えられているお竈殿については、一度、」この欄で取り上げた事がありますが、それについてもう少し詳しくお話します。

 江戸の初め慶長年間(1610年頃)に早島の安原備中守知種という人によって再建されたと言われています、このお竈殿の鳴釜の神事については、その起源は詳しくは分からないのですが。室町末期頃には既に行われていたのではないかと云う人が多いのです。

 この鳴釜については、先に取り上げた藤井高尚も「松の落葉」の中で、次のように述べられています。

 吉備の国の人たちは病気の平癒のお願いや、かへりもうし(お礼参り)の時になど、神に御饌(みけ)(お供え物)を捧げんと参ってきます。すると、神官がその願主を導いて竈殿に入って拝むのです。そこには釜が2つあり、西の釜(奥にある釜)では御饌を焚き、東の釜が鳴る釜なのです。「あそめ」というおうなが二人いでて、一人は東の竈で、かれたる松葉を焚くき、今一人はそのかなへ(釜)によって、上にあるこしきの中でm升に入れた米をふり散らせば、なりとどろく。

 とお書きになっていますが、そのやり方はその当時と現代でも全く同じです。これが鳴釜神事です。高く大きく鳴ると吉で、ならなかった場合は凶なのだそうです。

 毎年、この鳴る釜の神事を氏子の皆さんが占なっていただきます。今朝も沢山ある町内から人々がお参りしておられました。我が町内でも、8時半から、先ず神殿に昇り、お祓いを受けてから、お竈殿に行って、占なっていただきました。一段と大きな釜の唸りが我々頭上を通り越して吉備の中山の中に入り込んでいました。今年も、また、平穏無事な一年になること間違いなしてす。


 吉備津神社記にある神事

2011-01-08 18:22:24 | Weblog

 この「吉備津神社記」には、矢立の神事や松植祭の他にも正月行事としてあったと記されているものがあります。
 その一つが、1月7日の「七草祭」です。
 神官が「供御(くご)」(神に献さげるための食事)を献げて直会殿に行き、神楽を舞ったりしていたのだそうですが、今は廃れてしまって行われていません。供御がどのようなものであったかは詳らかではありませんが、「七草」と銘打って行われているのですから、当然、せり、なずな、おぎょう等の七草を採り集めて、粥にしたものではなかったのかと想像しています。これも、やはり御竈殿でしつらえたものであったと伝えられています。

 このように種々な吉備津神社の神事は、多くの場合、御竈殿と何らかの形で深く関わりがあるようです。ということは、吉備津神社そのものが、如何してかは分からないのですが、昨日も述べたように、あの吉備の国の鬼「温羅」と深く関わっているように思われます。
 なお、15日にも、昔は、「御国祭」と云うお祭りもあった記録が残ってはいますが、それらの行事は、現在、すべて姿を消して行われてはいません。


千歳の松の深き色かなー吉備津神社の植松祭

2011-01-08 11:25:59 | Weblog

 正月早々、あの筆敬氏より、年賀の挨拶方々、ご丁寧なるメールを頂きました。

 「おめえも、てえげえ知らんとおもうんじゃが、その昔には、吉備津神社には正月五日に植松祭があったんど」
 と言われます。
 「そんな正月行事は聞いた事もないのだが」と思いながら、「吉備津神社記」を取り出して調べてみました。
 その本には、『大吉備津彦命在世の、鞆津の人、千本の松を献れることに因みて行ひ来たれりという』と説明がしてあります。
 そして、その次第として、
 「まず、宮司が正殿から小籠に小松を入れ、木綿(ゆふ)をかけて二人の神官に渡します。それを村人が受け取り、神社の裏にある吉備の中山に上り、これを植える」
 と。

 このような植樹の習慣は、神代の昔、素盞鳴命が御子五十猛命と共に松を植えたという故事からきているらしいのです。先に挙げた岡山市の半田山は、その昔は木は一本もなく、茅等の草が生い茂っていた草山だったのですが、秦からの帰化人によって松が植えられ、それ以後、松の鬱蒼と生い茂る山に代わり、その名も、秦山ー半田山と変わったと言い伝えられています。
  

 このような故事を見ると、日本では神代の昔から松を植える植林が、各地で盛んに行われていたようです。現在、天皇の参加の元、全国の植林祭が行われている起源もこの辺りから出ているのではないでしょうか。そんなルーツのひとつがこの吉備津神社でも、過去にはとり行われていたのです。復元したい行事の一つではないかと思うのですが。

 なお、此の紀には、さらに「今、吉備中山が鬱々蒼々として宛然千歳の緑を罩(こ)めたるが如き趣があるは、これがためにして」と記しています。
 しかし、現在はこのような植松の神事もありませんし、又、近年の松喰い虫の被害にあって、「昔の姿、今いずこ」という状態です。松の姿は、ただ、その参道だけに留められているに過ぎません。残念ですが、吉備の中山からは、ほとんど、その姿は消え去っています。
 藤井高尚が、「千せを松のふかき色かな、とよみたりし中山のふもとにて、松おほかるところなる」と、さも自慢げに言った風景は、惜しい事ですが今ではこの中山からは目にすることはできません。
 この「千とせの松」と云うのは、言わずもがなですが、新古今集にある “ときわなる きびの中山 おしなべて ちとせを松の 深き色かな”からです。


矢立の神事その2

2011-01-07 16:52:43 | Weblog

 この矢立神事について、更に、細かく調べておりますと、次のような事が分かりましたので、ご紹介します。もう、吉備津に住んでいる人でも、ほとんどの人が知らない昔からの言い伝えだという事です。
 それによると、藤井俊先生の「御蔵矢神社」に相当する神社は「桜谷神社」と呼ばれていて、この神社は吉備の中山の中腹にあり、おもしろい事に、世の中に何か異変があれば、必ず、此のお宮に自然と矢が現われて、人々に難を避けるようにと、お告げがあるというのです。どのような災難かは分からないのですが、平生から注意して暮らすようにと予告してくれるのです。

 「吉備津彦命と弓」、「温羅と石」、それを結びつけるような矢立の神事、何か特別な曰く因縁が、この中にはあるように思われて仕方ありません。
 江戸の昔には、この矢立神事の後に、矢置石に上に乗せた矢を、本殿の中に祭ってある艮御崎神社に備えていたというのです。これなども、どう考えても理屈の通らない事のように思えるのです。
 なお、今は、写真のあるように、空高く放った矢を回収して、艮神社に供えることはしていませんが、鬼である温羅に何故、祭りの後の弓を供え祝詞を上げるのかも、思えば摩訶不思議な事です。どうして、当時の吉備の国の人々に相当な悪事を働き困らせていた鬼に、一体、何をお願いしていたのでしょうかね。
 この神事は明治以降しばらく途絶えていたのですが、今のような姿になったのは昭和35年からだという事です
 
 そのような事を考えてみると、もしかして、温羅の本当の姿は、鬼ではなく、吉備の国の人々に福をもたらしていた、吉備津彦が来る前の、吉備の国の支配者だったのかもしれませんね。だから、何が不吉な事が起きると、吉備津彦命よりも、何に付けても、まず、この温羅に願いをかけたのではないのでしょうか。それがどうして鬼になったのでしょうかね。
 こんな事を言うと、吉備津神社信仰の人に怒られそうですが。

 

 こんな不思議な言い伝えが、まだまだ、たくさん残っている吉備津です。
 


矢立の神事

2011-01-06 14:28:59 | Weblog

 吉備津神社の正月行事の第2として挙げられるのは、毎年正月三日に行われる「矢立の神事」です。

                                               

 吉備津神社の登り口の石段の左側に巨岩があります。この岩が「矢置岩(やおきいわ)」です。伝説によりますと、四道将軍としてこの吉備地方平定のためにやって来られた吉備津彦命は、北西8kmの所にある新山に住んでいた温羅と言う鬼と戦います。その時、吉備津彦命は矢で、温羅は石で持って戦いますが、命はその矢を、吉備の中山の麓にある巨岩の上に置いて戦った言い伝えられています。その岩がこの矢置岩です。
 
 そのような言い伝えは、いつの時代かは不明なのですが(吉備津神社社伝には「中古より」とだけしか記されてはいません)、箭祭の神事があり、神主は白羽の矢をこの岩の上に置き祈禱して、御蔵矢神社に納めたという記事があります。

 私が持っている「吉備津神社記」には、この正月三日の神事は一切記されてはいませんが、藤井俊先生の「吉備津神社」(岡山文庫)の中には、上記のとうな記述が見えます。
 さらに、捜してみますと、町内馬場にお住まいの郷土史家薬師寺慎一先生のお書きになった本に、この矢置岩について説明がありました。薬師寺先生によると、吉備津神社記には、もう一つ古い「吉備津神社古記」と言う本があって、その中に、この三日「箭祭」の事が詳しく載っているという事でした。そこで、その「古記」を捜してみたのですがあいにくと見つかりません。しかたなく、先生が説明しておられるこの神事のあらましをご紹介します。

 薬師寺慎一著「吉備の中山と古代吉備」より

 『吉備津神社の境内絵図』(元禄期)によると、本殿の左方向の吉備の中山に「矢納宮石」が描かれ石が2つあります。その石の由来について、文化二年の記録によると、次のように記されているのだそうです。
 「箭祭次第
   ○前日から箭置石や桜箭神社の廻りを清める
   ○二本の矢を箭置石の上に置く
   ○神主が箭を受け取り・・・本殿に上る
   ○本殿の東北の隅にある艮御崎神社に箭を供え祝詞を上げる
   ○箭を桜箭神社に納め、再び、本殿に参り祝詞をあげ、それを桜箭神社へ行き、そこに穴を掘りその箭を埋める。」

 このような記事が見えるのだそうです。この中にある桜箭神社については、今、現在、何も記録にはないのですが、多分、藤井俊先生のお書きになっていらっしゃる「御蔵矢神社」がそれに当たるのではにかと思われます。これについても、どうして、前日矢を艮御崎神社に供えて祝詞をあげたのかなどよく分からない事がたくさんあります。しかし、このような江戸の昔からの古い伝統が、今の時代になって、このような姿になって伝えられているという事は称賛に値することではないかと思います。
   


細谷川の丸木橋

2011-01-05 12:16:17 | Weblog

 今日は、吉備津神社正月行事その2「矢立ての神事」についてと思っていたのですが、予想外のお方からメールを頂きましたので、それをお知らせします。

  その人は、
 「吉備津神社の三味線餅つきのブログを見た。その歌詞も書いてあったので、興が湧いたので、私も『吉備津神社餅つき唄』を作ってみた。どうじゃ!もし貴殿も歌えるならば、来年の餅つきの時にでも歌ってみてくれんか」
 と云われて、次のような歌を付け加えてくださったのです。

     1)写真から
    ●あなたと二人で 餅つきすれば 臼の中にも 恋の花

                 
      
     2)餅つき練り唄「吉備の中山 細谷川の 恋のかけ橋 丸木橋」より 
    ●細谷川の 丸木の橋は 渡るにゃ怕し 鬼の橋
    ●渡るにゃ怖い 丸木の橋は 引くに引けない 恋の橋
    ●思うお方に 逢うためならば  袖も濡らした 丸木橋

     3)その他
    ●吉備津神社の 比翼の屋根に 響く杵音 高らかに 
    ●吉備津餅つきゃ 打ち出の小槌 杵の先から 福が散る

 

 こんな唄が届きました。みなさんも、ちょいと、どうですか。7・7・7・5です。コメント欄にでもどうぞ、お待ちしています。


吉備津神社の三味線餅搗き

2011-01-04 09:17:17 | Weblog

 国宝吉備津神社、恒例の正月行事を、今日と明日2日間に渡って、ご紹介します。

 初詣の人々で賑わう神殿での「元旦祭」は、勿論ですが、他の神社ではお目に懸れない吉備津神社独特の行事をご紹介します。
 

 (その1)
 「三味線餅搗き」です。

 この行事は、正月三日間、本殿前の広場で、吉備津神社氏子会の主催で(吉備津餅搗き保存会と共催)、三味線、鉦、太鼓などのお囃子に合わせて行う吉備津独特の餅搗きです。
 その起源は、次のように言い伝えられています。

 応永32年(1425年)の吉備津神社の復興以来、お屋根の葺き替えが50~60年に一度行われてきました。その葺き替えのお祝として、葺き替えがある年には、備中各地の郷から(75郷あるのだそうです)餅米が何十俵と寄進されます。それを氏子の人々が太鼓や三味線に合わせて餅搗きして、そのお屋根の完成を祝ったのが「三味線餅つき」の始まりであると言い伝えられています。
 果たして、それは何時ごろから始まったのか、その時期ははっきりしていないのですが、江戸末期頃から始まったのではないかと言う人もいます(その歌がどどいつ調であるため)、しかし、現在のような会が出来たのは、昭和48年の正月からです。
 搗いたお餅は 例年、長蛇の列になるのですが、直接参詣者に配られ、その人に一年の吉兆を授けます。

太鼓や三味線に合わせて歌われていた「「吉備津神社餅搗煉り唄」ですが、歌詞は11番までありますが、その内の2、3をご紹介します。

           ● 吉備の中山ナー 細谷川のヨー 恋のかけ橋 丸木橋 丸木橋 丸木橋
           ● 向ふ鉢巻きナー 3本搗きのヨー 餅の曲搗き 名も高い 名も高い 名も高い
           ● 三味や太鼓でナー 杵音そろやヨー 小餅丸顔 又そろう 又そろう またそろう
           ● 鯉のお山もナー 笑顔でこだまヨー 杵の先から 餅が出る 餅が出る 餅がでる

 

     誠に何でもない単純な誰でも歌いやすい7・7・7・5のどどいつ的な餅つき唄です

 

                     
          

         明日は、「矢立の神事」の予定です。  


明けましておめでとうございます。

2011-01-01 11:49:59 | Weblog

 明けましておめでとうございます。

 今、正月の御屠蘇を頂いてご機嫌な気分に浸っています。

   私の今年の年賀状をご紹介します。

 この写真は平成8年2月の吉備津地方の大雪の時の風景を年賀状にしてみました。吉備津神社シリーズは今年で8年目になりますが、毎年どこをと思っていますが、なかなかいい風景なる画を捉える事が出来ません。それだけカメラアイがないのだとは反省していますが、又一年間捜していきたいものだと思っています。