私の町 吉備津

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矢立の神事

2011-01-06 14:28:59 | Weblog

 吉備津神社の正月行事の第2として挙げられるのは、毎年正月三日に行われる「矢立の神事」です。

                                               

 吉備津神社の登り口の石段の左側に巨岩があります。この岩が「矢置岩(やおきいわ)」です。伝説によりますと、四道将軍としてこの吉備地方平定のためにやって来られた吉備津彦命は、北西8kmの所にある新山に住んでいた温羅と言う鬼と戦います。その時、吉備津彦命は矢で、温羅は石で持って戦いますが、命はその矢を、吉備の中山の麓にある巨岩の上に置いて戦った言い伝えられています。その岩がこの矢置岩です。
 
 そのような言い伝えは、いつの時代かは不明なのですが(吉備津神社社伝には「中古より」とだけしか記されてはいません)、箭祭の神事があり、神主は白羽の矢をこの岩の上に置き祈禱して、御蔵矢神社に納めたという記事があります。

 私が持っている「吉備津神社記」には、この正月三日の神事は一切記されてはいませんが、藤井俊先生の「吉備津神社」(岡山文庫)の中には、上記のとうな記述が見えます。
 さらに、捜してみますと、町内馬場にお住まいの郷土史家薬師寺慎一先生のお書きになった本に、この矢置岩について説明がありました。薬師寺先生によると、吉備津神社記には、もう一つ古い「吉備津神社古記」と言う本があって、その中に、この三日「箭祭」の事が詳しく載っているという事でした。そこで、その「古記」を捜してみたのですがあいにくと見つかりません。しかたなく、先生が説明しておられるこの神事のあらましをご紹介します。

 薬師寺慎一著「吉備の中山と古代吉備」より

 『吉備津神社の境内絵図』(元禄期)によると、本殿の左方向の吉備の中山に「矢納宮石」が描かれ石が2つあります。その石の由来について、文化二年の記録によると、次のように記されているのだそうです。
 「箭祭次第
   ○前日から箭置石や桜箭神社の廻りを清める
   ○二本の矢を箭置石の上に置く
   ○神主が箭を受け取り・・・本殿に上る
   ○本殿の東北の隅にある艮御崎神社に箭を供え祝詞を上げる
   ○箭を桜箭神社に納め、再び、本殿に参り祝詞をあげ、それを桜箭神社へ行き、そこに穴を掘りその箭を埋める。」

 このような記事が見えるのだそうです。この中にある桜箭神社については、今、現在、何も記録にはないのですが、多分、藤井俊先生のお書きになっていらっしゃる「御蔵矢神社」がそれに当たるのではにかと思われます。これについても、どうして、前日矢を艮御崎神社に供えて祝詞をあげたのかなどよく分からない事がたくさんあります。しかし、このような江戸の昔からの古い伝統が、今の時代になって、このような姿になって伝えられているという事は称賛に値することではないかと思います。