私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

神主のいへにとまりぬ

2011-01-12 10:00:27 | Weblog

 木下長嘯子が、1592年に朝鮮との戦い(文禄の役)の為に九州まで下るのですが、その道中記「九州道の記」には、吉備の国での見聞した事も書いてあります。昨日、書いたように「つれずれさのあまり」一日目は、細谷川を沿って吉備の中山に登ったのでしょう。細谷川以外については何も記されていません。その山頂にある伝吉備津彦命のお墓についてもです。
 
 さて、どうして、彼が吉備津神社の神主の家にわざわざ泊ったかと云う事は定かではありませんが、これも推測の域を出ないのですが、高松城の水攻めの時に秀吉は、清水宗治公に、城をを明け渡して、織田方に加担すれば、吉備や出雲の国などを委ねるからという信長からの誓紙を持たせて、宗治の元に遣わします。その役に選ばれたのが、当時の吉備津神社神主「掘家掃部」でした。そんな関係で神主と木下勝俊はお互いに旧知の仲であったのかもしれません。
 なお、これも、蛇足なのですが、安土桃山の時代の山陽道の宿場は一宮の辛川にあったのです。

 この「辛川」ですが、1390年代(将軍義満)に九州探題になった今川了俊と云う人が書いた「道ゆきぶり」と云う書物にも
 「から川とかいうところにとどまりて、つとめてはきびつ宮の御まえよりすぐる・・・・・」
 とあり、室町時代の山陽道の宿場はこのから川にあった事を証明しています。

 と云う事は、長嘯子が旅した頃は、板倉には宿場は、まだ、存在していません。山陽道随一を誇る宿場町「板倉の宿」が出来たのは、文禄の役の時、秀吉によって辛川から移転させられたのだと言い伝えられています。それなども、吉備津神社の神主掘家掃部の働きではなかったのでしょうか????

 まあ、そんなこととは一切関係がなかったのかもしれませんが、兎にも角にも、木下長嘯子は、九州への長旅の一夜を、吉備津神社の「神主のいへにとまりぬ」ということに相なったのです。

 


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