私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備って知っている  179  墓に現れた社会制度

2009-06-11 18:43:45 | Weblog
 藤井高雅の事件後、兄の輔政はその母の命を受けて、板倉山にある藤井家の墓地に高政の墓を立ています。でも、その兄も母もその墓石が、此の板倉山にはありません。いくら探しても、不思議ですが、どこを探しても見当たりません。
 それでも、もしやと思って幾度となく上段と下段の2か所にある堀家の墓地を探しましたが、どこにもそれらしい墓石は姿を現しません。その代わりと言っては何ですが、昨日の可愛らしい「里津女」の墓石が見つかりました。
 その愛らしい小さな墓石の右前に、やはり、これも、また、里津女の墓と同じぐらい小さい四角な墓石が最前列に、その父永政と堂々と並んで立っています。その墓誌に「堀家知政」と書かれてありました。
 この「知政」は堀家の系図によると、父は「永政」で、善政や江戸に出て幕府の役人になった兼平と兄弟でした。永政には3男5女の子供がありました。それぞれ養子に行ったり、お嫁に行ったりしていますが、この知政だけは、、若し万一の時に備えて、一生涯冷や飯食いで、嫁ももらわず、いわゆる「部屋住み」の身分で、64歳の生涯を終わっています。そのために、墓石も、このようにごく小さく建てられたのだとのだろうと思います。
 古老の話によりますと
 「知政は、まだ、堀家の息子だったからよかったのです。こんな小さな墓でもあるからいいのです。ここらあたりの一般の貧しい百姓の二,三男であってごらんなさい。ころくな墓も立ててもらえないのが普通ですよ。・・・・自分の墓なんてとんでもないことです」
 と。
 当時の、この地方の二男三男たちの「部屋済み」と呼ばれた人々の生活がどんなに厳しくて貧しい虐げられた生活を強いられていたかをこの墓石は物語っています。決して自らが望んだ人生ではなかったのだろうと思いますが、それでも生きていたのです。
 そんな社会構造が、この小さな墓石からも見えるのです。
 「知政」と書かれたちっぽけなこの墓石の前に佇むと、その生涯、64年間をいかに過ごしたか誰にも分からないのですが、波乱万丈の人生があったのではといろいると想像することができます。
 
 そんないろいろな思いを込めて、もう一度、板倉山墓地全体に向い首を深々と垂れて、一歩一歩足を踏みしめながらゆっくりっと、この山を下ります。
 
 山風がさっと通り過ぎていきます。・・・・・もう夏です。