私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備って知っている  183 歴史に残らなかった宮内の哀歌 

2009-06-19 16:06:19 | Weblog
 文久3年7月23日の夜、高雅は京の客舎で誰と分からない激徒のためによる斬殺されます。
 明治と言う新しい時代の波が否応なしにどんどんと押し寄せていた時です。
 この事件は、ここ備中の片田舎「宮内」にある名家、藤井家、堀家家両家を、それまで経験したことのないような周りの人々の冷たい目に曝されるのです。
 「あの高雅様が、こともあろうに強盗に入って叩き殺されたのだ」とか、「金持から大金をだまし取った為に殺された」とか、中には「遊女に殺された」などとまことしやかに、あらぬ噂が飛び交います。
 此の両家では、事件を、噂の渦巻くご近所と顔を合わせられないほどの恥に感じて、悲劇のどん底く突き落とされます。まだまだ「恥を知る」という風習が、日本の社会に色濃く残っていた時代のことです。
 だからこそ、兄の輔政が隠れるように墓地に、そのへそのうなどこっそりと隠れるように埋めたというのも分かります。
 「・・・つつましければ面をかくしてそゆく・・・」と輔政は書き綴っています。
 その時の母の喜智、兄の輔政、子の紀一郎などの苦悩の姿は高雅が生きている時代には思いもよらなかったことだったに違いないことです。

 かって紀一郎に宛てた書簡(文久3年4月)に見受けられます。

 「・・・(自分が計画したこと)何れの用にても程能く出来いたし候えは、愚老之面目貴様の晴れに候。但欲念は聊かも持ち申さず(持不申)・・・御社頭様(紀一郎)御為筋に相成り候にと存じ候事にて、何の用向きにても愚老の手柄は皆御社頭様の御為に相成り候いたし候だけの欲心に御座候・・・・」

 今、命懸けで取り組んでいる仕事は、国のため、そして、それは紀一郎のためにえもある、自分の手柄のためではないのだと、意気揚々と書き綴られています。

 こんな崇高な思いを抱きながら日本を深く思った「大藤高雅」の突然の死を、母もその兄も、また、子までは「恥」として重く受け止め、その墓まで、祖先代々の墓地でない、夫である徳政の側ではない、遠く離れた山影の陰地に隠れるように葬られているのです。

  
  こんな悲しい歴史もあった吉備津です。