6月になって、吉備の中山から、あるかなしかのようなホトトギスの初音が、周りの緑のそよ風にまぎれるように弱々しく聞こえてきました。その声で「もう六月か」と気が付きます。
例年なら、此の初音とともに雨の季節になるのですが、今年は少しばかり様相が違うようです。今朝の新聞によりますと、今年の5月は、記録的な少雨だったとか。前の週に、山の畑に播いたササゲはどうなっているかと気がかりですが、こればかりはどうしようもありません。
さて、このホトトギス、昨日も今日もその声を聞きません。すると、朔日に耳にしたようにう思われた鳴き声は私の空耳だったのかも知れませんが、たしか、細々とした声でしたが、確かに聞いたのですが・・・・。
まあ、そのうち聞けるとは思います。「鳴くまで待とう・・・」の気分を、今にも降りそうな怪しげな空を眺めながら味わっています。
このホトトギスの歌を「高雅」も数首読んでいます。
・ほととぎす まつにかかりて 尽さまし
夏を常盤の 此よなりせば
この歌をどう解釈すればいいのかは、以前から迷ってはいるのですが、どうもよく分からないのです。
「松の緑が美しい吉備の中山からホトトギスがしきりに鳴いているのが聞こえる。夏が最も美しい吉備の中山でなかったらなば、こんなにもホトトギスの声が美しいくは聞こえないだろう」
と、いうぐらいの意味ではないかとも思いますが?
万葉集にある大伴家持の、次の歌にどこか似ているように思いますが、どうでしょう
・夏山の 木末の繁に ほととぎす
鳴きとよむなる 声の遥けさ
また、高雅はこんな歌も詠んでいます。
・初声を いそげや花の なごりにも
おもひかへたる 山ほととぎす
・ほととぎす さざ波遠く 声すなり
ふりし都の 松やとふらむ
・郭公 まちて聞しも はつ声は
おもひのほかの ここちこそすれ
・よに出ん はつせの山の ほととぎす
まだ口ごもる 声もめずらし
などの歌が残っていますが、おもいのほかの声とはどんな声だったのでしょうか。弱々しい消え入るそうな声で、もっと元気良くという励ましの歌でしょうか。また、最後の“口ごもる声“という言い廻し方が、何か初々しい可愛げなホトトギスが感じられます。
どの歌にも、高雅のやさしい心が表れているようで私は好きです。
例年なら、此の初音とともに雨の季節になるのですが、今年は少しばかり様相が違うようです。今朝の新聞によりますと、今年の5月は、記録的な少雨だったとか。前の週に、山の畑に播いたササゲはどうなっているかと気がかりですが、こればかりはどうしようもありません。
さて、このホトトギス、昨日も今日もその声を聞きません。すると、朔日に耳にしたようにう思われた鳴き声は私の空耳だったのかも知れませんが、たしか、細々とした声でしたが、確かに聞いたのですが・・・・。
まあ、そのうち聞けるとは思います。「鳴くまで待とう・・・」の気分を、今にも降りそうな怪しげな空を眺めながら味わっています。
このホトトギスの歌を「高雅」も数首読んでいます。
・ほととぎす まつにかかりて 尽さまし
夏を常盤の 此よなりせば
この歌をどう解釈すればいいのかは、以前から迷ってはいるのですが、どうもよく分からないのです。
「松の緑が美しい吉備の中山からホトトギスがしきりに鳴いているのが聞こえる。夏が最も美しい吉備の中山でなかったらなば、こんなにもホトトギスの声が美しいくは聞こえないだろう」
と、いうぐらいの意味ではないかとも思いますが?
万葉集にある大伴家持の、次の歌にどこか似ているように思いますが、どうでしょう
・夏山の 木末の繁に ほととぎす
鳴きとよむなる 声の遥けさ
また、高雅はこんな歌も詠んでいます。
・初声を いそげや花の なごりにも
おもひかへたる 山ほととぎす
・ほととぎす さざ波遠く 声すなり
ふりし都の 松やとふらむ
・郭公 まちて聞しも はつ声は
おもひのほかの ここちこそすれ
・よに出ん はつせの山の ほととぎす
まだ口ごもる 声もめずらし
などの歌が残っていますが、おもいのほかの声とはどんな声だったのでしょうか。弱々しい消え入るそうな声で、もっと元気良くという励ましの歌でしょうか。また、最後の“口ごもる声“という言い廻し方が、何か初々しい可愛げなホトトギスが感じられます。
どの歌にも、高雅のやさしい心が表れているようで私は好きです。