この高雅の死後、宮内の名家藤井家は紀一郎の代で終わります。
この紀一郎も諸々の苦労を一身に背負って、この事件後も、しばらく生きていたのですが、なぜだだかは分からないのですが、明治の御代になて失踪して行方不明になっています(明治14,5年頃)。だからと、うわけでもありますまいが、藤井家の墓地には、この紀一郎の墓石が見えません。
なお、現在、この墓地は、吉備津神社によって、いつもきれいに整えられていることを報告しておきます
「藤井高雅」の本を著された藤井駿先生は、その本の最後に、
「・・・有為転変は人生の常とは申しながら実に遺憾といわねばならぬ」とお書きになっていらっしゃいます。
高雅の死後、子息紀一郎も明治に入って間もなく何が原因か分かりませんがどこかへ失踪して行へ不明になっていますいます。だから、勿論、その墓も藤井家の墓地にはありません。
そのようにして、宮内の名門家である藤井家は絶えてしまいます。まことに、俊先生の「書かれた通りの「有為転変の世」を見るようです。高尚先生が愛してやまなかった鶏頭樹園」すらま、誠に惜しいことではあるのですが、今はその跡すら見ることはできません。
この紀一郎も諸々の苦労を一身に背負って、この事件後も、しばらく生きていたのですが、なぜだだかは分からないのですが、明治の御代になて失踪して行方不明になっています(明治14,5年頃)。だからと、うわけでもありますまいが、藤井家の墓地には、この紀一郎の墓石が見えません。
なお、現在、この墓地は、吉備津神社によって、いつもきれいに整えられていることを報告しておきます
「藤井高雅」の本を著された藤井駿先生は、その本の最後に、
「・・・有為転変は人生の常とは申しながら実に遺憾といわねばならぬ」とお書きになっていらっしゃいます。
高雅の死後、子息紀一郎も明治に入って間もなく何が原因か分かりませんがどこかへ失踪して行へ不明になっていますいます。だから、勿論、その墓も藤井家の墓地にはありません。
そのようにして、宮内の名門家である藤井家は絶えてしまいます。まことに、俊先生の「書かれた通りの「有為転変の世」を見るようです。高尚先生が愛してやまなかった鶏頭樹園」すらま、誠に惜しいことではあるのですが、今はその跡すら見ることはできません。