私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備って知っている  184 歴史に残らなかった悲話 ②

2009-06-20 20:59:20 | Weblog
 高雅の思いとは裏腹に、その計画の実施を、暗殺の斬奸状には「・・・大金を貪り、罪不軽、依之加天誅也」と書かれ、あらた貴い命を京の地に無残にも落としてしまうのです。
 しかし、本当の高雅の心は、子息紀一郎に宛てた書簡でもわかるように、「・・欲念は聊も持不申只国恩を報いたく・・・・」とあるような、天皇、いや日本の国を深く思う崇高な独自の思いから出発していると思えます。
 その思いは、この四月二十一日の書簡にも見えますが、そのたった十日前のにも紀一郎にあてて送った書簡にも、また、見ることができるのです。
 その手紙には
 「・・・・・紀・淡・阿州の御そなへほどよくまゐり候へば此上ののぞみはなく、すぐに山のなかへひきこもり候とも、一生書物ばかりよむでゐ申とも、ともかくも心のままにいたし、うき世をはなれ申たくと存申候。・・・・・」
 とあり、私心への邪念などひとかけらも持ってなかったことはあきらかです。

 くどいようですが、この高雅は、どこまでも、天皇の安泰を願い、皇国の盤石の安きに置かんと考え、その結果の行為であったのです。
 前にも書いたのですが、山田方谷との縁から時の幕府の老中、板倉勝静の了解を得て紀淡海峡の暗礁作りに奔走し、京・大坂などの豪商から資金を集めたていたことに対する誤解からの暗殺でした。
 
 でも、その高雅の心は地元の人さへ理解していなかったのです。今思えば、決して、そんなに恥いるような事件ではないのでしたが、母と兄と子は、墓も隠れるようにして作らねばならないほどの「恥べき行い」なのでした。
 
 個人に自由などといった新しい生活感覚は、全く、その時代の社会には存在すらしていなかったのです。なお、その20年後には、制限はされてはいますが、明治憲法ができ「個人の自由」と言う今までにはなかった新しい考え方が日本の社会生活の中に取り入れられています。
 
 当時の「恥」とな何でしょうかね。体制に逆らうのは総て恥でしたのでしょうかね。維新と言うのは何でしょうかね

 しかし、この自由が認められるようになてからの明治の世になると、輔政の子は、再び、元の堀家の墓地へ葬られています。
 それとともに、この高雅の事件は、宮内の、いや吉備津の人々の記録からも、完全に忘れられてしまいます。

  名もない歴史とこんなもんでしょうかね?