私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

おせん 103    秀吉塘

2008-08-21 10:10:22 | Weblog
 この盲人塚のいわれを聞きながら、無実に泣いた多くの名もない人がどんな思いで死んでいきはったののやろと考えています。葦の原「たずた」を流れる秋風にわずかに揺れるほつれ髪が頬をうちます。蝮谷にも夏と秋との交代色が見え隠れしだし、山寺の真昼の鐘が辺りに響いて、赤とんぼが群れをなし葦の原の上を泳いでいます。
 なかなか大旦那様は出できません。
 「大旦那様、真承さんと何かお話が進んでいるようで。・・・ちょっとそこまで足を延ばしてほんの1、2町に先に行くと、高松城水攻めの時に築かれた秀吉塘が見えます。幅が十二間もある大きな塘です。おせんさん、行って見ませんか」
 足守道が鼓山を迂回するように北に進みます。暫らく行くと突然に西に視界がいっぱいに広がり、実りを迎えた吉備の美田がとこまでも伸びています。
 「あの田圃の中を西み向かってずーと向こうまで塘が続いています。その一番こっちのあのお山が石井山です」
 お園が指差す先にそれほど高くはないこんもりとした、これもおにぎりの形をしたお山があります。
 「清水宗治という毛利家の武将が秀吉が造ったにわか湖に浮かべた船上で切腹した時、織田方の大将秀吉さんがあのお山の上から見ていたのだといわれています。そのお山の麓にまで伸びているのが秀吉塘の東側の一番端です。蛙ヶ鼻といわれる所です。あそこから3里先にある福崎まで延々と西に続いています。今は、ただその跡だけをあのようにいかめしく残して、盲人塚など人の数々の悲喜交々のお話など総て消し去りながら時だけが流れていったのです。人の持つあほらしさを語るこの塘一つ取っても、高さだけでも九間もあったそうです。たった12日間の戦いのためだけに、というより、善悪ということはほっちらかしにして、ただ目の前の敵を打ち砕くために、こんな無駄が正義という名の下に、何か知らないのですが造られるなんて、人のあほらしさでなかったら何んだろうかと、いつも祖母から聞かされていました。よくその祖母が“夏草やつわものどものどうしようもないあほの跡”と言っては歯なしの口をいっぱいに開けて言っていたのを覚えています。・・・でも、これだけの長い大きな塘をわずか12日間で造り上げたどうしようもないあほの人が持つ力が覇権を争っていた毛利氏までを屈服させた原動力になったのだと秀吉さんの力も一方では褒めていました。・・・・祖母は利口なお人でしたが、真承さんのように何もないのがいいことだとは思ってはいなかったようですが。時の流れとはなんだろうかといつも考えたいたようです。高尚先生の教えだとは思いますが。・・・・真承さんの何もないといわれることを、祖母は、総てあほなことだと言う言葉で言い表していたのではないかと、今、ふと思いつきました」
 「あれだけのもの造るのやったら仰山お金がいったでしゃろに」
 浪速娘おせんはいともこともなげに言いのけます。