またまた、例のお節介屋さんからメールを頂きました。
「葦手というのは、昔から言われている「男手・女手」と同じように文字だったのですね。悪手というのもその類ですね。でも、この葦手を使ったところに、撫川で育ったお侍達の偉さがあるのですよ。『一村一品』という現代の村おこしに発想が似ており、この元祖みたいな物です。こんな意味から言っても我“撫川うちわ”の民芸的、芸術的、歴史的な意味の大きさが伺われます」
と。
これまた例の通り、少々オーバーな自慢話だとは思いましたが。まあそれもそうかもしれないなと思いながら、この「男手・女手」について、我;先生はと、本を捲ってみました。先生曰;
『むかしの書に、男手にかく、女手にといえること、おりおり見えたる。男手はまな、女手はかなをいへり。・・・・』と。更に、をとこ手は、はなちがきをして、同じもじをさまざまにかへてを書く。「まな」を男は使い、女は「かな」を使って、「まな」はできるだけ使わないようにしていたらしい。
道長の栄華物語にも「女なれど、まななどよくかきければ・・・・・」というところがあり、これは、女手が「かな」だと言う確かな証拠だ。とお書きになっています。
私事(ひとりごと);
手というのは、この場合、文字の事らしいですな。まあ、どうでもいいようなことですが、辞書によりますと、手記・手簡・手札・手写・手書・手跡などがあるといいます。
「葦手というのは、昔から言われている「男手・女手」と同じように文字だったのですね。悪手というのもその類ですね。でも、この葦手を使ったところに、撫川で育ったお侍達の偉さがあるのですよ。『一村一品』という現代の村おこしに発想が似ており、この元祖みたいな物です。こんな意味から言っても我“撫川うちわ”の民芸的、芸術的、歴史的な意味の大きさが伺われます」
と。
これまた例の通り、少々オーバーな自慢話だとは思いましたが。まあそれもそうかもしれないなと思いながら、この「男手・女手」について、我;先生はと、本を捲ってみました。先生曰;
『むかしの書に、男手にかく、女手にといえること、おりおり見えたる。男手はまな、女手はかなをいへり。・・・・』と。更に、をとこ手は、はなちがきをして、同じもじをさまざまにかへてを書く。「まな」を男は使い、女は「かな」を使って、「まな」はできるだけ使わないようにしていたらしい。
道長の栄華物語にも「女なれど、まななどよくかきければ・・・・・」というところがあり、これは、女手が「かな」だと言う確かな証拠だ。とお書きになっています。
私事(ひとりごと);
手というのは、この場合、文字の事らしいですな。まあ、どうでもいいようなことですが、辞書によりますと、手記・手簡・手札・手写・手書・手跡などがあるといいます。