私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

小雪物語―ひろげた扇

2012-06-29 10:39:00 | Weblog

 「それだ。」
 と、突然に、菊五郎の声が流れて来ました。息を吸い込み、次に吐きます。そのほんのわずかな時間の中に本当は連続しているように見える踊りの中に大きな壁を生じさせる、それが踊りに於けるへだて心ではないかとうすぼんやりと思うのでした。あれだけ菊五郎たちに練習をつけて貰い、あれでもない、これでもないと、苦しみぬい後にようやくたどり着いた息使いです。その心が最後になってようやく何となく体でつかみとったように思われ、小雪は、もう一度お息を吸い込みそして息を吐きます。心がなんだかすーとしたように感じられます。「これが菊五郎様の言われる息を殺すと言うことかしら」と、再び、息を思い切り吸い込み、今度は、意識して息を大きく吐き出してみました。自然の息使いとは随分と違うように思われます。それでも、息を殺すと言うことは、「本当に、これでいいのでしゃろか」と言う思いがまたもや小雪の心に覆いかぶさるように襲いかかってきます。その途端、胸にあの激痛が押し寄せます。
 痛くて痛くて、自分の身を自分でも処理できません。痛みが通り過ぎるのを待つしかほかありません。その痛みを和らげるようにそっと、そっと息します。息を吐いた後は、何にもしなくても息がすっと胸に入ってきます。その瞬間に、なんだか分らないように痛みも和らいで心が空っぽになって行くようにも思われます。

 それからしばらくして、小雪は明日に備えて早目に自分の部屋に戻りました。 部屋にある小さな飾り棚の上に置いている喜智から送られてきた扇を取り出し、いっぱいに広げます。銀色の空に青の水、その中を一直線になった花びらの群れが無限の彼方に飛び去っているその絵を眺め眺めていましたが、やおら、立ち上がり、花びらが舞扇から舞い散るように、手の先までに己の気が飛び散るようにいっぱいに舞扇をかざします。息が止まったと思った瞬間、舞扇が跳ね飛びます。何もかにも忘我に酔うたかのような気分になったように小雪には思えました。
 それから、その扇を丁寧にたたんで、横になりました。「明日か」と思うと、胸の中に、母が、喜智様が、新之助さまが、林さまが、お須香さんが、万五郎さん、菊之助さまが、次から次へと、京の泉屋かどこかで何時か見たように思う走馬灯の中の絵みたいに、ぐるりぐるりと回りながら、小雪のまぶたの後ろに、浮んでは消え、また浮かんできます。眠ろうとしても眠れません。「うまくいくかしら」そんな思いも一緒になって、小雪の頭の中はごちゃごちゃにかきまわされ、いよいよ目が冴えるのです。
 もう夜も白々と障子に映し出されようとした頃でしょうか、ほんの一眠り小雪はしたように思いました。