私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

小雪物語―菊五郎の総仕上げ

2012-06-28 11:28:44 | Weblog

 流し雛も細谷を流れ、さくらも散り、吉備の小山は目の覚めるような新緑で燃立っています。
 いよいよ、熊五郎大親分の鳴竈会の日が近づいてきています。岡田屋熊治郎一世一代の大行事です。使いぱしりのまだお若い人達までもが「どけどけそこをどけ」と大声を上げて小走りに往来を小忙しそうに行き来しています。
 舞台に舞う女たちも、最後の仕上げにそれぞれ余念がありません。でも、菊五郎のお声はいつもと全く変わらず、ゆっくりと一つ一つを念入りに最後の総仕上げに入っております。そのような稽古を見て、「やっぱり菊五郎と言うお方は江戸の名優だけあって偉いね。大したお方だ。大声一つ出さずにご自分の考えどうりに芝居を動かしておられるじゃあないですか」と、宮内雀どもは噂し合っています。でも、鳴竈会の日が近づくにつれ小雪たち出演するものは田舎のど素人の集まりですから仕方ありませんが、誰もかれもが皆な、緊張しているのでしょう、無口で、なにか体中にぴりぴりとした張り詰めたような気が窺がわれます。
 そのような人々の中で、時は刻々と近づいてきています。鳥居を背にして、大きな仮の芝居小屋が出来上がったと言う事です。小雪は、誰にも気が付かないように、しばしば襲ってくる胸の痛みを我慢しながら、それでも、毎日を、さくらの精の空心を舞出だすよう心を砕きながら最後の稽古にとりくんでいます。
 「明日が済めば、明日が済めば」と、一日一日、ただそれだけを頼りに、厳しいお稽古に打ち込んで来たのです。どうしてもへだて心が此の期に及んでも、なおいっこうにつかみきれません。
 あの日以来、菊五郎はなんにも言いません。ただ、黙って小雪の動きに目をやるだけです。その目の輝きが以前とは幾分違っているようにも思われますが、それがいいのか悪いのかすら小雪には分かりません。何もない空っぽの心を舞う事は「わたしにはできません」と、舞いの中で何度も訴え懸けるのですが、菊五郎は無表情に小雪の体の流れを見つめているだけです。息が邪魔をします。自分の骨が肉が邪魔します。どうやってもその重さをなくすることが出来ません。手や足、指先まで小雪の総ての体からそれを空っぽにする等と言うことは到底出来そうにありません。「どうすればそれを感じないようにすることが出来るのかしら」と、思えば思うほど、また、焦れば焦るほど、余計にその思いが遠くににげていってしまうように思えるのです。菊五郎は「息を殺せ」と、ただ、それだけしか言われません。息を殺せといわれても、息を止めるわけにはいきません。「息を殺す」その方法がいくら考えても考えても、又、いくらやって見ても、やればやるほど、自分の息を殺す事がどんどん遠くに逃げて行くように思われます。まして、笑いながら言われる「天女になりきれ」とは、一体どういうことか少しも分りません。それを追い求め追い求めしているうちに、いよいよ最後の最後の稽古に入ります。
 「誰かうちを子供の時のように、もう一度、空に放り投げてくれへんやろか」
 と、思うのですが、そんなこと出来っこありません。どう仕様もありません。「やっと明日が」とふと何気なく息を吐きました。上げていた扇もそれと同時に自然に下がります。その時です。小雪の小息が、恰も、その舞扇にふりかかったのではないかと思われる様に、あるかないかのようにほんのわずかに軽く動いたように思われます。その動きをじっと見てめていた菊五郎は、短く
「それだ。小雪。・・それだ。」
 と、突然に強く云い切りました。