私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

小雪物語ー稽古

2012-06-21 14:26:49 | Weblog

 小雪達の踊りの稽古が始まりました。
 手のかざし、足の運び、肩や腰など体全体の動きなど、舞いの基もとの形を、まず、教わりました。踊りには踊り手としての、芸としての特別な動きが要るです。力の入れ方や抜き方まで細かな指導が続きました。時々は、胸に激痛を覚えながらでも顔には見せないで、歯を食いしばって、菊五郎の教えを一つ一つ体に滲みこませる様にして、菊五郎が驚くような速さで一つ一つ小雪は確実に覚えていきました。
 菊五郎は、毎日、他の姐さん方の踊りの稽古の指導に出てかけます。周りの人も驚くような、本当に熱心なる稽古です。その上、江戸からも、時には上方の浪速の役者までも引っ張り出してきて、菊五郎の手伝いをさせています。
 そんなこんなで、宮内では人々の歩き方にも、小忙しさが伺われ、「総宮内おどり」当日が近ずくにつれ、みんなの目つきの厳しさも一段と高まります。それに連れ、小雪達の稽古も一層の激しさが増します。
 小雪の稽古も、もう2、3ヶ月も続いたでしょうか、でもまだ、菊五郎の頭が縦にピクリとも動きません。じっと小雪の動作の一部始終をただ見詰めていました。時々「それをもう一度」とか「次」とか、言葉短かに言うだけです。ほとんど、唯、黙って小雪の舞を見つめているだけでした。ほとんど、その口は開かれません。
 特に、春の宵、さくらの精が、花魁に乗り移り『物思う桜のたましい、げにあくがるるものになむありける』と謡いつつ舞い消え入る様を、もう何十篇、いや何百回となく打ち続けています。 体の全体から力を抜きつつ、しかも、なお且つ、体全体に力を入れる芸当など、どんなに教えてもらっても出来そうにありません。舞と舞との間の舞ってない時の自分の置くべき目の位置一つとっても何処へおけばいいのかも分かりません。それだけでも自分の芸になっていないのに、更に菊五郎の注文は、舞その物にも及び、芸の細かな厳しさを追い立てられるように、菊五郎は小雪に求めます。胸が痛くて痛くてどうしようもなく、今にも息絶えるのかと思い、「もういやどす。お母っさん助けて」と心のうちに叫びます。それでもなお、小雪は体全体からあらん限り力を抜く様にして舞い続けます。これも小雪の瘠我慢でしょうか。
 「へだて心なんて小雪には、できしまへん」と、ありったけの声をはりあげて、泣き叫び、どこかえ逃げ帰りたいような気分になります。頭の中がボーとして、自分が自分であるという意識さえもありません。子供の時、父親か誰だったかは分らないのですが、抱きかかえられるように真っ青な空に高く放り投げられ、それから、急にその大きな分厚い胸の中に抱き込まれた時のような気持ちがふわりと小雪の胸の中を、降って湧いたように横切ります。そのまま、ただ、自分であって自分でないような意識で、恰も魂の抜け殻のように、へだて心も何にもありません、誰かに空に放り投げられたかのような気分になって、幼子が嬉々として喜ぶかのような心持になってに、風にちる花びらのように舞い続けました。
 その時です。菊五郎が
 「それです。・・・・よう踊りきりましたね。小雪さんでなくては出来ない小雪の踊りが出来ました。それが天が与えてくれた極意な芸です」
 小雪の側にかけよって、今にも崩れかけようとしている体を優しく包み込みます。
 「今のその息だ、その息を決して忘れないようにしてくださいよね。」
 言葉は随分と優しげではりましたが、きつく云い切ります。