私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

小雪物語ー松虫のへだて心

2012-06-15 07:17:13 | Weblog
 それから2、3日後の事です。
 「小雪小雪、どけえおるん。はようおりてきんせえ。えらいこっちゃ。大阪屋一代の晴れごとじゃ。小雪が立役に決まったんじゃ。」と、例の天に突きささるような嬉々とした声が家中に響きます。
 小雪は、女将お粂から、岡田屋熊次郎興行の来春の卯月の「総宮内おどり」の立役に、小雪自身に決まったのだという話を聞きました。でも、小雪には女将のいう立役というものが何であるか見当すら立ちません。そして、これが、これから先の小雪の生きる定めにどのように関わって行くのかすらも分かりません。これまで、20年も生きてきて、その自分の身の上に起きた諸々の出来事は、総て、この立役と同じように、先の分からない、まるで雲の中を歩いているような見当もつかないような悲哀に満ちたことばかりで、生きていてよかったと云う気持ちなんて味わったことはないように思える小雪でしす。そして、又、いつもの、「どうなってもしょうおへん」と云う、何時ものあきらめの気持ちが小雪の体の中をぐるぐると駆け巡るのでした。
 そうこうしているうちに、文月のもう終わりごろになっていたでしょうか、それはそれは大変な暑い日でした。「総宮内おどり」の練習が、練習宿に決められた旅篭屋や料亭などに分かれて始まり、小雪は、その総おどりの立役という事で、特別な菊五郎さんの振り付けのお稽古が瀬戸屋の離れを使って始まりました。
 この稽古が始まる前、菊五郎が、特別に小雪の立役としての「心構えを話しておくから」と、瀬戸屋のお座敷に招かれます。
 お庭には、木々の間をうねるように、うずみ樋から流れ出す細谷の水でしょうか、ちょろちょろと心地よい音を立てて流れています。
 菊五郎さまはお床の前に、にこやかにお座りになっていらっしゃいます。宿のお上さんに案内され、小雪は、お座敷の端近くに座り、「どないなお話かしら」と一寸不安。
 「まあ、もそっとこちらへ、そんなに遠くては話もでけん。小雪さんを何も捕って食らおうというのではない。もう知っていると思うが、お前さんに今度の会の立役をお願いすることにした、そのお稽古が始まる前に、少々話しておきたいことがあって呼んでもらったのじゃ。そうそうそこらでよい」
 と、ニコニコ顔で云われます。
 「少々難しいかも知れませんが、まあ聞いてくださいな」と、これも備前の茶のみ茶碗をお取りになり、ご自分のお膝のところに置いてお話になるのでした。
 芸と言うものは、追えば追うほど、あちらこちらと、逃げてしまうもだとか、かといって追わなければ自分のものにはならないとか、自分の心を空っぽにして、自分の心を捨てて、舞の心で踊らなければとかと、次々に、小雪には、今までついぞ聴いたこともない、全く訳も分らないような新しい事ばかりをお話になられました。今から、たった半年という短い間に、おどりの奥義総てを掴みきることは、到底、出来ないが、一つだけ心に留めてもらいたい事がある。これだけは、半年の間に作り上げて欲しいと、小雪の目をじっと見つめながらお話になられます。
 「京女であるお前さんは聞いたことはあると思うが、源氏物語と言う本があるのだ。・・・その中の鈴虫の段という所で、主人公の光源氏は、鈴虫を『心やすく、今めいたるこそろらうたけれ』と、また、松虫を『いとへだて心ある虫になむありける』と言っています。そして、『らうたけれ』という鈴虫より『へだて心』の松虫の方が優れているとその光源氏が云っています。」