私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

小雪物語―我慢することもへだて心か?

2012-06-22 13:49:10 | Weblog

 小雪にとって今までに経験したことのない、それはそれは大変激しい稽古でした。しかし、何処でどうなったのかは分からないのですが、風の如くに、恰もその風なき風に誘われて、桜の花びらが舞い散るように、意識してではなく、体が自然と動きました。それを、菊五郎から、「その息を決して忘れるな」と言われたのですが、その息はいくら思いだそうと思っても決して思い出されるものではありません。その菊五郎も、一時、自分の仕事のことで江戸へ戻って行かれます。しばらく、一人で「へだて心、へだて心」と、菊五郎から言われたその息を探す毎日が続きます。
 しばらくして、今度は菊五郎に替わりに、弟子の片岡八重菊という役者が、江戸より宮内に来て、小雪等の稽古をつけます。
 葉月の暑さにも耐え、ようやく秋も虫のすだく長月の声を聞いた間なしの時です。
 藤井家の、そうです。高雅の一子、紀一郎が、どこかへ失踪され、そのまま消息が立たれたという噂が宮内中に流れます。
 そんな噂もまだ冷めやらぬのに、今度は、京・大阪の大商いをしている商家の旦那方が大勢この宮内に押し寄せるように来て、藤井高雅の京大阪での何万両という借財の取立てが行われると言う、これ又人騒がせな噂が流れます。このような噂に、この宮内の人々もただ呆然とするばかりで、その行方を、ただ黙って見ているだけで他に方法はありません。代々続いた宮内の名家藤井家の、あの高尚の松の屋も、鶏頭樹園も、その屋敷などほとんど総てものが人手に渡ってしまったという噂も流れてきます。
 この借財の中には、あの晩、小雪を助けた倉敷の林孚一からの物も相当額あると云う噂も流れています。中には百数十両もあるなんて噂が飛び交い、
 「そげえな仰山のお金を高雅様は、どこでそげんなお金をつこうたんじゃろうかな。聞くと所によると何万両と言う大金じゃそうじゃ。もってねえはなしじゃのう。でえいち、そげえなな仰山なお金を林さまはぽんと貸してあげたもんじゃのう。持っとるんじゃのう。そげえにゃあおもえんがのう。すげえかねもちなんじゃのう」
 と、これ又しきりに人々は囁きあっています。
 そんな話があちらからこちらからと聞こえてくる中、この林孚一のことについて、また、その豪肝さの一端を物語るような噂が、宮内すずめの口々に上り、ひとり占めにするように流れております。と言うのは、この時の競売か何かが始まろうといた時だそうです。万座の人の中で、このお人は、その座をすくっとお立ちになられ、何かといぶかっている大勢の取り立ての方々の中を、ゆっくりと書院の所まで、無言で、歩を進めでられ、やおら、そこに懸けられていた、これは高雅の祖父藤井高尚が何時もお側に於いていたと言われる本居宣長の短冊に恭しくお手を延ばされ、胸に抱くように取られ、一っ歩下がって、その床の間に向かって静かに深々と一礼をして、万座の人々が唖然としている中を静かに立ち去られたと言う事です。
 そんな噂話を耳にするたびに、
 「男にも瘠我慢はあるのだ。瘠我慢にこそ人としての生き抜く甲斐があるのだ」
と、日差しお山の向こうに沈んで行くお日様に、顔を真っ赤に照らされながら、強くおっしゃられた林さまの顔が、小雪の目の前に浮び出るのでした。
 「それにつけても、お方さまはどうしていらっしゃる事でしょう・・・・」と、そんな噂を耳にするたびに、小雪は目に涙をうかべながら、堀家の喜智を思いやるのでした。
 「我慢することって何でしゃろ。へだて心というのは、もしかして、この我慢する心でしゃろか」
 へだて心が片時も離れない小雪です。