私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

小雪物語―扇をかざす

2012-06-13 20:12:34 | Weblog
 「そんなに体を堅くしていては話も出来ん。もっと楽にせえ。・・・きくえがお前の名を上げたもんで、とにかく、菊五郎さんも是非、その小雪さんとやらに会って見たいと言われたので、お粂さんに無理をゆうて来てもろうたんじゃ」
 この街道筋きっての『岡田屋熊治郎』大親分さんの名前からは、到底、想像もつかないようなやさしさのあるお言葉が小雪の下げた頭の上を通り過ぎて行きました。
 「このお人が菊五郎、いや、今お江戸で、名女形と皆からはやされておいでの、沢村菊五郎さんです。来春の鳴竈会で、遠路お出ましいただく全国の親分さん達のお出迎えに、この宮内の女どもを総動員した何か、出し物というか総踊りのような物をして歓迎してはどうだろうかと思うてのう。その出し物の総てを、この菊五郎さんにお任せし、仕切ってもらうことにしたのだ。今、その中心となるおなごを色々と捜しているのじゃ。あれではどうか、これではどうかと、いろいろ探して貰っているのじゃが、どうもこの菊五郎さんのお目に留まるようなええおなごがおらんのでのう。是非この女をと言うのがのうて困まっとるんじゃ。・・・・何処でどう聞いたのか知らないが、うちのきくえがのう、どうして知っていたのかは知らんのじゃが、お粂さんところの小雪ならどうかと、あんたの名前が出たんでのう。ええか、わりいかは、この菊五郎さんに見てもらわんとわからんけえな。そんなことで来てもろうたんじゃ」
 「ご苦労さんですねえ。あなたが小雪さんですか、体に力をあまし入れないで、ゆっくり、私の注文を聞いてくださいな。そんなに難しい事はありませんからね」
 女形の江戸の花形役者さんです。言葉にも、その立ち振る舞いにも、お役者さんらしい優雅な奥ゆかしいものが、伝わってきます。力を入れないでと言われても、その江戸の女形言葉をお聞きするだけで、自然に体全体が堅くなっていくように小雪には思えました。
 そんなことになるなんて初めて知った小雪です。「うちなんてそんながらではおへん」と鄭重にお断りしたのですが、「まあ、折角あんたの名前が出て、ここまで来てもろうたんだ。一寸見てもらええ」
 有無を言わさない親分の威厳でしょうか、小雪は、ただただその場に小さくうずくまります。
 「まあ、そんなに緊張しなくてもいいのですよ。小雪さん。・・・・一寸あなたのたち振る舞いを見るだけです。そんなに難しい事は云いません。私の云う通りの仕草を見せていただければ結構なのです。・・・まず、お立ち願えないでしょうか。もうちょっと、こちらへよってくださいな。・・そう、そこで始めましょう。まず始に、左へ回って、右の手を頭にかざして、そうそう、もう一度左に回ってくださいな。ええ、ここに舞い扇があります、これを開いて右手に持って、いっぱいに伸ばし、今度は右に回って。右足を横に・・・」
 菊五郎さんはじっと小雪の動きを見つめています、まぶしいような目の輝きです。
 「小雪さんは、聞くところによるとあなたは京女だそうですね。どなたかに京舞をお習いでしたか」
 「いえ、いえ、・・でも、家でお稽古しているおっかはんの踊りは、ちっちゃなときどしたが、時々見たことがおました・・・」
 胸が大きく動悸打ち、それだけ云うのが精一杯でした。きゅんと又あの痛みが走ります。
 「どうも、お疲れさんでした。もう2人か3人のお人の舞を見ます。ありがとうさん」
 菊五郎さんは、優しく小雪に微笑みかけながら、そう言いいます。
 「お茶でも飲んで行け」という熊治郎大親分の優しげな言葉を背中で聞きながら「おおきに」と、小さく頭を下げただけで、駆ける様にして熊次郎親分のお屋敷を後にしました。