私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

故郷の廃家  住む人絶えてなく

2008-04-26 10:28:50 | Weblog
 筍が、今年は不作だ不作だと、周りの人たちが嘯いています。そんなに採れないのらならと、久しぶりに田舎の竹薮に行って見ました。なるほど人々が言う通り不作です。それでも、ほったらかしの山には、ちらほらとイノシシの食べ残しの筍が地上に顔を覗かせています。広い山です、あちらこちらを上がったり下りたりしながら捜して歩きます。

 こ一時間は経ったでしょうか、あまり多くとはゆきませんが、イノシシ様がお食べあそばした残りの筍を見つけては掘ります。それなりの収穫でした。
 それをぶら下げて山から下りるのもひと苦労なのですが、兎に角無事降りることが出来ました。
 「けえりしなに」(帰る時という岡山弁です)通った山道の側には、屋根は崩れ落ち柱が吹く風に今にも崩れ落ちそうになっている廃家が1軒、2軒と立ち並んでいます。
 昔は子供の声々が、その廃家のあちらからもこちらからも、それこそ、そこらじゅうから夜遅くまで響いていたのですが、“今では住む人絶えてなく”ひっそりと憐れにも、今にも潰れんばかりの無残な姿を留めて立っています。
 母の育った家もこの辺りに建っていたのですが、軒を葺いていた屋根瓦だけが数枚、草場の陰から覗いているだけです。
 面白くも何にもない、煤で汚れた古ぼけた天照大神という軸が年がら年中掛かっていた、だだっ広い、しかし、なにかそこに神様がいるのだと子供心に思い、決して其処へは立ち入らなかったお床も、金剛梁と呼ばれていた長くでっかい張りも、年寄りが厳しく立っている絵が描かれた衾も、明り取りの為に設えられた何か絵のような模様が入っていたようだったと思うガラスの嵌め込まれていた障子も、夜になるとすべとのものを真っ暗にする、がたごとという不気味な音を出し、とてつもない恐怖の底に落とし入れられるのではないかと思われた、所々に節穴は開いた雨戸も、走り回る度にこっぴどくどなりあげられた長い廊下も、昼寝をした広い部屋も、薄暗い台所も竈も、しかられた時に入れるぞと、脅された床の下に掘られていた芋釜も、すべて何もありません。その面影だけ私だけの心の中にそっと生き残っているだけです。
 そんな思いを他所に、ただ背高く伸びた木や草だけが辺り構わず生い茂り、荒れに任せて元の自然に帰っているです。
 風音だけが嘯々として草木を撫でながら通り過ぎています。

 ふと、あの歌がどうしてかは分らないのですが、口を突いて出てきます。

  幾年ふるさと 着てみれば
  咲く花鳴く鳥 そよぐ風
  門辺のお川の ささやきも
  あれにし昔に 変らねど
  あれたる我家 住む人堪えてなく