私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

おせん 12

2008-04-17 16:08:56 | Weblog
 大旦那はんが平蔵の前にお座りになられます。突然のことでびっくりしたように眺めておりますと、大旦那はんは
 「よう精が出ますのやなー。どないです今年のできぐわいは。四国あたりからの入荷がもうちょっと増えるとええんじゃが、どないかならへんどすかなー・・・」
 「はあ、今の所今年もおかげさんでええんとちゃいますやろか。伊予のものを来年ぐらいからはもっちょっとうちが頑張らんといかんのとちがいますやろか」
 「どうだなー。そんなに気ぃはらんと一服でもしたらどうおます。・・・ちょっとわいの部屋までお出でなはれ。平どんに話したいことがあるさかい」
 そう言うと、大旦那さんはすたこらと立ち上がり、平蔵の返事など無視するように部屋から出て行かれます。まだ少々記録の整理が残ってはいるものの仕方なく、大旦那の後に随い、長い廊下を通り、大旦那さんが使われている離れにと進みます。

 殆どの奉公人達は大旦那さんのお住まいの部屋などに来る事はありません。平蔵も奉公に上がってから始めてのことです。余計に緊張が背筋を走ります。それでも致し方なく、背を屈めるようにして大旦那さんの後に随います。
 部屋には、大旦那さんのお読みになる書物でしょうか、部屋の横のある棚の上に所狭しとぎっしりと積まれてあります。本というものにあまり馴染んだことのない平蔵には、この本の多さにもいささか驚かされます。
 そんな平蔵を無視するかのように、大旦那さんは床を背にしてお座りになられます。床にはなにやらわけの分らない、それこそミミズが這ったようなうねうねとした文字が一杯書き並べられてあるお軸が掛けてあります。違い棚というものでしょうか、その上にも、何かは分りませんが年老いた人が数人並んでいる青い絵の具で書き入れてあるお盆のようなお皿が一枚だけ飾られています。今までにこんな立派な人を威圧するような厳めしい部屋に入ったことはありません。なんだか知らないのですがお線香のような匂いまで薄らと立ち込めているようでもありました。平蔵は恐る恐る敷居の直ぐ端の方に小さくかしこまっているのがやっとでした。。
 「なにをそんなに隅っこの方におるのじゃ。誰も食べてしまおうなんていやあせん。もうちょとこっちへ」
 と、招き入れます。
 大旦那さんのお座りになっている直ぐ横には、何かケヤキの木からでも出来ているのでしょうか、人が一抱えもするような立派な木の火鉢が備え付けられてあります。その木の火鉢の周りには、黄金に輝いている金の鷲と松の大木でしょうか、厳めしく嵌め込まれ、いかにも品のよさそうに置かれています。
 五徳の上にある鉄瓶が湯気を吐いています。大旦那さんは、やおら茶道具を膝のあたりに引き寄せられて、煎茶というお茶だそうですが、おたてになられます。
 「まあどうだ。一服」
 出された一握りで掴めるような小さな茶碗に真っ青なお茶が入っています。どのように飲めばよいのやら、その作法は分りませんが、大旦那さんが飲まれるのを見て、その通りにと、兎に角、一口、口をつけます。ほの甘いちょっと苦味のあるおいしいお茶でした。
 「さてと、平さん、うちに来てももろうてから何年になる」
 とじっと平蔵を見つめられながらお尋ねになられます。
 「へえー、もうかれこれ八年になると思います」
 「ほう、八年となー・・・・で、お年は・・・」
 大旦那さんの話では、25歳にもなってまだ一人身だろう。商売人は、人様からの信頼が一番の宝だ。そのためにはもう嫁を貰う事が大切になるのじゃ。一人身ではどうも危うい所があり信用がのうなる。
 「早う、嫁さん貰わんとあかん。言い交わした人でもおるのかい。一人、友達から娘ごを頼まれておるのじゃ。どうかな」
 と言われます。
 それまでは平蔵は自分の将来のこと、まして、自分の嫁の事まで考える余裕も何もありませんでした。ただ仕事一途の日々でした。
 今、大旦那からこの話が出て来た時、どうしてだか分らないのですが、突然、おそ桜の活けたあった立見屋でのお園さんとの出会いが胸の底に浮かび上がります。頭の中に、長い回廊をころころと真っ赤になって転がり落ちている自分とお園さんが廻り灯篭の絵のようにぐるぐるぐると廻っては消え、消えては廻ります。
 大坂へ戻る朝、もう一度お園さんに逢って、お世話になりました、と言葉を交わしたかったと思ったことなども思い出されます。
 嫁を、と、大旦那さんから言われた時、今までは意識してはいなかったのですが、急に、お園さんに逢いたいという気が強く心に浮び来るのでした。