私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

おせん 19

2008-04-28 10:47:21 | Weblog
 その飯山からも、ようやく夕焼けの赤が消え、何か人の心を押し潰してしまうかのような不思議な、ごくごく薄い青紫ががった大きな布にお山全体が包み込まれていくような色へと移り変わっていきます。そんなお山を見ていると、お園さんから、今、聞いた、得体の知れない力でぐいぐいと引き寄せられるのではないかとさえ思えます。
 「本当に不思議なお山です。本当に神様がおいでになられるのかもしれません」
 明かりが点された行灯の光が部屋の中を薄ぼんやりと照らし出しています。暮れなずむ宮内の街にも人影があちらこちらへとせわしく動きだしました。
 「お山は生きていて、時と一緒に動いているのだと、祖母は、いつも申しておりました。お山の神様が作り出しているのだとも。・・・・でもきれいでしょう。私は、このお山の段々と変っていくお姿を見るのがとても好きなのです。夏から今時分にかけて、夕方からこのお山は七変化するのだとも言われています」
 じっと、お山を涼しげに見つめながら言います。平蔵には、そんなお園さんが今更のように懐かしいような、この腕の中に抱きしめてしまいたいような気分に駆られます。
 「福井の婚家からこの宮内に帰ってきてから特にそうです。・・・・・このお山は、私の辛い事、悲しい事を全部吸い込んでくれるのですから。“なにもかも忘れろ忘れろ”と呼びかけてくれているようでもあるのです。・・・・・本当に不思議なお山なのです。わたしにとっては」
 階下から、泊り客でしょうか大きな声が響きます。
 「あら、お客様かしら、ちょっと失礼します」
 とんとんと心地よい足音を残しながら階段から消えていきます。
 又独りになった部屋で、「七変化する」と言ったお園さんの言葉を思い出して、一帯どんな色に変るのだろうかとも眺めています。
 部屋から出て行かれた大旦那様は、もうかれこれ一時にもなるのですが、まだお部屋にお戻りにはなられません。「お先にお入りになったら」と、お園さんからお風呂をしきりに進められるのですが、自分だけ先になんて、そんなことができるわけもありません。
 お山は何時の間にやら濃い紫色に変っています。行灯の光だけは、外が暗くなるにしたがって部屋を照らし出す明るさがだんだんと増してきます。そんなごく当たり前な他愛もない事がどうしてだか分らないのですが、平蔵の目には印象深く映るのです。お園さんが急に居なくなったということが原因になったのかもしれませんが、いつもなら思いも及ばない事が次から次へと頭に浮んできます。