私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

おせん 11

2008-04-16 10:28:45 | Weblog
 舟木屋に戻った平蔵は各地から送られてくる綿の作付けや出来具合などの状況を細やかに記録しています。もう二年はくるでしょうか、何事につけても生真面目で細かい配慮をする性格が認められたのでしょう、取引のある尾張や備中などの各地から集まる情報を、主に一人で記載しまとめています。
 立見屋から戻ると、備州方面に出払っていた間に溜まっていた沢山の報告も整理しなくてはなりません。朝からそれこそ夜遅くまで、食事をとる時間も惜しむようにして、机に向かって筆を動かせています。
 幾日かたったある日の昼過ぎです。突然、大旦那さんが、平蔵の机の前にお座りになられます。
 この大旦那様は、もうとっくの昔、平蔵が奉公に出る以前から、ご隠居されていて、老後の楽しみといってしまえば語弊がありますが、お若い時からお好きだった、大変古い昔の本をよくお読みのようです。時々ですが。源氏がどうの紫何某がどうのというお話をお店の者を捕まえてはお話されています。平蔵も例外ではありません。そんな話など今まで聞いた事もなく、さすが大阪だなといつも感心させられていました。でも、源氏がどうの紫がどうのと聞いても、話はちんぷんかんぷんで、よく分りません。いい加減に返事をしてその場を繕くろっていたのです。
 ある時、染屋に奉公している平蔵と同じ連島村から出てきている三吉から「紅花」の話を聞き、その花が「末摘花」と呼ばれているという事も教えてもらい知っていました。
 何時でしたか、多分2,3年前の秋が深まった時分だったと思います。大旦那さんが
 「お前達、末摘花をしっているかい」
 と3,4人の奉公人を捕まえて、突然、話されています。誰も知っているものなどいません。たまたま、平蔵が以前三吉から聞いていたので、「紅花と違います」と答えます。
 そのことをきっかけにして、大旦那さんは、平蔵の仕事振りにも気に入ったのか、よく声を掛けてくれはるようになられます。
 「まだお侍さんの時代ではなかった古い古い昔のはなしどす。紫式部という女の人はんが書かれました源氏物語という本がおます。その中にあるのどす」
 とも教えてくれました。こんな本なども、とってもむずかしいけれど「時々は読んでみなはれや」といわれます。
 こんな話をされた後、必ず、
 「人の幅拡げんといかんでー」
 とも言われます。人の幅とは何であるか、まだ、平蔵にはよく飲み込めなくないのですが、なんとなくお店の仕事をしていると、ふと、これが大旦那さんのおっしゃる人の幅ではないかと、この頃少しずつ感じるようにもなりました。
 織屋さんに綿を持って伺うことがあります。同じ物を持て行って見せるのですが人様によって、その屋のご主人さんによって、また、番頭さんによって、平蔵などの綿屋の者にたいする態度がそれぞれ異なります。
 「たがが綿やの小増か」と、見下して鼻先であしらうような人もおります。反対に、自分のような走り使いのような小者みたいなものに対してでも、大人同士の話のように熱心に聞いてくれて、誠意を持って対応してくれているのだなあと感じられるような人もいます。
 色々の人を見てきてはいますが、どれが人の幅であるのかは、まだ其処まで正しく判断することは平蔵には出来ないように思われます。人として扱い方がぞんざいであっても、案外に、細かいことに配慮して取引してくれるような人もいます。
 人を見分ける事の難しさは平蔵の経験があらゆる場を通して教えてくれています。