私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

「小雪物語」 お山は緑で燃え立ています

2007-04-22 16:38:07 | Weblog
 流し雛も細谷を流れ、さくらも散り、吉備の小山は目の覚めるような新緑で燃立っています。
 いよいよ、熊五郎大親分の鳴竈会が近づいてきています。岡田屋熊治郎一世一代の大行事です。使いぱしりのまだお若い人達までもが小走りに往来を小忙しそうに行き来しています。
 舞台に舞う女たちも、最後の最後の仕上げにそれぞれ余念がありません。菊五郎さんのお声が一段と高くなっていくのにも、その日が近づいたことをうかがわせます。その声に、皆も、緊張しているのでしょうか、誰もが無口です。ぴりぴりとした張り詰めた気が、どのお人からも窺がわれます。
 時は近づいてきています。鳥居を背にして、大きな芝居小屋が出来上がったと言う事です。小雪は、誰にもは気が付かないように、しばしば襲ってくる胸の痛みを我慢しながら、それでも、毎日を、さくらの精の空心を舞出だすよう心を砕きながら最後の稽古にとりくんでいます。
 「明日が済めば、明日が済めば」と、一日一日、ただそれだけを頼りに、厳しいお稽古に打ち込んで来たのです。どうしても空の心を舞い取る事は出来ません。息が邪魔をします。自分の骨が肉が邪魔します。どうやってもその重さをなくすることが出来ません。手や足、ここにあるものをどうすればないものにすることが出来るのか、いくら探して探しても見つかりません。菊五郎さんは「息を殺せ」といわはるのどすが、息を止めるわけにはいきません。自分を殺すその方法がいくら考えても考えても分りません。遊女になりきるとは、一体どういうことかも分りません。そんなことがいっぱい分らないまま、いよいよ明日です。
 「やっと終わりの明日が」
 と、ふっと小息を吸い込みます。あれだけ菊五郎師匠たちに練習をつけていただいたのですが、その吐いた息の後、またあの「うまくいけへん」と言う思いにひどく駆れ、自分自身で、またも胸の痛みを激しくするのでした。
 痛くて痛くて、自分の身を自分でも処理できません。痛みが通り過ぎるのを待つしかほかありません。その痛みを和らげるようにそっと、そっと息します。息を吐いた後は、何にもしなくても息がすっと胸に入ってきます。その瞬間に、なんだか分らないように痛みも和らいで行くように思われました。
 息を殺すとは、吐く息を意識的に整え、吸う息は自然に任せればいいのではないかと、ふと思いました。
 もう時間がありません。喜智まから頂いた扇を取り出し、銀色の空に青の水、その中をいっぱいに舞い散る花びらを眺め眺めして、花びらが舞扇から舞い散るように、小雪は立ち上がると、手の先までに己の気が飛び散るようにいっぱいに舞扇をかざします。息が止まったと思った瞬間、舞扇が跳ね飛びます。何もかにも忘我に酔うたかのような気分になったように小雪には思えました。
 それから、その扇を丁寧にたたんで、横になりました。「明日か」と思うと、胸の中に、母が、喜智様が、新之助さまが、林さまが、お須香さんが、万五郎さん、菊之助さまが、次から次へと、京の泉屋かどこかで何時か見たように思う走馬灯の中の絵みたいに、ぐるりぐるりと回りながら、小雪のまぶたの後ろに、浮んでは消え、また浮かんできます。眠ろうとしても眠れません。「うまくいくかしら」そんな思いも一緒になって、小雪の頭の中はごちゃごちゃにかきまわされ、いよいよ目が冴えるのです。
 もう夜も白々と障子に映し出されようとした頃でしょうか、ほんの一眠り小雪はしたように思いました。