私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

「小雪物語」 お以勢さん

2007-04-12 23:56:11 | Weblog
 「小雪さん、上がらしていただくは」
 と、もう何回となく小雪のこの部屋に来られているものですから、お須香さんは、場所柄何か後ろめたい気分に駆られるようなお以勢さんを引っ張るようにしてずんずんと上がってまいられました。
 小雪の部屋の小さな違い棚には、赤漆で縁取りしている丸い色紙入れに、お喜智さまの、『なごりなく消えしは春の夢なれや卯の花垣につもる白雪』というお歌が入れてありました。その下に置いてある備前の花瓶には卯の花がこぎれいに活けてあり、その薄紫の長く垂れ下がっている花房と額斑の赤色とが美しく調和され、部屋全体に、新緑の清々しい初夏が鮮明に描き出されているような感じが匂い発っています。
 「まあ、大奥様のお歌が」と、目ざとく眼にされたお以勢さん
 「あああれ、この前、小雪ちゃんに頼まれていた大奥さまのお歌を貰ってきてあげたの。あれだわね」
 お須香さんは『小雪ちゃん』と「ちゃん」付けで小雪の事を呼ぶようになっていました。
 「座らせて頂くは」と、お山の緑がよく見えると所を選んで、ご自分で隅に置いてあった座布団を片手でひょいと掴み上げてお座りになるお須香さん。「あなたもここへどうぞ」と、お以勢さんにも自分の横を指差します。
 そこへ、「ようこそ・・・」と、お粂さんがしおらしくもお茶など運んできてくれるのでした。二言三言お須香さんと、あいさつの言葉を交わしてお粂さんは、とっとと下に下りて行かれました。
 軟らかい初夏の香が、細谷の流れの音に乗って、部屋一杯に入り込んできます。
 「今日は、京での新之介をお聞きに来ました。あなたが見たままのことをこの以勢とともに聞かせていただくわ。よろしく頼むは小雪ちゃん」
 ぴょこんと頭をお下げになします。横のお以勢は『よろしくお願いします』と深々とお辞儀をされました。二人の姿があまりにも違うのに小雪のほうも返って面食らうばかりです。
 「前々から、お以勢さまのお前で、お話しなくては、と覚悟はしていたのどすが、あまりにもむうごうて残酷なお話しどすさかい、できたらそんな機会がなければと、思うておりました。・・・・・・・・・でも、とうとうその日が・・・」
 それから小雪は、ゆっくりとゆっくりと、始めて新之介さまと会ったときから順に話していきました。
 母がなくなり、否応なしに、この苦界に身を投げ込まなくなって半年も過ぎた頃でしょうか。あの林さまに、母の縁から、お世話頂くようになってから間もない時だったと思います。時は、丁度、秋たけなわ、もみじがとっても綺麗に京のお山やお里を飾りつけたてていた頃でした。林さまは、同郷のお人とお話があるとかで、私の京のお店「河内屋」でお会いなされました。大藤さま、それとお連れの若い新之介様と連れ立ってお越しくださいました。私がお聞きしていても分らないような、大変に難しいお話のようでした。遠い遠いお国の真っ黒いお船だとか、天子様だとか、将軍様だとかでした。
 その途中、急に、林さまが、何か大藤さまとお二人だけで話さなければならないことがあるとかで、新之助さまと私を、廊下の向こう側の小部屋にお人払いなさいました。新之助さまとたった二人だけで閉じ込められるようにして、その小部屋で、お二人のお話が終わるまで待っておりました。
 今まで、私は、こんな身ですから、多くの男の人にお相手させてもらいました。いつも、その男の人たちは、誰も彼もが皆同じように、私と二人だけになると、その目は自分の色欲でしょうか、私の胸や腰やその辺りに注ぎ、すぐに抱き寄せて己の欲望だけをひたすら求められるのです。
 でも、新之介さまは、私がお側にいることすらお忘れかのように両腕をお組になったままじっといつまでも、おみ足を崩されずに正座しておられます。
 「お茶でもいかがどす」
 「いや何も構わんでください。わたしは女の人と話しをするのは慣れてないのであなたとお話しするのが怖くて。・・ごめんよ・・・・・・」
 「怖いだなんて、あなたってかわったおかたどすな」
 新之介さまは、お部屋の床のお掛け軸でしょうか、じっと眺めてお出ででした。
 それからしばらく二人とも黙って座っていました。風がふゅうと吹いて。新之介様がみておいでた床の軸がガシャとかいう音を立ててわずかに揺れ動いたように思えました。それがきっかけとなって、怖いとおっしゃっていたお人が、私なんか、とんと無視された様に、お独り言のようでもありましたが、次々に堰を切ったように話されだしました。
 
 「何時の頃からだったかは分らないのですが、多分生まれた時からではなかったかと思うのですが、あまり人と話をするのが好きではなかったのです。物心ついた7,8歳の頃だったと思いますが、それまで仲良しの友達から、突然、『お前は足軽の子だ。もう一緒には遊ばん、付き合うのはやめる』といわれたのです。どうして、どうしてと、自分に問うてみたのですが、どうしてもその意味が分りません。母に尋ねても『あの子はご重役様のお子様だ。家柄が違うのだ』と、取り合ってくれません。剣術も、字だって私のほうは沢山知っているし、誰よりも物知りだと、いつも先生にほめられていました。それなのに、どうして、足軽と言う事だけで、家柄が違うという事だけで人をのけ者にするのか、考えても考えても分りません。それから、特に人と話をするのが嫌いになったように思います。」
 私も、こんな世界にいる女として、あそびめとしてしか見られない暮らしに慣れているものですから、この新之助さまのお心がよく分るように思えました。
 「それ以来、友達を極端に私の方から避けるようになったのです。いつも一人で書物を読んおるか、剣術の練習をするか、足守川で釣りをするかしていました。
 剣術は、顔をお面で隠しているので話をしなくてすみます。だから、余計励みました。同じぐらいの若者には誰にも負けない自信がありました。でも、私が無口になればなるほど、私の周りから上役の子供達だけでなく、同輩の友達までもどんどん離れていきます。それを、決して寂しいとも辛いとも、思ったことは一度もありませんでした。一人でいることに慣れ切ってしまったのか、一人でいることのほうが、かえって楽しい様にさえと思えました。
 あれは、15歳の時でした。私の家のすぐ隣に小さい時から何時もよく遊んでいた、ちょと可愛らしい女の子がいました。好きだとか嫌いだとかそんな気は、私にはなかったのですが。足守川で、例の通り釣りをしていました。ふと気がつくと向こうの葦の茂みの方でなにやら人の気配がします。一人ではなく、どうも気配からすると二人組らしいのです。何事かと、その方に近づいていきました。そこに見たものは、かって私を「足軽とは遊ばん」と言った重役の息子と私の隣の女の子とが互いにきつく顔をくっつけるようにして抱き合っていました。何か一瞬悪い事を見てしもうたな、と思ったのですが、そのまま竿も篭も釣った鮒もそこに放り投げて走り帰って来ました。それからは何をする意欲も体から抜けてしまったように、これを「腑抜け」というのでしょうか、一日じゅう何処へも出ずにじっと部屋の中にこもりきりでした。母親が随分と心配してくれていたようですが、生憎く、うちは8人兄弟です。1人や2人のために関わっている時間はありません。結局、放っておかれたのではないかと思います。それから半月ぐらい経った時でしょうか、関といわれる道場の剣道の師範から「話がある。すぐ出て来い」と伝言があり、髪の毛もぼうぼうに伸びほうだいの自分の姿を見て、仲間達がどう言うかと、少々心配でもあったのですが、そこにじっとしていても明日は決して来ないと思い、渋々ですが、『えい面倒だ。どうにでもなれ』と、そのままの姿で、道場に出向いたのです。この己が姿を見たら、母はどう言うかなと、一瞬、心を横切ります。
 案内を請うと、かっての仲間も、一寸驚いた様子を見せましたが。先生に知らせたようです。再び、案内されて私宅へと導かれました。
 『ほう、大分、やけになっているようじゃな。道を志して、悪衣悪食を恥ずる者、未だ与に議るに足らずか。まあえ-、お父上も随分とご心痛のようじゃ。どうした。そんなに足軽が嫌いか。お前の剣術の腕前は相当なもんだ、と。わしはおもうておる。そのまま放りぱっなしにしておくわけにもいかん。わしに任さんかお前の身柄を・・・・』
 やや置いて
 『わしが学問は余り知っとらんから詳しくは知らんのじゃが。孔子様があるときこんな事を言われたとお前も知っていると思うが『論語』という本に出ているそうじゃ。・・・『位なきを患えずして、立つ所以を患う』というのがあるそうだ。知とるじゃろう。足軽がどうした、そんなものはつまらんつまらん。勉強せえ、そうすりゃひとりでに偉くなれるんじゃそうな。敬学館の三宅さんが、お前はなかなか見所がある。江戸かどこかで勉強をさせたい、と、言われておった。勉強してみんか。吉備津に大籐高尚先生のご養子さんで高雅さんというのがいる。これもなかなか切れもんとわしゃあ見ておる。どうだ、くちうつけたるけえ、行って見んか』
 とても難しい言葉で言われます。新之介様の言われる事を、どうしてだかは分らないのですが、一言一句聞き漏らすまいと、一心に聞いておりました。その言われる言葉一つ一つを胸に丁寧に仕舞い込む様に聞いておりました。
 まあ、そんなことがあって、新之介様は高雅さまのお弟子にならたのだそうです。学問というものが面白くて面白くて仕方なかったとおっしゃられました。その時に和歌もお勉強されたと伺っておりました。どんなお歌を詠まれたかはおっしゃいませんでした。聞いておけばと思いました。
 
 そんな新之助様の小さい時のお話が、次々と続きます。お城の御堀から続いている運河に飛び込んで泳いて、大目玉を食らったという事、犬飼松窓と言う先生の塾へ通う子供と足守川でよく喧嘩した事、そうそう、こんな事もお話してくださいました。青蛙のお尻へ麦の茎を差して腹を膨らして遊んだとか、熟れかけた麦の実をすごいて、口の中に入れてしばらくかんでいたら何かねばねばとして心地よいお餅みたいなものが出来たとか、次から次へとお話はいくらでも出てくるのでした。胸を弾ませながら何時までも何時までも続いて欲しいと思いながら聞いていました。
 あれは3回目にお会いした時の事だと思います。河内屋のお上さんが、高雅様がどうもお命を狙われているようで物騒だと、今夜のお宿を泉屋さんにお願いしたと言われ、その日は皆さんがお会いなさる場所が変わりました。
 その泉屋さんでも、高雅様のお心だったと後で知ったのですが、新之介様とお二人だけの、3度目のお話できました。そこでも、2回目の時にもお聞きしたように思えたのですが、高雅様の心温かな気性やお人柄、また、天子様、公方さま、更に方谷さま、洪庵さまなどについて色々とお話になられました。中でも、『神様は、人の下には人をおつくりにはなられていない』という言葉をお聞きした時は、本当にびっくりしました。私は、いつも一番下の下の罪多い穢れた女どす。それが誰でも同じだなんて、とても信じられませんでした。でも、お喜智さまが、これと同じこといわれたのにはびっくりしました。誰か偉いお人が言われはったそうどすが、こんな世の中が、もう少ししたらきっと来るのだと、新之介様は熱心にお話してくれはりました。
 いつも、きちんと正座したまま、私をあそびめではなく、普通の女として扱ってくれはりました。『こんな男の人が世の中にいらはるの』と、何か愛しいお人のようにおもえてしかたありまへんどした。それから、これは、あの夜、新之介様が初めてお話になったのですが、自分はこれからの世の中で、海の向こうのどこか余所のお国と大きな蒸気船か何かで、商売がしたい。そして、横浜かどこかに大きなお家を立てて、母を楽にしてやるのだと言わはりました。そして、お嫁さんをもらってと、やや赤らんだ顔をしていわはりました。
 まあ無口だなんて、よくおしゃべりされる事と、心の内で楽しくお聞きしていました。それが私のお聞きした新之介様の最後のお言葉でした。
 その泉屋を出ですぐ闇の中に一筋の光が光ったと思った途端に、今でも信じがたいのですが、あのようなむごい事が私の目の前で起きたのです」