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日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

2025/8/31 主日礼拝式(賛美と証し)

2025-08-27 17:27:22 | 教会案内

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主こそ、あなたの生命(いのち)

2025-08-24 14:55:54 | メッセージ
主日礼拝宣教    申命記30章1-4節 11-20節 

本日の箇所は、イスラエルの民が主の約束の地カナンへ入ろうとする前に、モーセを通して与えられた御言葉です。ところが、その記述を読みますと、主はイスラエルの民がカナンの地で主の御言から離れて罪を犯し、懲らしめを受けることを見透かしていたかのように語られています。
そして、後には実際にそのとおりになるのです。イスラエルの民がカナンの地に入り、その12部族連合の時代は主との関係がまだ保たれていました。しかしその後、目に見える王を欲しがるようになります。主は民が王を立てれば民はその奴隷になる、と預言者をとおして忠告なさいます。(サムエル記8章)
しかし民はその声に聞こうともしません。そしてサウル、ダビデ、ソロモンの王国時代、さらに北王国と南王国とに分裂した時代になりますと、益々主から離れて、主の預言者たちの忠告にも聞き従わず主以外の偶像を拝み、主の御言に聞き従わなかったため、北王国はアッシリア帝国によって滅ぼされます。次いで、南王国もバビロン帝国によって滅ぼされ、捕囚として連れていかれることになるのです。

1.「あなたの神」
今日の1-4節からは、そのような民が如何にして神の前に立ち帰り続けるかが記されています。
「わたしがあなたの前に置いた祝福と呪い、これらのことがすべてあなたに臨み、あなたが、あなたの神、主によって追いやられたすべての国々で、それを思い起こし、あなたの神、主のもとに立ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従うならば、あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追いやられたすべての民の中から再び集めてくださる。たとえ天の果てに追いやられたとしても、あなたの神、主はあなたを集め、そこから連れ戻される」。
これは「道を外れていた」と気づいた時には、このように立ち帰りなさい、とのお言葉です。それは私たちにも語りかけられています。
しかし、かの民はその罪の結果、国は滅び、遠い地バビロンの捕囚となり、散らされていきます。しかし主は先ほどの御言葉の約束どおり、70年後にかの民の運命を回復し、解放なさるのです。
主は愛する民が、たとえ天の果てに追いやられたとしても、決してお見捨てにならないお方。この主の比類無き愛を思い起こし、「主に立ち帰れ」と聖書は告げます。

また、この30章において印象的なのは、「あなたの神」という言葉が14回も記されていることです。それは不特定多数にではなく、主は「あなたの神」であり、主なる神さまは「わたしとあなた」という二人称、一対一の関係でこれらのことを語りかけておられる、ということです。
先ほど「平和宣言」の言葉を心に留めましたが。十戒の初めには、「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」との戒めがあります。それはまさに、主なる神と私という関係の中で語られているのです。奴隷の地から救い出された「わたし」と救い出してくださった神である「あなた」。互いに契約を交わした神である「あなた」と「わたし」。これは他に比べることができない関係なのです。ですから「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」との戒めは、いわゆる他の宗教に対する姿勢ではなく、奴隷のように囚われの状態、その罪と滅びから救い出された私が、救い出してくださった神さまに相対して、いかに生きていくのか、ということが語られているのです。それは私たちにとりましては、天地創造の主なる神さまが、その御心の顕れとして御子イエス・キリストを世にお遣わしになり、罪の滅びに死ぬほかない私に代って、イエス・キリストがその罪の代償を支払って死なれたことで、私たちは解放と救いを得て、新しい命に与って生きる者とされたのです。このキリストによって新しい命を受けた者は世にあって、つまずいたり、失敗したり、間違ったりすることはあるでしょう。しかしそのような時、キリスト者、クリスチャンは「神」と「わたし」とのほかに比べようのない関係に与っているという救いの原点を思い起こし、主に罪を悔い改め、立ち帰ることができることは幸いなことなのです。

2.「命の御言」
さて、先に十戒について言及しましたが。
主イエスは、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(マタイ5:17)と語られました。主イエスは律法を完成するために来られたのです。
ただ、注意しなければならないのは、それは律法を厳格に守るとか、もっと人より良い行いをし、多くの成果や結果を出すということではないのです。自分の行いで自分自身を救うと言えるのなら、そもそも救いの神は、その人にとって存在しません。神の恵みはその人に必要ないということですから。十戒は、主なる神さまのお働きと恵みによって、奴隷の地より解放され、救い出された民が、主である神、そして隣人に対してどのように生きていくのか、が語られていると述べました。それを守り行うことは救いの条件ではなく、救い出された者に神が与えられている祝福、命の道です。
11―13節には次のようにあります。「わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものではなく、遠くに及ばぬものではない。それは天にあるものではないから、『だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが』と言うには及ばない。海のかなたにあるものではないから、『だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが』と言うには及ばない」。
十戒、律法の書に記されている戒めと掟は、これは日常や現実からかけ離れているものではありません。奴隷の状態から人々を解放し、救い出し、導いて下さった主なる神さまは決して遠いところにではなく、私たち人間が生きる日常とその現実の世界のただ中にあって、豊かにお働きなられる神なのです。主に救われ、新しい命を受けた私たちは、日々の生活の中で心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くして主なる神を愛して日常を生きるのです。
十戒の後半の戒めは、人と人との関係についてのものですが。それは、暗闇の中から救い出されたあなた、解放されたあなたは、自分と他者の尊厳を守り、平和に生きるだろう、との主の命に生きる者への呼びかけなのです。
14節「それらの御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行いなさい。」とあります。
1日のうちに皆さんは聖書の御言葉にどれくらい触れ、神との対話の時を持たれているでしょうか。聖書を通読しておられる方や聖書の御言葉から聞いてデボーションをされている方もいらっしゃるでしょう。はこぶねかふぇでは「聖書アプリ」が紹介され、御言葉に触れ、味わうことから1日を初めている方もおられるでしょう。週報の一週間に渡る聖書箇所を1日ごとに読まれて礼拝に臨んでいる方もおられるでしょう。聖書の御言葉を食事をするように日毎に味わい、神と対話する日常を重ねる中で、平安や喜びに満たされたり、又慰めや励まされたり、主の存在が身近に感じられるようになるでしょう。何より私たちには素晴らしいお手本があります。
十戒、律法の書に記されている戒めと掟、神の御心を表わす御言葉を完全なかたちで実現されたお方は、唯、主イエス・キリストお一人であります。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父(神)の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ1章14節)とあります。そのイエス・キリストについてヨハネ福音書は、「わたしこそが道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)と記します。

本日の30章には、「あなたの神」という言葉が何度も繰り返されて語られていることを先に申しましたが。もう一つ特徴的なのは、「今日」という言葉が7回も繰り返し語られていることです。
つまり、主なる神さまの祝福と恵み、その幸いなるメッセージは、ただその時代の人々だけに語られたのではなく、後生の人たちにも、そして今日の時代に生きる人たちに向けても、「今日、今この時、神に立ち帰って生きよ」と語りかけているのです。
使徒パウロは次のように述べました。「『恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた』(イザヤ49:8)と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日」。(Ⅰコリント6:2)
まさに、今こそ、この時こそ、主の恵み、救いの日であるということを、主に.感謝と賛美をもって受け取っていきましょう。

  • 「あなたは命を選び、子孫も命を得るようにしなさい」
最後に19-20節をお読みして本日の宣教を閉じます。
「わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主に聞き従いなさい。それがまさしくあなたの命であり、あなたは長く生きて、主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた土地に住むことができる」。
主は民だけでなく、その子孫、後世の時代の人たちにも、御声を聞き、主に聞き従いなさい。死と呪いではなく、命と祝福を選び得るようにと、お命じになられます。
岩波訳聖書には20節が次のように訳されています。
「あなたの神ヤハウェを愛し、その声に聞き従い、ヤハウェにつき従うためである。ヤハウェこそあなたの生命(いのち)」。
つき従うことが命というのではなく、愛と恵みの救いの神こそ、あなたの生命(いのち)なのです。
なんと、何と力強い御言葉でしょう。私の救いの神こそ私の生命(いのち)であるのです。
この地上にある命は、私たちの救い、主イエス・キリストであることに思いを馳せ、すべての命が主の命と祝福を選び取り、神との和解、人と人、人と被造世界との和解による主の平和・平安が築かれていきますようにと切に願います。

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2025/8/24 主日礼拝式

2025-08-22 17:46:30 | 教会案内

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演劇・番紅花色の扉(サフランいろのとびら)9.13主催・桜人企画

2025-08-20 07:49:26 | イベント

*第一章:演劇「番紅花色の扉」 作・演出 馬場さくら・桜人企画代表
 
 台湾人のツアイ・クンリンさんの史実を描いたエンターテイメントコメディ
 出演  今井敦 小坂慶 十朱美羽 西山祥弘 はつえ 山内美果(Zero project)

*第二章:トークライブゲスト
    
    曹鉄榮さん(台湾)  
   
   音楽ゲスト・ギター演奏&歌   矢谷トモヨシさん

    乞ご期待
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あなたの神、主を畏れて歩め

2025-08-17 17:18:00 | メッセージ
主日礼拝宣教    申命記10章12-22節  

先週の8月15日は80年目となる終戦記念日を迎えました。先の大戦のような惨禍が二度と繰り返されませんように願い祈ります。報道で、先の戦争の体験者が日本の総人口の僅か6%となったということを知りまして、驚きました。又、先の戦争について若い世代や子どもたちに語り伝えられる機会も大変少なくなっているということでした。知るべきは、戦争というものが如何に悲惨で人の尊厳を奪い、人間性を損なう愚かな行為である事実です。日本が近隣アジア諸国への侵略の歴史も忘れてはならない事実です。神の前に悔い改め、和解に与り、平和を築いて責任があります。戦争の悲惨さ、愚かさについて語り継ぎ、風化させないことがほんとうに重要です。過去の出来事を教訓として活かすことが大切であります。今世界の各地で戦争や紛争によって尊い命が奪われ、又命の危機に瀕しています。殊に小さな子どもたちが飢えと渇き、飢餓の中で命の危機にさらされ、とても同じ人間の仕業とは思えないことが起こっています。しかしそれが戦争なのです。一刻も早く平和的解決へと世界が舵をきることができますよう願います。先ほどは、フランチェスコの「平和の祈り」を共にささげました。このような祈りが世界中に広がっていきますよう切に願います。

さて本日は先ほど読まれた申命記10章の箇所から、「あなたの神、主を畏れて歩め」と題し、御言に聞いていきたいと思います。
主はかつてエジプトの奴隷の状態から救い出したイスラエルの民に、ホレブの山でモーセをとおして主の戒めを授け、その民を教え導こうとされました。ところがモーセが山から降りてくると、民は金で造った子牛の偶像を拝み、みだらな祭りに興じていたのです。主は、神ならざるものを崇拝する民を嘆き、怒りを発せられたのです。しかし、モーセの必死のとりなしによって、主は民に石の板に記された「十戒」を授けられたのです。こうしてかの民は「主の約束の地」に向かって旅立ちます。
しかし、その荒れ野の険しい旅路において飢え渇きを経験するなかで、人々は自分たちを奴隷の状態から解放し救い出してくださった主に対して、エジプトにいたほうがまだましであったと、様々な不平不満をぶつけますが。それでも主は天からマンナを降らせ人々を養われます。そして、約束の地を得させようとその地を偵察させようとしますが、多くの人々は主に信頼することなく、目の前にある事態にひるみ、主の御心に逆らうのです。その結果民は荒れ野をさまようように40年間神の民とされる訓練の日々を送り、出エジプトを経験した民の第一世代は主の約束の地に到達することができず荒れ野で死ぬのです。

今日の申命記10章は、今まさに主の約束の地に入ろうとする第二世代の人たちに主が再び戒めを授け、それを木の板に書き記させて、今一度「神が命じられること」を語り継ぐという個所であります。
この申命記の「命」は主の戒め、十戒のことであり、「申」は、重ねてとか、再び申し述べられるという意味で、申命記と呼ばれているのですが。」そこには、イスラエルの民のかつての出来事を教訓とし、過ちを繰り返すことなく、主の戒めに聞き従うことこそ、主が与えようとしておられる「幸い」に与ることができると、語られているのです。それは主に望みをおいて生きる私たちにも語りかけられているメッセージでありますので、共に耳を傾けていきたいと願います。

ではその本日の御言に聞いていきましょう。
10章12節において、モーセは、「イスラエルよ、今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。」と問いかけます。
出エジプトを経験し、奴隷の状態と死の状態から主の解放の御業に与った第一世代の人たちに求められていたのは、主への感謝と信頼であったでしょう。しかし不満と不信に陥った時、荒れ野をさまよい、主の約束の地に入ることができなくなったのです。ただ、主を信頼し従ったヨシュアとカレブだけが主の約束の地に入ることができました。
第二世代に主が求めておられることは何でしょう。彼らは第一世代の親たちのように解放された、救われたという思いは持ち辛かったかも知れません。しかし、主の救いと解放、その選びを継承しつつ、「ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え」ることを主はあなたに求めておられると、モーセは語ります。
17節にも「畏るべき神」、20節でも、「あなたの神、主を畏れ、主に仕え、主につき従ってその御名によって誓いなさい。」とありますように。かの民にとって重要なのは、「主を畏れる」ことだと語られています。
具体的にそれは12節後半-13節にありますように、「主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、主の戒めと掟を守る。」そのことが「主を畏れて歩む」ことに直結して語られるのです。
前の8章11節以降には次のように記されています。
「わたしが今日命じる戒めと法と掟を守らず、あなたの神、主を忘れることがないように注意しなさい。あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、牛や羊がふえ、銀や金が増し、財産が豊かになって、心おごり、あなたの神、主を忘れることがないようにしなさい。主はあなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出し、炎の蛇とさそりのいる、水のない渇いた、広くて恐ろしい荒れ野を行かせ、硬い岩から水を湧き出させ、あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。それはあなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった。あなたは、「自分の力と手の働きで、この富を築いた」などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである。」(8:11-18)
主はかの民を、「遂には幸福にするために」教え導き、幸いを与えるのです。しかし、これらはかの民が自分たちの力で得たなどと考え、おごり、高ぶって主を畏れ敬うことがなくなるなら、やがて主の民の祝福は損なわれてしまうのです。
先週は「神の宝の民」としての選びについて7章のところを読みましたが。それは民が何か他の民より優れて力があったからではなく、神に救いを求め祈るしかない小さく弱い民に、主が心惹かれて選ばれた。唯、その主の深い憐れみにこそ、主が選んだ理由でありました。優秀であったとか、立派だったということではなく、唯、小さく弱い者に主が心惹かれた情熱的な愛ゆえの選びであったということを申しました。
ヤコブ(イスラエル)の一族たちが飢饉のためにエジプトの総理の地位にあったヨセフのもとに難を逃れてエジプトに移り住んだ来た時は、まあ70人ぐらいであったとも言われていますが。エジプトにおいて彼らは寄留者であり奴隷でした。しかし主はあの過越しの出来事を通して、民をエジプトから導き出し、解放し、救い出されるのです。その民は益々数を増していきます。それは第一世代から第二世代へと移行しさらに強大になり、遂に主の約束の地の豊かさに与るほどのもになるのです。それらはすべて、主ご自身がアブラハムとその子孫に約束なさったことを主が信実に果たしてくださった主の愛と恵みによるのです。
先の8章には、主を忘れることに対する厳しい警告がなされていますが。それは、かのイスラエルの民がその豊かさにかまけ、それを自分たちで築いたものとおごり高ぶり、主を忘れ、自ら滅びを招くことがないようにと警告しているのです。

17節以降のところでモーセは、主なる神について次のように語ります。
「あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神」。
この主なる神は唯一無二なるお方であられますが。特徴的なのは「人を偏り見ない」(17)、つまり人を外がわで判断されるのではなく、心を見られて判断される方であられるのです。旧約聖書の箴言5章21節に「人の歩む道は主の御目にある。その道を主はすべて計っておられる」とあります。
又16章2節には「人の道は自分の目に清く見えるが、主はその精神を調べられる。」とあります。
主は私たちの心のうちにあることすべてを偏り見ることなく、計られておられるのです。

さらに、主は18節「孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。」とあります。この地上のあらゆる不正に対して公正をもって正し、無慈悲に対して慈愛をもって臨まれるのです。実に主はその民がエジプトの地で寄留者、そして奴隷として不正に扱われ、無慈悲な扱いをされた時、公正と慈愛をもって解放し、救い出し、食物と衣服を与えてくださったのです。この主を畏れ敬い、19節「あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。」ことを忘れるな、とモーセは告げます。

本日の10章は「神が求められていること」について、読み進めてまいりましたが。その一つの重要なメッセージは、神の民とされた第二世代の人たちが主を畏れ敬って歩むことの奨めでした。
それは、「心を尽くし救いの主に仕え、戒めと掟を守る」ことと直結しています。2つの戒めと掟の集約としての「心を尽くし精神を尽くし思いを尽くしてあなたの神を愛する」「自分を愛するように隣人を愛する」そのことを心に留め、守り行うようにと、主は私たち主によって救いを見出された者に対しても招かれるのです。
今週も救いの主を畏れ敬いつつ、世に遣わされてまいりましょう。
コへレート12章12-13節の御言を読んで、祈ります。
「それらよりもなお、わが子よ、心せよ。書物はいくら記してもきりがない。学びすぎれば体が疲れる。すべてに耳を傾けた結論。『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて。
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2025/8/17 主日礼拝式

2025-08-13 16:24:48 | 教会案内

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はこぶねかふぇ たこ焼きランチ 8.10

2025-08-11 09:05:18 | イベント

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小さく弱い宝の民

2025-08-10 15:31:58 | メッセージ
主日礼拝宣教    申命記7章6-11節 

本日も平和月間として、「平和のための祈り」が献げられました。その祈りの中で、「地には争い、戦いが満ちています。そして、争いの地で最も苦しんでいるのは、弱い立場に置かれた人々です。強い立場に立つ者、権力を持つ者たちは守られ、弱い立場の者たちは奪われ、傷つけられています。人間の尊厳が奪われ、命の危機にさらされています。主よ、国々の争いを裁き、多くの民を戒めてください。」と祈りの言葉がありました。
軍事力に依り頼んで行われている戦争や紛争が世界各地に起こっています。先週は今から80年前にアメリカ軍の核爆弾を積んだ戦闘機が広島と長崎の中心街に原爆を投下し、これによって一瞬にして多くの尊い市民の命が失われ、またその後遺症で苦しむこととなった日、このような過ちが二度と繰り返されないために核兵器廃絶を訴えつつ、祈りに覚える平和祈念式典が被爆地の広島と長崎で行われました。祈りをともにされた方もおられるでしょう。
現在、世界の核兵器保有数は12,241。その中には原爆の数百から数千倍の威力をもつ水爆も多く含まれているとのことです。はじめは自衛のため、抑止力のため、さらに威嚇のためだとしていたことが戦争となり、しまいには核兵器が使われる戦争になり得るのです。今はコンピュータとかAIの誤認や誤作動、サイバーテロも起こり得ます。核兵器を保有すること事態が人類の滅びに直結しかねないのです。核兵器廃絶は創造主なるお方が造られたこの世界の存続に関わる事の一つであることに間違いありません。
主イエスは、「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」と仰せになりました。私たち一人ひとりがピースメーカー(平和の使者)となって生きることができますように。また、平和を造っていく世代が育っていきますようにと願います。
今週の15日には80年目となる終戦記念日を迎えます。世界各地で起こっている戦争と紛争が一刻も早く停戦するよう主に祈り続けてまいりましょう。

本日は申命記7章6-11節より「小さく弱い宝の民」と題し、御言を聞いてまいります。
この箇所から礼拝で何度か宣教いたしましたが。主なる神が「ご自分の宝の民とされた」というはじめの6節に、「あなたは、あなたの神、主の、聖なる民である。」とありますが。この「聖なる民」とは、主なる神が「あなたを特別に選び、取り分けた」という意味であります。それはご自身の「宝の民」とするためでありました。
では、どうして主なる神がこの民を選び、取り分けたのでしょうか。
そのことについては、7節に「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちは他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。」からだと言うのです。
この「貧弱」という言葉は一般的に身体的な虚弱さを指す言葉ですが。しかし原文からすれば「最も数が少なかった」という訳が適切だということで、他の聖書ではそのように訳さていることが多いです。
あなたがたはあらゆる民族野中で、最も数が少なかった。最も弱く小さい存在であったから、主が深く憐れまれ、いつくしんで、愛せずにはいられなかったからです。
それは、8節にあるように主が「彼らの先祖に誓われた誓いを守っておられる」からです。その主の選びはアブラハムとの約束から始まり、その子イサクが継承し、継いでヤコブから生まれたイスラエルの12部族に受け継がれました。そしてその民がエジプトに寄留し、奴隷のように虐げられ、父祖の神、主に叫び求めると、主が力ある御手をもって、かの民をエジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのです。
だから、主は「私があなたがたを生んだ」というように、かの民を愛していつくしまれるのです。
親は赤ちゃんを、その子が何か優れているとか、才能があるとかという理由で愛するでしょうか。たいていの親は、ただ無条件に愛するのではないでしょうか。本能的に小さく弱いその存在がただ愛おしいという事以上の理由はないでしょう。主は親が子を憐れまれるように、いや、それにまさるいつくしみのゆえに、ご自身が生み出されたその小さく弱い存在を、値なしに愛されるのです。引き受け、包みこんでいく愛であります。囚われの奴隷の状態からの解放。その救いを通して、主はその愛のゆえに、かの民に契約の約束を果たされるのです。主は真に信実なるお方であります。
私たちも、主イエス・キリストのあがないによって罪とその囚われの状態から救い出されました。主は新たなるその救いの契約によって、今日私たちも親にまさる愛といつくしみをもって「宝の民」とし、私たちを導いておられます。
一般に「宝」といえば、何ものにも替えることのできないようなものでありましょう。それは大概、すばらしい高価なものではないでしょうか。一般社会では何か利益をもたらすとか、貢献できるというような能力や才能のある人が、そのように呼ばれることが多いでしょう。
しかし、主は、あなたがたが何か秀でた能力や才能、又立派であったから宝の民したのではなく、又何か数が多くかったから選んだのではなく、「他のどの民の中で最も数が少なかった。」小さく弱い存在であった。そこに主が心引かれて「宝の民として選ばれた。」理由があるのです。
9節に「あなたは知らなければならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを。」と述べられていますが。実は、これが、主ご自身の「宝の民として選ばれた。」大いなる目的なのです。富んでいる者、満ち足りている者。強靱で、自分の利益を得るために力で支配するものは、神を呼び求めたりするでしょうか。

主イエスは山上の説教(マタイ5章)で、「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人のものである。」「悲しむ人々、は幸いである。その人たちは慰められる。」「柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。」「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」「義のために迫害される人々は幸いである、天の国はその人たちのものである。」などと、主イエスはこの地上にあって弱く小さくされた人々に向けて渾身の思いをこめて語られました。
ここでは、世にあって小さくされた者、正義と平和を主に切に求める弱い立場の人が「神の民」とされる祝福に招かれています。
神はご自身を呼び求める者、小さく弱い者を通して、解放と救いをあらわされます。

もう一度繰り返しますが、9節に「あなたは知らなければならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを。」とあります、このことが重要なのです。
神が選んだ宝の民に祝福が語られていますが。主の憐みといつくしみによて神に選ばれた宝の民は、唯、主なる神に信頼して生きるところに、神の祝福、幸いがあるのです。
そして、まさに、この弱く小さい宝の民を通して、主なる神の恵みと力とがゆたかに顕わされていくということであります。

使徒パウロは、自身が抱えていた病気がいやされるために徹底的に主に祈ったとき、主のこのような御声を聞きました。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」。神の恵みと力とが彼の弱さの中でこそ十分に顕わされるというのです。キリストの福音を世界に伝えたそのパウロはコリントの信徒に対して次のように言いました。新共同訳改訂版でお読みします。「きょうだいたち、あなたがたが召されたときのことを考えてみなさい。世の知恵ある者は多くはなく、有力な者や家柄のよい者も多くはいませんでした。ところが、神は知恵ある者を恥じ入らせるために、世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、世の弱い者を選ばれました。また、神は世の取るに足りない者や軽んじられている者を選ばれました。すなわち、力ある者を無力な者にするため、無に等しい者を選ばれたのです」。
弱く小さい宝の民を通して、主なる神の恵みと力とがゆたかに顕わされていく、ということです。
この日本においてクリスチャンはわずか1%に満たず。そのうち礼拝を捧げ、教会につながっている人はごく少人数であります。しかしその中で、主に向かって義と平和、慰めと憐み、いつくしみを祈り、とりなし続ける私たちでありたいと願います。

11節「あなたは、今日わたしが、『行え』と命じた戒めと掟と法を守らねばならない」。
これは先週も読みました「十戒」の契約についてであり、それは又キリストの新しい契約に生きる私たちにとりましても解放と救いの主、神への愛、隣人への愛の戒めであります。
それは12節以降にありますように、この神への愛、隣人愛をもって主の御言に聞き従い、誠実に御心に生きていく者を、主御自身が顧みて、いつくしみを注ぎ、愛し、祝福してくださるという約束です。今週もこの主の愛に応え、主の御心を求め、生きる者とされてまいりましょう。



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賛美で綴るイエスの生涯 伝道コンサート 9.6 IN OSAKA

2025-08-07 19:27:57 | イベント
 

ご興味のあるかたは、どうぞお越しください。





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2025/8/10 主日礼拝式

2025-08-06 21:54:24 | 教会案内

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