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日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

2025/8/17 主日礼拝式

2025-08-13 16:24:48 | 教会案内

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はこぶねかふぇ たこ焼きランチ 8.10

2025-08-11 09:05:18 | イベント

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小さく弱い宝の民

2025-08-10 15:31:58 | メッセージ
主日礼拝宣教    申命記7章6-11節 

本日も平和月間として、「平和のための祈り」が献げられました。その祈りの中で、「地には争い、戦いが満ちています。そして、争いの地で最も苦しんでいるのは、弱い立場に置かれた人々です。強い立場に立つ者、権力を持つ者たちは守られ、弱い立場の者たちは奪われ、傷つけられています。人間の尊厳が奪われ、命の危機にさらされています。主よ、国々の争いを裁き、多くの民を戒めてください。」と祈りの言葉がありました。
軍事力に依り頼んで行われている戦争や紛争が世界各地に起こっています。先週は今から80年前にアメリカ軍の核爆弾を積んだ戦闘機が広島と長崎の中心街に原爆を投下し、これによって一瞬にして多くの尊い市民の命が失われ、またその後遺症で苦しむこととなった日、このような過ちが二度と繰り返されないために核兵器廃絶を訴えつつ、祈りに覚える平和祈念式典が被爆地の広島と長崎で行われました。祈りをともにされた方もおられるでしょう。
現在、世界の核兵器保有数は12,241。その中には原爆の数百から数千倍の威力をもつ水爆も多く含まれているとのことです。はじめは自衛のため、抑止力のため、さらに威嚇のためだとしていたことが戦争となり、しまいには核兵器が使われる戦争になり得るのです。今はコンピュータとかAIの誤認や誤作動、サイバーテロも起こり得ます。核兵器を保有すること事態が人類の滅びに直結しかねないのです。核兵器廃絶は創造主なるお方が造られたこの世界の存続に関わる事の一つであることに間違いありません。
主イエスは、「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」と仰せになりました。私たち一人ひとりがピースメーカー(平和の使者)となって生きることができますように。また、平和を造っていく世代が育っていきますようにと願います。
今週の15日には80年目となる終戦記念日を迎えます。世界各地で起こっている戦争と紛争が一刻も早く停戦するよう主に祈り続けてまいりましょう。

本日は申命記7章6-11節より「小さく弱い宝の民」と題し、御言を聞いてまいります。
この箇所から礼拝で何度か宣教いたしましたが。主なる神が「ご自分の宝の民とされた」というはじめの6節に、「あなたは、あなたの神、主の、聖なる民である。」とありますが。この「聖なる民」とは、主なる神が「あなたを特別に選び、取り分けた」という意味であります。それはご自身の「宝の民」とするためでありました。
では、どうして主なる神がこの民を選び、取り分けたのでしょうか。
そのことについては、7節に「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちは他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。」からだと言うのです。
この「貧弱」という言葉は一般的に身体的な虚弱さを指す言葉ですが。しかし原文からすれば「最も数が少なかった」という訳が適切だということで、他の聖書ではそのように訳さていることが多いです。
あなたがたはあらゆる民族野中で、最も数が少なかった。最も弱く小さい存在であったから、主が深く憐れまれ、いつくしんで、愛せずにはいられなかったからです。
それは、8節にあるように主が「彼らの先祖に誓われた誓いを守っておられる」からです。その主の選びはアブラハムとの約束から始まり、その子イサクが継承し、継いでヤコブから生まれたイスラエルの12部族に受け継がれました。そしてその民がエジプトに寄留し、奴隷のように虐げられ、父祖の神、主に叫び求めると、主が力ある御手をもって、かの民をエジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのです。
だから、主は「私があなたがたを生んだ」というように、かの民を愛していつくしまれるのです。
親は赤ちゃんを、その子が何か優れているとか、才能があるとかという理由で愛するでしょうか。たいていの親は、ただ無条件に愛するのではないでしょうか。本能的に小さく弱いその存在がただ愛おしいという事以上の理由はないでしょう。主は親が子を憐れまれるように、いや、それにまさるいつくしみのゆえに、ご自身が生み出されたその小さく弱い存在を、値なしに愛されるのです。引き受け、包みこんでいく愛であります。囚われの奴隷の状態からの解放。その救いを通して、主はその愛のゆえに、かの民に契約の約束を果たされるのです。主は真に信実なるお方であります。
私たちも、主イエス・キリストのあがないによって罪とその囚われの状態から救い出されました。主は新たなるその救いの契約によって、今日私たちも親にまさる愛といつくしみをもって「宝の民」とし、私たちを導いておられます。
一般に「宝」といえば、何ものにも替えることのできないようなものでありましょう。それは大概、すばらしい高価なものではないでしょうか。一般社会では何か利益をもたらすとか、貢献できるというような能力や才能のある人が、そのように呼ばれることが多いでしょう。
しかし、主は、あなたがたが何か秀でた能力や才能、又立派であったから宝の民したのではなく、又何か数が多くかったから選んだのではなく、「他のどの民の中で最も数が少なかった。」小さく弱い存在であった。そこに主が心引かれて「宝の民として選ばれた。」理由があるのです。
9節に「あなたは知らなければならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを。」と述べられていますが。実は、これが、主ご自身の「宝の民として選ばれた。」大いなる目的なのです。富んでいる者、満ち足りている者。強靱で、自分の利益を得るために力で支配するものは、神を呼び求めたりするでしょうか。

主イエスは山上の説教(マタイ5章)で、「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人のものである。」「悲しむ人々、は幸いである。その人たちは慰められる。」「柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。」「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」「義のために迫害される人々は幸いである、天の国はその人たちのものである。」などと、主イエスはこの地上にあって弱く小さくされた人々に向けて渾身の思いをこめて語られました。
ここでは、世にあって小さくされた者、正義と平和を主に切に求める弱い立場の人が「神の民」とされる祝福に招かれています。
神はご自身を呼び求める者、小さく弱い者を通して、解放と救いをあらわされます。

もう一度繰り返しますが、9節に「あなたは知らなければならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを。」とあります、このことが重要なのです。
神が選んだ宝の民に祝福が語られていますが。主の憐みといつくしみによて神に選ばれた宝の民は、唯、主なる神に信頼して生きるところに、神の祝福、幸いがあるのです。
そして、まさに、この弱く小さい宝の民を通して、主なる神の恵みと力とがゆたかに顕わされていくということであります。

使徒パウロは、自身が抱えていた病気がいやされるために徹底的に主に祈ったとき、主のこのような御声を聞きました。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」。神の恵みと力とが彼の弱さの中でこそ十分に顕わされるというのです。キリストの福音を世界に伝えたそのパウロはコリントの信徒に対して次のように言いました。新共同訳改訂版でお読みします。「きょうだいたち、あなたがたが召されたときのことを考えてみなさい。世の知恵ある者は多くはなく、有力な者や家柄のよい者も多くはいませんでした。ところが、神は知恵ある者を恥じ入らせるために、世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、世の弱い者を選ばれました。また、神は世の取るに足りない者や軽んじられている者を選ばれました。すなわち、力ある者を無力な者にするため、無に等しい者を選ばれたのです」。
弱く小さい宝の民を通して、主なる神の恵みと力とがゆたかに顕わされていく、ということです。
この日本においてクリスチャンはわずか1%に満たず。そのうち礼拝を捧げ、教会につながっている人はごく少人数であります。しかしその中で、主に向かって義と平和、慰めと憐み、いつくしみを祈り、とりなし続ける私たちでありたいと願います。

11節「あなたは、今日わたしが、『行え』と命じた戒めと掟と法を守らねばならない」。
これは先週も読みました「十戒」の契約についてであり、それは又キリストの新しい契約に生きる私たちにとりましても解放と救いの主、神への愛、隣人への愛の戒めであります。
それは12節以降にありますように、この神への愛、隣人愛をもって主の御言に聞き従い、誠実に御心に生きていく者を、主御自身が顧みて、いつくしみを注ぎ、愛し、祝福してくださるという約束です。今週もこの主の愛に応え、主の御心を求め、生きる者とされてまいりましょう。



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賛美で綴るイエスの生涯 伝道コンサート 9.6 IN OSAKA

2025-08-07 19:27:57 | イベント
 

ご興味のあるかたは、どうぞお越しください。





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2025/8/10 主日礼拝式

2025-08-06 21:54:24 | 教会案内

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主の御救いを想起する

2025-08-03 17:06:24 | メッセージ
主日礼拝宣教    申命記5章1-15節 

先週は本当に暑かったですね。大阪府枚方市で観測史上最高の39.8℃が記録されたとのことですが。さらに兵庫県丹波市では国内観測史上最高の41.2℃を記録したそうです。教会のアルミ製ゲートに日中手が触れるとまるでフライパンのように熱くて火傷しそうです。日中はお風呂の中にいるような状態です。このまま温暖化が進めば一体どうなるのでしょう。環境保全に努めまければ、聖書にあるとおり「地は燃える炉のようになって」誰も生き残れないでしょう。そうした中今日も暑いですが、私たちが礼拝を捧げるため集うことができたのは本当に幸いなことですし、オンラインでつながっている方も共に礼拝を捧げることができて感謝です。お仕事や諸事情で祈りつつ過ごしておられる方もいらっしゃいます。どうか今週も主の守りと祝福がともにありますよう、お祈りします。
先週は又、ロシアのカムチャッカ半島で大きな地震が起こり、その影響で日本列島にも津波警報が出されました。大きな災害に至ることはありませんでしたが。津波警報を聞いて東日本大震災や能登半島地震を思い出し、脅威を感じた方も多くおられたのではないでしょうか。一方で、そうした過去の出来事を心に留め、それを教訓として、迅速な避難行動を取られた方が多くおられた、と報道で伝えていました。そこには「忘れない」「学び」「備える」という3つの事が活かされていることがわかります。それは、今を生きる私たちにとって重要なことでありましょう。

本日から5回に亘り、礼拝では旧約聖書の申命記を読んでいきますが、今日は先ほど読まれました5章1-15節の箇所より「主の御救いを想起する」と題し、共に御言に聞いていきます。
主なる神はエジプトの奴隷の状態からイスラエルの民を解放した後、ホレブの山、シナイ山でモーセを通して、その民に「十戒」を授けられます。それは神の掟と法、神と民との初めの契約でした。それは又、愛する民に祝福を与えるためであったのです。                                  
ところが民の第1世代は神の御心に背き、約束の地に入ることができず、荒れ野で死にました。
しかし、神はその第2世代の民を見守り、遂に約束の地との境、ヨルダン川東部のモアブ迄導かれるのです。
そこでモーセは、この民を呼び集めて言います。
1節「イスラエルと、聞け、今日、わたしは掟と法を語り聞かせる。あなたたちはこれを学び、忠実に守りなさい。」
ここでかの民に神が求められたことは、単に神の御教えを聞くことだけではありません。ここでの聞くとは、学ぶことや実践することも含まれています。5章27節で、民の部族の長たちはモーセに、「あなたが我々の神、主の御もとに行って、その言われることをすべて聞いてください。そして、我々の神、主があなたに告げられることすべて我々に語ってください。我々はそれを聞いて実行します。」と応えるのです。
神の御教えを如何に聞き、自分の状況に照らし合わせて、神と対話しながら祈り考察して実践する。それが信仰の生活です。そうした信仰の生活には、主なる神のお働きを知る体験とともに、生きた証が生まれます。それは単なる形式的宗教ではなく、キリスト者として生きる日々の恵み、幸い、喜びです。さらに5章29節に「どうか、彼らが生きている限りわたしを畏れ、わたしの戒めをことごとく守るこの心を持ち続け、彼らも、子孫もとこしえに幸いを得るように。」とありますように、主なる神はそのことを私たちに対しても願っておられるのです。

さて、さらにモーセは言います。3節「主はこの契約を我々の先祖と結ばれたのではなく、今ここに生きている我々すべて(荒れ野に生き残っている民)と結ばれた。主なる神は山で、火の中からあなたたちと顔と顔を合わせて語られた。」とあります。
主は、かつて39年前にホレブの山(シナイ山)で先の世代の民と契約を結ばれましたが、それを破棄せず、「今ここに生きている者すべてと結ばれたものである。」と言われるのです。かつてシナイ山で主が火の中から顔と顔を合わせて語ろうとしましたが、民は火を恐れたのでモーセが主と民の間に立って主の言葉を告げたのです。モーセが神と民の仲介者としての役割を果たすかたちで、神と民との「十戒の契約」が結ばれたのです。
けれども「今」まさに、約束の地に入ろうとする若い第二世代の民に対して、主は再び一人ひとりに語りかけるように、契約の更新をなさるのです。
この契約の基盤は、6節「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの奴隷の家から導き出した神である。」という契約の前文にあります。これが動かない事実であるから、神は契約を更新してくださったということです。
私たちもそうです。「主イエス・キリストが私の罪のために十字架を背負い、あがないの死をもって、滅びの中から救い出してくださった。」という事実があるから、どんな時もそのところに立ち返って再出発することが赦されているのです。

さて、その十戒の本日は5戒までをお読みしましたが。ご覧になられると、そのすべてが「神とわたし」「神とあなた」という「汝と我」の密接な関係の中で語られています。今日の箇所の中で「あなたの神」という言葉が9回も繰り返し述べられていることからもそれが伝わってきます。
解放を与え、自由を得させてくださった「神」。その神の御救いに与って生きる「わたし」「あなた」という関係ですね。次の6章のところでは「我らの神、主は唯一の主である。」(6:4)と述べられています。主なる神は「わたし」「あなた」にとっての唯一無二なるお方なのです。
その祝福された関係を前提にして、第一戒「あなたは、わたしをおいてほかに神があってはならない」。第二戒め「あなたはいかなる像(神や礼拝の対象とした)も造ってはならない。」第三戒「あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。」第四戒「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」第五戒「安息日を守ってこれを聖別せよ。」さらに6戒から10戒まで主の御言が語られているのです。
ここでは「・・・してはならない」と、命じられることではありますが。本来は「あなたは・・・しないであろう」というのが原語のもつニュアンスであるとのことです。それは生ける神の解放と自由に与かっているあなたは・・・しないであろう」という神の願い期待が強く込められているように思います。私たちの信仰の生活はそうした神への応答によって育まれ、ゆたかにされていくのであります。

さて、先に本日の申命記に記された十戒は出エジプト記の十戒とは、正確に読みますと1つだけ違いがあります。それは「安息日を守ってこれを聖別しなさい。」についての目的が異なっている点であります。
出エジプト記では「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたからで、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」とありますが。この申命記では「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息を守るように命じられたのである。」と記されています。
先に申しましたように、このあらゆる囚われからの解放と自由、御救いに与っているという感謝をもって「安息日を守るであろう。」と期待されているのです。
この「聖別」とは「取り分ける」という意味です。それは何のために、誰のために、わたしが取り分けて唯一無二なる神さまを主とし、礼拝するためです。それは又、せわしない日常生活の中でも、苦闘する日々の中でも、主なる神を覚えて御前に出る時を「取り分ける」、聖別するということです。

今日は第一週の主日ですので、この後主の晩餐が執り行われますが。それは、主イエス・キリストがわたしの罪の身代わりなって十字架にかかって血を流し、体を裂いてまで、わたしの、あなたの罪の代価を支払って死んでくださった。そのことによって罪がゆるされ、滅びの死から解放され、真の自由に与る者とされたことを、主の御前に「思い起こす」「想起する」のです。
わたしたちは主の御救いを主日礼拝毎に、又主の晩餐を通して、私たちはまさに思い起こす、主イエス・キリストの苦難と死を想起していくのです。
主イエスは「わたしこそが、安息日の主である。」と宣言なさいました。この主が共におられるところはどこでも、いつでも安息であります。
主の贖いによる御救いを共に確認し、与かっていく恵みの時を保ち続けてまいりましょう。そして又ここから、それぞれに遣わされた場へと出かけてまいりましょう。お祈りします。
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2025/8/3 主日礼拝式

2025-07-31 06:13:18 | 教会案内

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バラムに臨んだ主の言葉

2025-07-27 14:49:20 | メッセージ
礼拝宣教    民数記23節1-12節(22章参照) 

様々なニュースが報道される中、ひときわ衝撃を受けたのはガザで起こっている飢餓の状況です。それはイスラエル軍が食糧庫を爆破したためであると報じられていました。民間人がこれほどまでに苦しんでいるのです。7月から礼拝で読み始めています民数記は、エジプトでの虐げられた状態から主なる神に救い出されたイスラエルの民が、与えると約束されたカナンの地を目指すその途上で起きた出来事を記していますが。この民数記を今どう読むか、考えさせられます。主なる神は荒れ野でイスラエルの民に祝福と呪いを語られました。民が主なる神を畏れ敬いその戒めを守って義と愛に生きるとき、神の祝福は民と共にあります。しかし神に背を向けるなら呪いが自らにふりかかってくるのです。

本日の個所は前章の22章において、神の守りによって勢いを増したイスラエルの民がモアブの平野まで進んで来るのですが。モアブの王はその民のおびただしい数と力に恐怖を抱きます。気力も失せてしまった王は南方のエドムにいた霊能者バラムのもとに使いの者らに礼物を持たせて、「イスラエルの人々を呪ってほしい」と頼むのです。しかし主なる神はこのバラムに、「あなたは彼らと一緒に行ってはならない。この民を呪ってはならない。彼らは祝福されているからだ。」と命じます。
まず、神の言葉がエドムという異教の地出身のバラムにも臨んでいるということはまことに注目すべきことでしょう。
バラムは主の言葉を王の使者たちに告げ、まず帰らせました。

しかしモアブの王はあきらめきれず前よりさらに多くの、身分の高い指導者たちをバラムのもとに遣わして、「あなたを大いに優遇します。言われることは何でもします。どうか来て、わたしのためにイスラエルの民に呪いをかけてください。」と伝えます。王は主なる神を知らなかったので、
イスラエルの人々に呪いをかけるように頼むのです。

さて、この王の更なる申し出に対してバラムは、「わたしの神、主の言葉に逆らうことは、事の大小を問わず何もできません。」と答えます。                             
ところが、バラムは王の使者たちをすぐに帰らせず、「主がわたしに、この上何とお告げになるか、確かめさせてください。」と言うのです。
彼は、口では「わたしの神、主の言葉に逆らうことは、事の大小を問わず何もできません。」と言いながらも、どこか迷いがあったのです。バラムの心が、主のお言葉に聞き従うか、自我の願望に仕えるか、揺れ動いていたことがここから読み取れます。
その夜、神はバラムに「これらの者があなたを呼びに来たのなら、立って彼らと共に行くがよい。しかし、わたしがあなたに告げることだけを行わねばならない」とお告げになります。
バラムはゴーサインが出たぞと思ったのか、朝起きるとロバに鞍をつけ、モアブの長たちと共に出かけました。「ところが、彼が出発すると、神の怒りが燃えあがった。」というのです。
しかし、主はきっぱりとバラムに「行くな」と禁止されませんでした。自分で考えて何を選び取っていくかは自由です。けれど神はバラムの行動の根底にどんな思いがあるのかを調べられ、正しき道へと導かれます。そしてそれは時に大変厳しいこともあります。

さて、ロバに乗ったバラムは二人の若者を従えていくのですが、そこに主の御使いが何と抜き身の剣を手にして道に立ちふさがります。
この恐ろしい主の御使いを見たロバは、道をそれて畑に踏み込みました。バラムはロバを打って道に戻そうとします。すると今度は主の御使いがぶどう畑の間の狭い道に立っていました。ロバは主の御使いを見るや、その道の石垣に体を押しつけられ、バラムの足も石垣に押しつけ、彼は「何をするか」と又ロバを打ちました。さらに進むと、剣を手にした主の御使いは、今度は右にも左にもそれる余地のない狭い場所に立ちふさがったのです。ロバはその主の御使いを見るや、もうよけようが無いものですから、とうとうその場にうずくまってしまいました。するとバラムは遂に激しく怒りを燃え上がらせて本気でロバを杖で打ったのです。さぞやロバも痛かったと思いますが。ロバはたえずその剣をもった御使いを避けようとしていたのです。バラムにはそれが全く見えていなかったのです。彼は何とか自分の願う道を通したいとの思いが頑であったために、剣をもった御使いが見えませんでした。しかしそれが見えていたロバが、バラムを災いから守ったのです。そのおかげでバラムは助かったのです。しかしバラムにとってロバは自分思い通りにならない、役立たずでした。

神がそのロバの口を開きました。ロバがバラムに言います。「わたしがあなたに何をしたというのですか。三度もわたしを打つとは」。それに対してバラムは、「お前が勝手なことをするからだ。もし、わたしの手に剣があったら、即座に殺していただろう。」と答えます。
その時、神はバラムの目を開かれるのです。彼は主の御使いが抜き身の剣を手にして道に立ちふさがっいるのを目の当たりにして驚嘆し、主なる神に身をかがめてひれ伏すのです。

主の御使いはバラムに言います。
「なぜ、このロバを三度も打ったのか。見よ、あなたはわたしに向かって道を進み、危険だったから、わたしを妨げる者として出て来たのだ。このロバはわたしを見たから、三度わたしを避けたのだ。ロバがわたしを避けていなかったら、きっと、ロバは生かしておいても、あなたを殺していた
であろう」。
神の御心を求めつつも、自我の思いに囚われていたバラム。彼に向けられた剣を三度避け、三度も打たれながらもロバは、バラムを守り、彼を滅びから救ったのです。
ロバと言えばすぐに頭に浮かぶのが、主イエスのエルサエム入城のシーンです。預言者イザヤの書にあるように、「柔和なロバの子」に乗って来られた主イエスは、鞭打たれ、罵られ、嘲られても、十字架の苦難と死をもって罪に滅ぶほかない人間の罪をあがない、救ってくださったのです。  
ガラテヤ書に「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからである。」(3:13)と記されているように、主イエス・キリストがすべての人に代って十字架の木にかけられ、呪いと滅びに向かうすべての人に、救いと祝福の道を拓いてくださったのです。

さて、バラムはこの出来事によって、34節にあるように、悔改め、神の御心に立ち返ります。
それを受けて主の御使いは、バラムに次のように言います。
「この人たちと共に行きなさい。しかし、ただわたしがあなたに告げることだけを告げなさい」。
バラムは今度こそ主のお言葉を確かに受け取ります。

そうしてモアブの王バラクといよいよ会見するのです。
そこで王はバラムを、「何度も使い送ったのに、どうして来られなかったのか。自分にはあなたを優遇する力と富があるのに。」と言います。王に従えば多くの報酬に与かれます。しかしバラムは「わたしに、何か自由に告げる力があるでしょうか。わたしは、神がわたしの口に授けられる言葉だけを告げねばなりません。」と答えます。あのロバの出来事を経験して主にひれ伏したバラムの心は動くことなく、主なる神にのみに向かい、従うのです。

それでも王はバラムを厚くもてなして彼らはイスラエルの民の一端が見える丘に上ります。するとそこでバラムは王に主の祭壇を築き、主へ献げ物を用意するようにと伝えると、王はそのとおりにします。主の祭壇は7つ築かれ、それぞれに雄牛と雄羊がささげられたのです。王は自分の願いが叶うのならと、バラムの言うことを聞いたのでしょう。                         
バラムは王に「わたしは行って来ます。主がわたしに示されることは、何でもあなたに伝えましょう。」と言って、丘の頂に向かうのです。主なる神はそこでバラムと会われました。

バラムは戻って来ると、王と長たちに託宣、彼に臨んだ主の言葉を告げました。
それはまず、「神が呪いをかけぬものに、どうして呪いをかけられよう。主がののしらぬものを、どうしてわたしがののしれよう。」というものでした。ここにはモアブの国の最高権力者である王を前にしても、ひるむことなく主のお言葉を命がけで告げるバラムの姿がありました。
バラムは丘の頂きからイスラエルの民を見渡し、「見よ、これは独り離れて住む民、自分を諸国の民のうちに数えない」と言います。これは、この民が諸国のように王の権力によって支配される民ではなく、神によって導かれ、神によって形づくられ、神の憐みと恵みよって治められる民であることを表しています。
続けてバラムは、「誰が、ヤコブの砂粒を数えられようか。誰が、イスラエルの無数の民を数えられようか。」と言います。それは、彼らの父祖アブラハムに臨んだ、「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないだろう。」(創世記13:16)との神の約束のお言葉が現実となっていることを表しています。けれどもアブラハムはイスラエルの民のみならず、多くの国民の父となる、諸国民の父とするとの約束を与えられていました。それは遂に主イエス・キリストによって実現され、今や私たちも信仰によって神の民とされているのです。それは血肉によらず、主のあがないと霊によって与えられた神の恵みによってなのです。
バラムはエドム人でありましたが、彼は「わたしは正しい人が死ぬように死に、わたしの終りは彼ら(主の民)と同じようでありたい。」と乞い願いました。その願いは主イエス・キリストによって今や私たちに恵みとして与えられているのです。

託宣を聞いた王はバラムに言います。「あなたは、何ということをしたのですか。わたしが敵に呪いをかけるために、あなたを連れてきたのに、あなたは彼らを祝福してしまった」。         
それに対してバラムは王に答えます。「主がわたしの口に授けること。わたしはそれだけを忠実に告げるのです」。
彼は、主が「ただわたしがあなたに告げることだけを告げなさい。」と言われたことを、いかなる権力をもつ国王であろうとも曲げることなく告げたのです。バラムはイスラエルの民を呪うのではなく祝福しました。しかしそれは、イスラエルの民だけが守られたのではなく、実はモアブの王も国も呪いを受けずに済んだのです。

最後に、今日の箇所で興味深いのは、このエピソードがイスラエルの民の全くあずかり知らないところで起こっていたという事です。たとえ人々は気がつかなくても、主なる神の確かな守りと導き、ご配剤があったのです。私たちも後になって、「あのとき、主が守っていて下さっていたのだ」と気づいたということがあるでしょう。主なる神のお働きが及ばないところはありません。

冒頭で申しあげたように、いま世界は混乱の中にあります。方々で戦争や紛争が次々と勃発しています。こうした中で、私たちは生けるまこと神、すべてを治めておられる主に望みをおいて、祈り、とりなし願い続けていくものでありたいです。ガザの悲惨な情況に追い込まれている人たち祈るとともに、イスラエルとその指導者が「平和」ということを、神の前に畏れをもって受取り直していくように祈りましょう。

ローマの信徒への手紙8章28節には、「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っています。」と記されています。アーメン。
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2025/7/27 主日礼拝式

2025-07-26 07:01:17 | 教会案内

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「おうちでさんび」5周年スペシャルコンサート 2025/7/26 IN OSAKA

2025-07-23 09:45:17 | イベント

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