日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

ただ、恵みによって

2025-03-09 15:10:26 | メッセージ
礼拝宣教 マタイ20章1-16節 

本日は主イエスが語られた「天の国」についてのお話です。天の国と聞くと皆さんはどのようなものをイメージなさるでしょうか。光溢れるところ、温かく愛が溢れるところ、、、人の考えは様々です。では主イエスは何と語られたのでしょう。
先ほど読まれた箇所の前の18章には、弟子たちに天の国でいちばん偉いのでしょうかと尋ねられた主イエスが、「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」と言われます。また当時、裕福で教育も受けていた律法を実践できた言わばエリートの人たちこそ天の国に入れるのだろうという考えに対して、実は彼らが天の国に入るのは大変難しく、彼らがへりくだって唯神のあわれみによらなければ救い難いことを語られます。
さらに19章には、弟子のペトロが主イエスに「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と表明すると、「神の報いを受け、永遠の命を受け継ぐ」と言われます。しかし、ここで主イエスは30節「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」言われて、本日の「ぶどう園の労働者」のたとえ話をなさるのです。
先にその20章が読まれたが。みなさんはどうお感じになられましたか。
朝一番からずっと働いた者とまあ終りがけにきてほとんど働いていない者と同額の賃金が支払われたとすると、朝一番から働いていた人が「不公平じゃないか」と言うのは、そうだろうなあとも思えます。何しろ日中の猛暑と熱風にさらされての作業だそうですから、涼しくなった時間に来て僅か働いて同じ扱いになると、その心情もうなずけます。思うのはごく自然に湧く感情ではないでしょうか。でも、この主人はいわゆる労働基準法に反するようなことはしていません。なぜなら、夜明けの一番先に雇われた労働者には、当時の一日の労働の対価とされる1デナリオンを約束どおりに支払っているのです。その彼らも理解のうえでぶどう園に行ったのです。ですから彼らにとっての問題は「外」にあるのではなく、彼らの「内」、つまり人と比べて不平や妬む感情にあったのです。

では、次に後で雇われた人たちについて見てみましょう。
この主人は、9時頃にも出かけて行き、仕事もなく広場に立っている人々がいたので、「あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう」と約束し、彼らはぶどう園に出かけます。さらに主人は12時ごろと3時ごろにまた出て行き、同じようにしたといいます。そこでも主人は9時にぶどう園にでかけていった人たちと同様、ふさわしい賃金を払ってやろうと約束したということです。1デナリオンという報酬の約束はなかったのですが、この午後12時と午後3時に仕事もなく広場に立っている人たちにもまた主人の招きに応えて、彼らもぶどう園に向かうのです。
ところが、この主人はもう作業も終りに近い午後5時頃に広場に行き、まだ人々が立っているのに気がついたので、「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」と尋ねます。すると彼らは「だれも雇ってくれないのです」と言ったので、主人は彼らも「ぶどう園に行きなさい」と招くのです。
もちろん彼らは喜んでぶどう園に向かったことでしょう。
が、彼らは先にぶどう園に向かった人たちと異なる点が1つありました。彼らは、「1デナリオンを払おう」「ふさわしい賃金を払おう」という約束をもらっていなかったという点です。それでも彼らは「あなたがたもぶどう園に行きなさい」と思いもかけず主人に声をかけられたことに、喜んでその招きに応えてぶどう園に行かい、働いたことでしょう。

さて、夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、「労働者たちを呼んで、最後に来た者たちから始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい」と伝えます。
そこで、5時ごろに雇われた人たちから順に賃金が支払われるのですが。彼らは主人から予想もしていなかった1デナリオン、つまり1日の労働に価する賃金をもらうのです。時間給に計算しなおせば破格の賃金です。何という気前のいい主人でしょうか。彼らの歓喜と主人への感謝の声が聞こえて来そうです。
そして午後3時、12時、朝9時にぶどう園に向かった人たちもそれぞれ1デナリオンの賃金が支払われ、いよいよ朝一番に雇われた人たちの支払いの順番が回って来ます。きっと自分たちはもっと多くもらえるのだろうと期待していたに違いありません。ところが、です。彼らに渡された賃金も又、同じ1デナリオンであったのです。どうにも心のおさまりがつかなくなった彼らは、「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは」と、主人に不平を言ったというのです。

このところを読みますと、「何で長時間働いた人たちと超短時間しか働いていない人たちの賃金が同じなのか」と、そう思いますよね。確かに不公平なようにもみえます。働きに応じてというのが世の一般的な価値観ですし、生産性を社会は重んじるのです。そのように見れば、これはおかしな賃金支払いということになります。
けれどもこの主人は不当なことをしたのではなく、14節にあるように「この最後の者にも同じように支払ってやりたい」と思ったからそうしたのです。
私たちもこの主人に倣って考えますと、最後の5時に広場にいた人たちは、それぞれに事情を抱えていた人たちだったのでしょう。それは体調かもしれないし、家族のこと、様々な事情を抱えていたのかもしれません。人はより良く生活したくても、又、働きたくてもそれが難しいこともあるわけです。まあ、朝早くから広場に来れた人はそれなりの状況があったと言えるでしょう。朝9時以降に広場にいた人について新共同訳聖書は、「何もしないで立っている」と訳していますが、岩波訳聖書は「仕事もなく立っている人」と訳しています。何も怠けていたのではなく、仕事がしたくてもいろんな理由で取り残されていたことも考えられるでしょう。午後5時の人たちにいたっては、もはや誰から声もかけられず顧みられることなく、ただうなだれるほかなかったのではないでしょうか。その彼らの思いを、ぶどう園の主人は広場に足を何度も運ぶことによって、知ったのでしょう。
野宿生活をなさっておられる方々からお話しを伺いますと、怠けようとして野宿しておられるのでは決してないということを知らされます。空き缶や段ボールの収集でわずかな収入を得ながら働いておられる方、また、働きたくても働くことができない様々な事情をそれぞれが抱えておられるのです。
また、知的障がい者施設止揚学園の前福井達雨園長は、「子ども笑顔を消さないで」のご著書の中で、「目に見える生産性から見れば、私が5の仕事をした時、障がい者は1の仕事しかできません。でも、今、同じ仕事をしているのですが、私が1の目に見えない努力をした時、あの人たちは、5の努力をしなければいけません。この生産性と努力性は、同じ価値だと思います。」と福井先生の実体験からおっしゃっています。
このたとえ話で主イエスは世の経済的論理ではなく、「天の国」とはどういうものかという話をなさっているのです。
朝早く来て夕暮れまで一日働いた者、又、途中から働いた者、そして夕暮れの仕事が終わる直前に来た者も、みなが等しく、それぞれふさわしい対価として1デナリオンが支払われます。天の神さまは、その一人ひとりを尊く価値ある存在として愛し、慈しんでおられることがこの話から伝わってきます。

1デナリオン。一日の労働に対する対価この賃金は、その日を生きていくために必要な命の糧と言えましょう。それを天の神さまはみな等しく与えてくださるのです。
旧約の時代、天から与えられたマナという糧は、多く集めた者も少なく集められなかった者にも、量ってみればなぜかみな一升でした。それで等しく、誰もが皆、命を養われたのです。
主イエスはご自身のことを「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して受けることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハネ6:35)と言われました。私たちはこの命の糧、主イエスによって活かされているのです。
今日の「ぶどう園の労働者」のたとえ話から、私は宣教題を「ただ、恵みによって」とつけました。
私たちもまたそれぞれに、神のぶどう園に招かれています。この主の招きは人の側の価値観を遙かに超えた「ただ、恵みによる」ものです。もう日も暮れそうな5時にぶどう園の主人と出会い招かれたその心は安堵し、その想像を超える報酬に喜びと感謝が溢れます。
ところが、それなら自分はもっと受けても当然と考える人たちは不平を口にします。よく言われますのは、人生の最後の床の中で主を信じた人も同じように救われるのはずるいように思えるという話です。自分は朝早くから働き、昼は太陽が燦々と照りつける中を辛抱しながら、汗を流し労したのにと、そういった不公平感が起こってしまうでしょう。
ルカ15章の有名な「放蕩息子」のたとえで、父が放蕩の生活を悔い改め帰って来た弟息子を手厚く迎え入れた時、その兄は父に不平をぶつけます。しかし父は兄息子に、「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」と言います。兄はずっとその父のそばにいて、いつの間にかその恵みの偉大な尊さに対して心が鈍くなっていったのではないでしょうか。そのため悔い改めた弟への父の大きな愛が見えなくなり、その喜びを共にすることができなかったのです。

主イエスは弟子たちにおっしゃいます。「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」。
当時ユダヤでは、律法を学び、守り、行うことで神に認められ、天の国は近づくように思われていました。そして、それを守ることが出来ない人たちを罪人と見なし、天の国から遠い者と見下していたのです。しかし主イエスはそうした罪人と呼ばれ、裁かれるような人たちと出会い、交流し、天の国の福音を伝え、招かれるのです。主イエスはその働きのために弟子たちにこのたとえをお話になりました。
彼らも又、おごることなく、謙遜で、人を見下すことなく、神の恵みを共に喜ぶ者となるためです。天の神さまは、最後まで広場に残されている人たちを決してお見捨てになることなく、今日もいつくしみ深い眼差しを注いで、天の国へと招こうとしておられます。
「ただ、恵みによって」歓喜と感謝に溢れる私たちを主は楽しみとしてくださるでしょう。又、「ただ、恵みによって」という主への感謝と喜びこそが、私たちの信仰のバロメーターなのです。
私たちの信仰経歴や年月が、その神の恵みに対する感受性を鈍らせているとしたら、「先にいる多くの者」の一人なってしまうでしょう。「ただ、恵みによって」ある今を、今日も喜び賛美しつつ共に天の国の幸いに与ってまいりましょう。お祈りします。
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2023/3/9 主日礼拝式

2025-03-07 07:40:26 | 教会案内

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ゆるされている者として

2025-03-02 13:45:37 | メッセージ
礼拝宣教   マタイ18章21―35節 

3月を迎え夜明けが早くなり、梅の木にはつぼみをつけ、春を感じます。教会暦では5日水曜日からレント・受難節を迎えます。十字架の苦難を耐え忍び、その死によって私たちの罪のゆるしと救いのみ業を成し遂げられた主イエス・キリスト。そのお姿を胸に刻んで受難節を歩んでまいりましょう。

先週は様々なことがありました。まず感謝でしたのは関西地方教会連合と連盟教会音楽研修プロジェクトと共に賛美フェスタIN関西が当教会で行われ、感謝連合諸教会はじめ他教派の教会の方々も含め100名近い方々が教会堂にあふれるほどとなり、午前中は教会音楽や賛美について共に考え学び合い、午後は皆で共に賛美をささげる素晴らしい恵みの時になりました。前日はまた連合としても期待されていた礼拝奏楽者研修会も当教会で行われ、講師の方から「奏楽者の心得」についての講演、ピアノによる個々人の実技レッスン・アドバイスも行われ、大変有意義な時になりました。連合会長としての今年度の働きを無事に終えることができました。主とまた支え祈っていただいた教会のみなさまに心から感謝いたします。

さて、先週はもう一つショッキングなことがありました。天王寺区の国際交流センターで開かれた「海外ボランティア体験コンサート」のチラシ案内を知人から頂きました。主催は国際青少年連合・主管は日本多文化センター・後援が大阪府と大阪市教育委員会だとチラシに明記されていたので、まあ行ってみようと足を運びました。中に入ると1000人収容できる会場が人であふれており、その多くはアジア系の青年でした。開演とともにこの海外ボランティアの会長で韓国の牧師らしい人が、ヨハネ福音書やローマ書の御言から熱情的にメッセージを語り始めました。
内容はキリストの血による罪の贖いにより、私たちは義人とされたというところからでしたが。話をさらに聞いていて、何かおかしい変だぞと違和感がわいてきました。その人は「十字架のあがないを受け入れたら義人なのだから、罪人ではない。だから自分を罪人だと言うな」と言います。まあそこまではわかりましたが。この牧師といわれる人はさらに、「義人となった。ゆるされているのだから、もう罪を悔い改める必要はない。そうですね」と会場の参加者に向けて強く訴えると、そこに集まっていた青年たちが一斉に「アーメン」と大声で応答するのです。それは異様な光景でした。聖書のどこに「罪を悔い改める必要ない」などと書かれているでしょうか?それは罪ある生き方をよしとする、聖書の言葉を曲げた教えです。キリストの使徒パウロは、バプテスマを受けても以前の悪い行いを、「すべてゆるされているのだから」と言って改めようとしない人たちを強く戒めました。その後に続く華やかな合唱団はじめ、青少年たちの燃え上がるような踊りは、プロ顔負けでしたが、神を賛美するものではなかったです。さらに海外ボランティア体験者の演劇がなされたのですが、それはその活動がいかに良いものかを強調し、不信や疑いを抱く親御さんや家族に対してのアピール作りでした。その演劇のある映像の中で、ふとある教団の表記を目にした時、キリスト教界で注意喚起されている異端カルト一派であることを確信しました。帰宅後このチラシを善意で私にくださった知人にこのことを連絡しますと、「異端の活動は大変恐ろしいですね。」との返信がありました。判りづらいだけにだれもがカルトに取り込まれる危険性と怖さを経験しました。

そういうことで、本日は「ゆるされた者として」と題し、マタイ18章21節-35節から御言葉に聞いていきましょう。私たちは神の深い愛と憐れみによって、救いと解放に与り、クリスチャンとされています。
けれども人としての弱さや至らなさを抱え、気づかないうちにも罪を犯すことがあります。だからこそ私たちは聖書を読み続け、気づいたところから神の御心に聞き従い、悔い改めて神の義と愛にとどまり続けることが本当に大切です。
この18章のはじめの節で、主イエスは「心を入れ替えて、自分を低くし、こどものようにならなければ決して天の国に入ることはできない。」と言われます。
その天の国の関係性において、15節では「罪を犯した兄弟がいたら、黙認するのではなく、その相手と直接会って、忠告するように」と言われました。そこで相手が言うことを聞き入れた、つまり自分の罪に気づき、悔い改めたなら、「兄弟を得たことになる」と主イエスは言われます。それは18節に「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」という神の罪の贖いと救い、その解放が主の兄弟姉妹の間に起こされ、この地上においても神の国、天の国が訪れるということです。
ここで筆頭格の弟子ペトロが主イエスに、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか」と尋ねました。
すると主イエスはペトロに、「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」とお答えになります。
この七の七十倍というのは7×7その10倍、はい490回ということではありません。完全を表す7が、しかも70倍ということですから、それはもう無限大という意味なのです。どこまでも、とことんまでゆるしなさいということです。
そこで、主イエスは今日の「仲間を赦さない家来」のたとえをなさるのであります。
ここで興味深いのは、このたとえを読む限り、主イエスは何一つ道徳的な理由づけをなさっていません。こう言ってあげた方が相手のためになるとか。相手をゆるすことはあなたの功徳、徳になるとか。そういう解説は一切なさらないのです。
主イエスは唯、「天の国は次のようにたとえられる」と、「天の国」についてお語りになります。それは主にある兄弟姉妹という神の共同体、教会に向けたたとえです。同時に主は、この社会、この世界に「天の国」が訪れるように、と語られたのです。

それでは今日のたとえ話を見ていきたいと思います。
まず、ある家来が王から1万タラントの借金をしていました。1タラントが当時の労働者の6,000日分の賃金ですから。その6,000日分の賃金の1万倍に当たるというとてつもない莫大な金額です。家来はその莫大な借金を返済できなくなったのです。損害を被った主君は、家来に向かって自分も妻も子も持ち物全部を売って返済するよう命じるのです。ひれ伏してしきりに懇願する様子を見た主君は、唯彼を憐れに思い、赦し、何とその国家レベルで扱うような莫大なその借金を帳消しにしてやったのです。
つまり、主君は自らに与えた家来の、膨大な借金の肩代わりを、唯憐れみのゆえに無条件ですべて負ったのです。この「憐れみ」とは、ただかわいそうというのではなく、腸(はらわた)がちぎれるような心情を表す言葉です。自らそれほどの痛みを感受ながら憐れんでゆるしたのです。それは借金を抱えていた家来には如何に大きな救い、解放でしょう。
ところがです。この家来は自分に100デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、つかまえて首を絞め、「借金を返せ」と厳しく責めたてるのです。
100デナリオンとは、100日働けば稼げる金額です。まあ大きな負担には違いないですが、この家来が帳消しにしてもらった6,000万日分の1万タラントからすれば、何とか働いて返していけそうな金額でしょう。
この家来は王に無限大といえる借金がありながら、主君の腸がちぎれるほどの思い、深い憐れみで借金を帳消しにしてもらったにも拘わらず、自分の仲間はゆるしません。借金を返すまで牢に入れるというほどの非情さです。この家来は自分が受けたゆるしがどんなに犠牲を伴う尊いものかを覚えようとしません。だから自分に対して些細な借りがある仲間をゆるすことができなかったのです。この主君はそんな家来に「『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきでなかったか。』」と言います。
主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した」とあります。
このたとえを話し終えた主イエスは、最後にこう言われます。「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」。
主イエスは、私たちに自分の感情や思いを押し殺して、「ゆるしなさい」とおっしゃっているのではありません。ただ教えとして聞いても、そうゆるせるものではありません。大切なのは、この神のゆるし、この愛を見よ、忘れるな、というメッセージなのです。

私たちが礼拝の中で共に祈る「主の祈り」は、マタイ6章とルカ11章で主イエスが弟子たちに教えた祈りの言葉がベースになっています。
ご存じのように、その中には「ゆるし」についての祈りがあります。「我らに罪を犯す者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」。この祈りはもともと主イエスが、まず「わたしたちの罪(負い目を)をゆるしてください。」との祈りが先なのです。如何に自分はゆるされなければ救われ難い者である、解放されない者である、そのどうかこの「わたし(たち)の負い目(罪)をゆるしください。」との信仰の告白がこの土台にあります。神の深い憐れみとそこで払われた犠牲の愛によって、わたし自身がゆるされている。その計り知れないその恵みを覚えるなかで、「わたしたちも自分に負い目のある人をゆるします。」という祈りが与えられていくのです。その無限大の愛とゆるしを受け、「天の国」に招き入れられていることに気づき直す、神に立ち返ることが大事なのです。神のゆるし、その慈しみの中で、人と人とが共につながり、和解し、解かれ、解放されていく天の国、神の国の喜びの知らせ、これこそが福音なのです。

本日の箇所では、「ゆるし」について主イエスが弟子たちに語られたことを、読み解いてきましたが。
その主イエスは、唯一つ「赦されない」ことがあると言われました。
マタイ福音書12章のところでこのようなことをおっしゃっています。「人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、霊に対する冒涜は赦されない。人の子(主イエス)に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることはない」。
膨大な借金をしている家来の苦悩を知って深く心を痛め、その膨大な借金すべてを肩代わりして、ゆるしと解放を与えた君主の姿。それはまさに、罪に滅びゆくほかないような私たちを深く憐れんで、御子イエスを与え、罪の負い目と滅びからあがない出して下さった神の愛を物語っています。7の70倍どころか、スケールを超えた寛大なこの愛と救いに招き入れてくださる聖霊。この聖霊こそ神の大いなるゆるしを証明なさるのです。主イエスは、その聖霊に言い逆らう者はゆるされない、と言われます。
聖霊は「もう罪がゆるされているのだから、何をしてもいい」などと言われるでしょうか。
「7回ゆるせばあとはゆるさなくてもよい、敵として憎め」と主は言われるでしょうか。
聖霊を冒涜することだけは「ゆるされない」と主は呼びかけておられます。
この世界、この社会、私たちの身近なところでも様々な対立や争いが起こっていますけれども。慈愛なる神がどれほどの代価を支払ってくださったかを忘れることがないよう、主の十字架を仰ぎ、「ゆるされている者として」、神の愛に生きてまいりましょう。
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越冬夜回りを終えて

2025-03-01 07:29:42 | 巻頭言
1月から2月まで週に1度、今年も愛隣地区・浪速区の一部の夜回りに参加させてもらった。
私は今回も支援物資を積んだリアカーを2時間引いて街を廻った。
旧労働センター前で路上生活をされていた人たちが市の強制退去(行政大執行によって、路上で寝泊まりされている方々のうち一時避難所に行かれた方もおられますが、様々な事情を抱えながら路上で寝泊まりする以外ない方がおられます。
私の知る限り今年は路上で亡くなる方はおられなかったことは幸いでした。
私は越冬期間だけでしたが、この地域で地道なかたちで夜回りや見守り活動をなさっておられるNPOや教会関係の皆さまのご労に感謝いたします。

今回の初めて参加された学生や教会関係の方たちとの一緒に夜回りが出来た出会いも、うれしかった。
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2025/3/2 主日礼拝式

2025-02-26 15:47:15 | 教会案内

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ペトロの信仰告白より

2025-02-23 18:23:01 | メッセージ
礼拝宣教   マタイ章16節13-24節

寒い日が続き、天王寺の街にも1日中何がしかのサイレンが鳴り響いています。先月も少しだけ報告しましたが。阪神淡路大震災から30年となる「1.17祈念礼拝」の報告を、宣教やリレーメッセージを語られた方々の言葉を収録したものからおこして作成しました。そのメッセージの一人で震災当時神戸教会の加藤牧師の言葉が改めて心に響きました。
加藤牧師は、「震災直後の1月22日の礼拝で、冷え冷えとした神戸教会礼拝堂で街中に響くサイレントとヘリコプターの音を聞きながらここで礼拝を捧げた時のことが忘れられない。サイレンは助けを求める音、あるいは助けに何とか応えようとする音。そのサイレンに耳を塞いでは聖書を開けない。サイレンを聞きながら聖書を開く、そして神さまが何を語りかけておられるのかを聞け、それが礼拝なんだ。私の教会の周りにもいろんなカタチでのサイレンが響いている。助けを求める音。その助けに何とか応えようとする音。そういうサイレンを聞きながら私たちは聖書を開き、それぞれの教会で礼拝を捧げるように招かれているのではないでしょうか。」と語られました。
この時代の中で私たちはどう神の言葉と招きに応えて生きるのか。今日も聖書を開いてまいりましょう。

さて、本日の聖書箇所は、イエスさまと弟子たち一行がフィリポ・カイザリア地方を訪れた時のエピソードです。かの地はローマ皇帝が崇められ、ギリシャ神話やバアルの偶像であふれ、人々の礼拝の対象となっていました。
そこでイエスさまは弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか?」とご自身についてお尋ねになります。それに対して弟子たちは口々に、「洗礼者ヨハネだ」「エリヤだ」「エレミヤだ」「預言者の一人だ」と言う人たちがいると答えます。それは人々が様々な奇跡の業を行ったイエスさまを旧約の預言者たちと重ねて見ていたということです。
しかし、イエスさまを預言者の一人だと言う者はいても、メシア・救い主であると口にする人はいませんでした。なぜなら民衆が待望していたメシア・救世主とは、政治的に抑圧から解放してくれる権力をもった勇ましい王、そのような指導者だったからです。
するとイエスさまは弟子たちにお尋ねになります。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか?」それは人や世間がどう思うかではなく、あなたにとって「わたしはどういう存在か。」という個人的な問いかけでした。
この日本には多くの人が多神教の信仰観を持ち、木や石、金銀財宝、AIまでも進化してゆく社会ということができます。芸能人のことをアイドルと呼ぶことがありますが。アイドルは偶像という意味ですから、それも人が作りあげた崇拝の対象としている事を現わしているのでしょう。
しかし、そうした社会の中でもキリスト教や聖書に関心を持たれる方は意外と多いのです。たとばミッションスクールで聖書の教えに触れ、本やテレビ、映画やネットで知る機会があります。又、クリスチャンの生きる証が世界や社会に影響を与えることもあります。聖書が世界のベストセラーであるのは、世界中の人がそこに人間にとって欠かすことのできない何か大切なものがあることを感じ、それを求めようとされているからだと思います。しかし、ただイエスという人物について学び、知ることと、イエスと個人的に出会うこととは違います。

話を戻しますが、イエスさまが「あなたはわたしを何ものだと言うのか」という問いかけに対してシモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えます。このペトロは、やがて救いを実現するメシアが民の中から生まれると、旧約の預言者たちが語ったように、「あなたはメシア・救い主であり、生きておられる神の御子であられます」と言い表わしたのです。

それをお聞きになったイエスさまはペトロに、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。」と祝福なさいます。それは素晴らしく、的を射た答えであったのです。けれどもイエスさまは、「あなたにこのことを現わしたのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」と言われます。つまりペトロがこのように主告白できたのは、彼の理解力や知性によるのではなく、天の父なる神が、「イエスこそ、生ける神の子・キリストである」という奥義、その覆い隠されていた事を明らかに示された(啓示された)ということです。こうしてペトロは史上初めて「イエスこそ生ける神の子キリストである」との信仰告白をなしたのです。
ペトロはまだイエスさまが実際どのような形でメシアとしての御業を成し遂げられるのか、それを知るよしもありませんでした。この時のペトロにとってのメシア像も又、ユダヤの民をあらゆる抑圧から解放する世の権力的存在への期待として強く持っていたのです。ですから彼はイエスさまがご自身の受難とその死について語り始めた時、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」とイエスさまを自分の方に引きよせて、いさめ始めたのです。ペトロにとってもユダヤの民にとってもそれは決してあってはならないことであり、自分たちの描く理想的社会の実現を否定するものであったのです。
イエスさまは振り向いてそのペテロに、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず。人間のことを思っている」と言い放ちます。それはペトロにとってどれ程衝撃的な事であったでしょう。

ペトロといえば確かにイエスさまの愛弟子であり、又筆頭格の弟子でありました。けれどもその彼のあゆみを福音書から辿ってみますと、彼の弱さや優柔不断さ、失敗や挫折が赤裸々に容赦なく聖書に記録されています。それは後の人たち、私たちにしてみれば教訓であり、気づくと励ましであるわけですが。そのようなペトロを主イエスは時に厳しくも深い愛で、主の救いの福音を証しし、伝える存在へと育くまれるのです。
後にイエスさまが捕らえられた時、ペトロは「そんな人は知らない」と3度も否みます。イエスさまの十字架を前にしてペトロはほんとうに自分の無力さ、優柔不断さ、弱さを痛感しました。けれどもイエスさまは、彼が立ち直ったら他の弟子たちを力づけ福音のために力強く働く者となるようにと望み、信じ、とりなし祈られていたのです。そうして復活された主イエスは、このペトロを責めるのではなく、「わたしの羊を飼いなさい」と、キリストの使徒の働きへと招かれました。

ペトロはこの時になって初めて、神のご計画による救い、イエスさまがメシアとして来られた本当の意義、その神の奥義を知ることになるのです。彼はその主の招きに応え、主の御言葉どおり信徒らを導き、その群を養う者とされていくのであります。このペトロの新しいあゆみは、まさに主イエスの十字架上のゆるしと執り成しによる愛に支えられたものでありました。イエスさまは実にそのようなゆるしと執り成しと、自らを捧げる愛によって神の救いをもたらされたのであります。それこそが、私たちの救い主(メシア):キリストのお姿なのであります。
本日の箇所はペトロの信仰告白だけであればハッピーのようですが、実はその後のイエスの受難予告をそのペトロが見事に否定して、イエスに厳しく咎められる記事と一緒に読んでこそ、聖書が語るメッセージの深みを読み取ることができます。

さて今日の個所に戻りますが。イエスさまはペトロに「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われました。「ペトロ」はイエスさまから「ケパ」とも言われていました。それは岩という意味です。けれどもペトロは先程申しましたように、メシアがどのような形で父の神の救いを成就されるのか分かりませんでしたから、イエスさまの受難告知に躓いたのです。
そう考えますと、ペトロの信仰はペトロが立派な者であったからではなく、彼はむしろ不完全なものであったと言えるでしょう。口でいくら立派な主告白をしても、人の思いが優先し神さまの御心を受けとめられない的外れな過ちを繰り返すようなペトロ、弟子たち。時にその延長線に私たちもいるのではないでしょうか。
けれども、イエスさまはそのようなペトロをご存じの上で、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われるのです。主は人の不完全さ弱さを十分ご存じのうえで、「わたしはこの岩、その父の神によってなされた信仰告白の上に教会を建てる」とおっしゃるのです。それは主のいつくしみ、救いの恵みという以外ありません。
私たち一人ひとりもゆるされて、不完全ながらもその信仰を言い表すことによって主に受け入れられ、愛の中で建てあげられていくのであります。教会は主の恵みとゆるしに気づいた一人ひとりが、心から悔い改めて主に立ち帰って生きる、そこに人ではなく、神の業が起こされていくのです。そのように教会は主イエスの救いを世の人々に語り伝え、2000年以上証が立てられてきたのです。

最後に、24節でイエスさまは、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われます。
「自分の十字架を背負いなさい」と言われると何か頑張って背負わないといけないといった悲壮感が漂う気がするかも知れません。しかし、それは自分の頑張りによってではなく、神の御心、神のご計画に聞き、信頼をもって従うことであるのです。
この主イエスに倣って生きる者とされてまいりましょう。
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2025/2/23 主日礼拝式

2025-02-21 07:55:33 | 教会案内

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2025/2/16 主日礼拝式

2025-02-14 07:04:14 | 教会案内

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恐れず語れ

2025-02-09 16:27:55 | メッセージ
礼拝宣教 マタイ10章16-31節 

主イエスは弟子たちとともに「天の国は近づいた。悔い改めよ。」と宣べ伝え、救いの業を証しし、行なうために弟子達を選ばれます。主イエスに従っていく決意をした彼らは「よし、イエスさまの弟子としてここは一つ頑張ろう。」というような高揚感と期待を持っていたのではないでしょうか。
ところが、主イエスがその弟子たちにお語りになったことは、「迫害と苦難」の予告であったのです。
主イエスを信じる決心をした事を身近な家族や友人や人に話すと、思いがけない激しい反発を受けた、縁を切ると言われた、いわゆる迫害を受けたという人が世の中には多くおられるでしょう。
日本では仏壇をどうするのだとか、同じ墓に入れないのではとか、親族の目を気になさる家もあります。そこには大事な家族を得体もしれないものから奪われてしまうといった不安もあってのことでしょうが。家族が理解してくれないのはつらいことです。又、御言に従って生きて行こうとするとき、職場、地域、仲間内の関係性が揺さぶられ、軋轢が生じることがあります。私たちが本気で主に従っていこうとするとき、そこには多かれ少なかれ摩擦や衝突が起こり、主のもとから引き離そうとする力が働きます。それは天の国の訪れをもたらす証しと働きを阻もうとする力といえます。

主イエスは弟子たちに向けて言われます。
「わたしはあなた方を遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。」
神学校を卒業する時の卒業礼拝において「わたしはあなた方を遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。」との主イエスのお言葉からのメッセージが語られることが時にありますが。私の大先輩の牧師から伺ったことですが。その方が卒業されると時、この箇所から神学生のことをお見通しの神学校の教師がメッセージの開口一番に、「わたしはあなた方を遣わす。それは、羊の群れに狼を送り込むものなのだ。」と羊と狼を言い換えて語られ、その場が笑いに包まれたということでした。
ただの頑張りや気負いで行こうとしますと、御心も人の心も見えなくなりがちです。ではどのように主イエスの福音を伝え、証ししていったらよいのでしょうか。
主イエスは続けておっしゃいます。
だから、「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」
この言葉は巷でも使われていています。鳩のように素直で優しいだけでは人につけいれられ、だまされてしまう。蛇のような巧妙な賢さを身に着けることも必要だといういわば処世術のように説かれていますが。主イエスは単にそうした意味でおっしゃったのではありません。
聖書が語る「賢さ」とは、神を知ることなのです。
まあ蛇と言えば、創世記のエデンの園にも出てきますが。蛇は大変賢い生き物でした。ところが、神を侮り、人を神に背かせて、神の裁きを受けて地を這うものとなるのです。どんなに頭が良く物知りであっても、蛇を創られた神の御心に背くなら一体何になるでしょう。神の御心に生きる賢さを戴いてまいりましょう。
また鳩は、ノアの箱舟に出てきますが。そのノアは、「神に従う無垢な人であった」と聖書に記されています。主イエスは、たちえ迫害にあっても、自分の知識や知恵に勝る御心に聞き、無垢で混じりけのない、純粋さをもって生きなさい、と弟子たちに勧めておられるのです。

この主イエスが「悔い改めと天の国」の到来を告げ、いやしや悪霊を追い出しておられた時、宗教指導者や律法の専門家たちは、イエスが神を冒涜していると敵視していたのです。それは彼らが自らの知識や知恵を過信し、心が神から遠く離れているからだと主イエスは投げかけられました。
その彼らの妬みと敵意によって主イエスは十字架にかけられるのですが、その後には弟子たちにも迫害が及んでいくことになります。
しかしそれは、反対者や総督や王、さらに異邦人に証しする機会となったのでした。
そしてその証しは、「何をどう言おうか」というような自分の頑張りや知識によるのではなく、19節「そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語って下さる、父の霊である。」すなわち、共におられる聖霊があなた方の中でお語り下さるというのです。
26節以降でも主イエスさま、「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。」と仰せになるのです。この主イエスの御言はどんなに大きな慰めと希望ではないでしょうか。

話は変りますが。悪しき権力によっておとしめられた袴田巌さんの冤罪が長い長い年月を経てようやく明らかになりました。又、森友学園問題に関わる財務省に対して、管理する関係資料を全面公開するよう命じる判決が出されました。国は上訴を断念しました。亡き夫の理不尽な死の真相が明らかになるまでとの信念貫き続け、訴え続けて来られたAさんの切実な願いが前に進みましたが。
今後その真相の全容が明らかになることを願います。「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。」とのこの言葉には力と真実があると改めて思いました。

この主イエスが言われる「覆われているもの、隠されているもの」とは、「神の奥義」でありますが。
「ヨハネの黙示録」の「黙示録」はギリシャ語で「アポクリファ」と言いますが。それは「隠している覆いを取り除く。」という意味です。それが示され記されたローマ帝国の迫害の時代、その闇の中で覆い隠されていた神のご計画が遂に明らかにされ、書き留められるのです。それはイエス・キリストによる神の救いと、キリストの来臨に向けた神のご計画です。
どんなに世の力が働き、封じ込めようとしても、その神の奥義と救いはやがて明らかにされてゆき、すべての人に知られるのです。主イエスを通してもたらされた神の御心とご計画を信じ従ってゆく信徒たちは、キリストの来臨によってすべてが明らかにされるその時を待ち望み、苦難の中でなお主の福音を伝え、証しを立ててきたのです。
主イエスは、27節「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。」28節「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と、力強く語られます。
私は、おそらく皆さまも、体が傷つけられ、殺されたりなどとは、正直なところ想像もしたくないことなので、ここを読むと怖い気がいたします。
ここでイエスさまが強調なさっているのは、どんな時も信仰の告白と証しをもって生きること。
そして、人ではなく、神こそ恐るべきお方であるということです。「魂までも滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」神こそがいのちにおいても裁きにおいてもいっさいの主であられます。この主なる神こそ恐れよと、イエスさまはおっしゃっているのです。

29節「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
1アサリオンは当時のユダヤの最小貨幣で、日本でいえは1円といえましょう。雀二羽で1円ですから一羽の雀の価値といえば1円の半分というということになり、もはやこの世的には値打ちがないとも言えるほどのものかも知れません。けれども父の神は、その価値の無いように思える存在をもよくご存じで、そのお許しがなければ、地に落ちることはない。つまり生きるも死ぬも全てを司っておられると言われるのです。
それどころか、「あなたがたの髪の毛一本までも残らず数えられている。」それほどまで私たち一人ひとりをよく知っていてくださるのです。「だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」何と大きな幸い、慰め、希望でしょうか。
最後になりますが。毎年2月11日には信教の自由を守る尊さを覚えて祈る集会が持たれています。
私たちは毎週このように礼拝を捧げる自由が与えられています。まこと神を高らかに賛美し、祈り、聖霊の導きによって御言を聞き、主を信じる自由が与えられていることは、何にも替えがたいものであります。しかし戦争、紛争等で世界には信教の自由、思想信条の自由が脅かされている人たちが多くいます。その人たちに平和と信教の自由、思想信条の自由が与えられていきますよう、今後も共に祈り続けていきましょう。

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2025/2/9 主日礼拝式

2025-02-06 10:37:22 | 教会案内

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