礼拝宣教 マタイ20章1-16節
本日は主イエスが語られた「天の国」についてのお話です。天の国と聞くと皆さんはどのようなものをイメージなさるでしょうか。光溢れるところ、温かく愛が溢れるところ、、、人の考えは様々です。では主イエスは何と語られたのでしょう。
先ほど読まれた箇所の前の18章には、弟子たちに天の国でいちばん偉いのでしょうかと尋ねられた主イエスが、「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」と言われます。また当時、裕福で教育も受けていた律法を実践できた言わばエリートの人たちこそ天の国に入れるのだろうという考えに対して、実は彼らが天の国に入るのは大変難しく、彼らがへりくだって唯神のあわれみによらなければ救い難いことを語られます。
さらに19章には、弟子のペトロが主イエスに「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と表明すると、「神の報いを受け、永遠の命を受け継ぐ」と言われます。しかし、ここで主イエスは30節「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」言われて、本日の「ぶどう園の労働者」のたとえ話をなさるのです。
先にその20章が読まれたが。みなさんはどうお感じになられましたか。
朝一番からずっと働いた者とまあ終りがけにきてほとんど働いていない者と同額の賃金が支払われたとすると、朝一番から働いていた人が「不公平じゃないか」と言うのは、そうだろうなあとも思えます。何しろ日中の猛暑と熱風にさらされての作業だそうですから、涼しくなった時間に来て僅か働いて同じ扱いになると、その心情もうなずけます。思うのはごく自然に湧く感情ではないでしょうか。でも、この主人はいわゆる労働基準法に反するようなことはしていません。なぜなら、夜明けの一番先に雇われた労働者には、当時の一日の労働の対価とされる1デナリオンを約束どおりに支払っているのです。その彼らも理解のうえでぶどう園に行ったのです。ですから彼らにとっての問題は「外」にあるのではなく、彼らの「内」、つまり人と比べて不平や妬む感情にあったのです。
では、次に後で雇われた人たちについて見てみましょう。
この主人は、9時頃にも出かけて行き、仕事もなく広場に立っている人々がいたので、「あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう」と約束し、彼らはぶどう園に出かけます。さらに主人は12時ごろと3時ごろにまた出て行き、同じようにしたといいます。そこでも主人は9時にぶどう園にでかけていった人たちと同様、ふさわしい賃金を払ってやろうと約束したということです。1デナリオンという報酬の約束はなかったのですが、この午後12時と午後3時に仕事もなく広場に立っている人たちにもまた主人の招きに応えて、彼らもぶどう園に向かうのです。
ところが、この主人はもう作業も終りに近い午後5時頃に広場に行き、まだ人々が立っているのに気がついたので、「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」と尋ねます。すると彼らは「だれも雇ってくれないのです」と言ったので、主人は彼らも「ぶどう園に行きなさい」と招くのです。
もちろん彼らは喜んでぶどう園に向かったことでしょう。
が、彼らは先にぶどう園に向かった人たちと異なる点が1つありました。彼らは、「1デナリオンを払おう」「ふさわしい賃金を払おう」という約束をもらっていなかったという点です。それでも彼らは「あなたがたもぶどう園に行きなさい」と思いもかけず主人に声をかけられたことに、喜んでその招きに応えてぶどう園に行かい、働いたことでしょう。
さて、夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、「労働者たちを呼んで、最後に来た者たちから始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい」と伝えます。
そこで、5時ごろに雇われた人たちから順に賃金が支払われるのですが。彼らは主人から予想もしていなかった1デナリオン、つまり1日の労働に価する賃金をもらうのです。時間給に計算しなおせば破格の賃金です。何という気前のいい主人でしょうか。彼らの歓喜と主人への感謝の声が聞こえて来そうです。
そして午後3時、12時、朝9時にぶどう園に向かった人たちもそれぞれ1デナリオンの賃金が支払われ、いよいよ朝一番に雇われた人たちの支払いの順番が回って来ます。きっと自分たちはもっと多くもらえるのだろうと期待していたに違いありません。ところが、です。彼らに渡された賃金も又、同じ1デナリオンであったのです。どうにも心のおさまりがつかなくなった彼らは、「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは」と、主人に不平を言ったというのです。
このところを読みますと、「何で長時間働いた人たちと超短時間しか働いていない人たちの賃金が同じなのか」と、そう思いますよね。確かに不公平なようにもみえます。働きに応じてというのが世の一般的な価値観ですし、生産性を社会は重んじるのです。そのように見れば、これはおかしな賃金支払いということになります。
けれどもこの主人は不当なことをしたのではなく、14節にあるように「この最後の者にも同じように支払ってやりたい」と思ったからそうしたのです。
私たちもこの主人に倣って考えますと、最後の5時に広場にいた人たちは、それぞれに事情を抱えていた人たちだったのでしょう。それは体調かもしれないし、家族のこと、様々な事情を抱えていたのかもしれません。人はより良く生活したくても、又、働きたくてもそれが難しいこともあるわけです。まあ、朝早くから広場に来れた人はそれなりの状況があったと言えるでしょう。朝9時以降に広場にいた人について新共同訳聖書は、「何もしないで立っている」と訳していますが、岩波訳聖書は「仕事もなく立っている人」と訳しています。何も怠けていたのではなく、仕事がしたくてもいろんな理由で取り残されていたことも考えられるでしょう。午後5時の人たちにいたっては、もはや誰から声もかけられず顧みられることなく、ただうなだれるほかなかったのではないでしょうか。その彼らの思いを、ぶどう園の主人は広場に足を何度も運ぶことによって、知ったのでしょう。
野宿生活をなさっておられる方々からお話しを伺いますと、怠けようとして野宿しておられるのでは決してないということを知らされます。空き缶や段ボールの収集でわずかな収入を得ながら働いておられる方、また、働きたくても働くことができない様々な事情をそれぞれが抱えておられるのです。
また、知的障がい者施設止揚学園の前福井達雨園長は、「子ども笑顔を消さないで」のご著書の中で、「目に見える生産性から見れば、私が5の仕事をした時、障がい者は1の仕事しかできません。でも、今、同じ仕事をしているのですが、私が1の目に見えない努力をした時、あの人たちは、5の努力をしなければいけません。この生産性と努力性は、同じ価値だと思います。」と福井先生の実体験からおっしゃっています。
このたとえ話で主イエスは世の経済的論理ではなく、「天の国」とはどういうものかという話をなさっているのです。
朝早く来て夕暮れまで一日働いた者、又、途中から働いた者、そして夕暮れの仕事が終わる直前に来た者も、みなが等しく、それぞれふさわしい対価として1デナリオンが支払われます。天の神さまは、その一人ひとりを尊く価値ある存在として愛し、慈しんでおられることがこの話から伝わってきます。
1デナリオン。一日の労働に対する対価この賃金は、その日を生きていくために必要な命の糧と言えましょう。それを天の神さまはみな等しく与えてくださるのです。
旧約の時代、天から与えられたマナという糧は、多く集めた者も少なく集められなかった者にも、量ってみればなぜかみな一升でした。それで等しく、誰もが皆、命を養われたのです。
主イエスはご自身のことを「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して受けることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハネ6:35)と言われました。私たちはこの命の糧、主イエスによって活かされているのです。
今日の「ぶどう園の労働者」のたとえ話から、私は宣教題を「ただ、恵みによって」とつけました。
私たちもまたそれぞれに、神のぶどう園に招かれています。この主の招きは人の側の価値観を遙かに超えた「ただ、恵みによる」ものです。もう日も暮れそうな5時にぶどう園の主人と出会い招かれたその心は安堵し、その想像を超える報酬に喜びと感謝が溢れます。
ところが、それなら自分はもっと受けても当然と考える人たちは不平を口にします。よく言われますのは、人生の最後の床の中で主を信じた人も同じように救われるのはずるいように思えるという話です。自分は朝早くから働き、昼は太陽が燦々と照りつける中を辛抱しながら、汗を流し労したのにと、そういった不公平感が起こってしまうでしょう。
ルカ15章の有名な「放蕩息子」のたとえで、父が放蕩の生活を悔い改め帰って来た弟息子を手厚く迎え入れた時、その兄は父に不平をぶつけます。しかし父は兄息子に、「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」と言います。兄はずっとその父のそばにいて、いつの間にかその恵みの偉大な尊さに対して心が鈍くなっていったのではないでしょうか。そのため悔い改めた弟への父の大きな愛が見えなくなり、その喜びを共にすることができなかったのです。
主イエスは弟子たちにおっしゃいます。「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」。
当時ユダヤでは、律法を学び、守り、行うことで神に認められ、天の国は近づくように思われていました。そして、それを守ることが出来ない人たちを罪人と見なし、天の国から遠い者と見下していたのです。しかし主イエスはそうした罪人と呼ばれ、裁かれるような人たちと出会い、交流し、天の国の福音を伝え、招かれるのです。主イエスはその働きのために弟子たちにこのたとえをお話になりました。
彼らも又、おごることなく、謙遜で、人を見下すことなく、神の恵みを共に喜ぶ者となるためです。天の神さまは、最後まで広場に残されている人たちを決してお見捨てになることなく、今日もいつくしみ深い眼差しを注いで、天の国へと招こうとしておられます。
「ただ、恵みによって」歓喜と感謝に溢れる私たちを主は楽しみとしてくださるでしょう。又、「ただ、恵みによって」という主への感謝と喜びこそが、私たちの信仰のバロメーターなのです。
私たちの信仰経歴や年月が、その神の恵みに対する感受性を鈍らせているとしたら、「先にいる多くの者」の一人なってしまうでしょう。「ただ、恵みによって」ある今を、今日も喜び賛美しつつ共に天の国の幸いに与ってまいりましょう。お祈りします。