日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

2024/3/24 受難週 主日礼拝式 

2024-03-23 08:29:26 | 教会案内

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イースター礼拝式 2024/3/31 10:30AM-

2024-03-21 13:34:50 | お知らせ
イースター礼拝式 2024/3/31 10:30AM-

「イースター」とは、イエス・キリストの復活を記念し祝う日です。十字架にかけられ亡くなったキリストが、その3日後に復活された出来事を祝うのです。イースターは「春分の日のあとの、最初の満月の次の日曜日」に行われるのです。そのため、「イースターサンデー」とも呼ばれていますよ。2024年のイースターは3月31日(日)です。
イースターの時期になると、街のウインドウに、カラフルにペイントされたたまごのモチーフを見かけます。カラフルにペイントされたたまごは「イースターエッグ」と呼ばれ、生命の始まりや復活の象徴となっています。鳥がたまごの殻を破ってこの世に誕生するように、イエス・キリストは「死という殻を破って復活なさった」という意味が込められているのです。
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2024/3/17 主日礼拝式(レントⅥ)

2024-03-17 07:07:24 | 教会案内

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「わたしはひとりではない」

2024-03-11 07:37:24 | メッセージ
礼拝宣教   ヨハネ16章 レントⅣ
                         
3月11日は東日本大震災から13年目となります。宣教後に「3.11東日本大震災から13年を数えての祈り」(東北バプテスト連合震災支援委員会)を共に心を合わせてお祈りいたします。
今年は元旦の日の夕方に能登半島を震源地とする大きな地震が起こりました。家族や親しい方を亡くし、悲しみと痛みのうちにある被災地の方に神さまの深い慰めと一歩ずつでも前にあゆみ出すことができますように。被災地から離れられて避難生活を余儀なくされた方には先行きが見える安心が与えられますように。一方ふるさとにとどまる決意をされた方に、一刻も早い生活環境、水道下水道等ライフラインの回復が進みますように、とお祈りいたします。

受難節も4週目に入りましたが。ヨハネ福音書から、イエスさまが御自分の時が来たことを自覚され、弟子たちに別れの説教をなさった箇所を読んでいます。先週は「ぶどうの木であるイエスさまにその枝である私たちがしっかりつながって生きることで、豊かに実を結ぶキリストの弟子となるなら、神は栄光をお受けになる」というお勧めをいただきました。福音に生きる歩みを続けてまいりましょう。

本日の16章はイエスさまの告別説教のクライマックスともいえる箇所であります。
ここでイエスさまはまず、弟子たちに「これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」と語られました。
キリストの使徒となった弟子たちは、イエスさまのお言葉のように迫害を受け、殉教する事も多くありました。そしてこの福音書を記したヨハネが教会の指導者として生きた時代、それはキリスト教会とその信徒への激しい迫害の最中でありました。
イエスさまの時代から2000年がたった今日の世界においても、混迷を深めるロシア・ウクライナ、中東、又中国やミャンマー、あるいは明るみにはなっていない様々な地域で、いまだに激しい思想統制や力による激しい弾圧や迫害が平和と正義を求めている人たちに向けられている現実がございます。今の日本では直接的に迫害や弾圧を受けることはめったにないでしょうが。戦時下にあって信条や信仰を貫こうとする時にバッシングを受けたり、脅されたり、職務を追われたりすることも実際に起こりました。家族、親族、又地域コミュニティーからの疎外も起こります。

イエスさまは「迫害の予告」の中で、「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう」とヨハネ5章18節以降のところで弟子たちにおっしゃったとおりです。
イエスさまご自身、迫害をお受けになり十字架の苦難と死を遂げられました、弾圧と攻撃の鉾先はキリストを証しし、福音を語り継いでいく弟子たちに向けられていくことになるのです。
イエスさまの存命中、弟子たちはイエスさまが一緒におられたので直接そういった危害が及ぶことはなかったのです。しかしイエスさまはご自分が去っていった後、弟子たちにそのような事態が起こって来ることを十分承知しておられました。
そうなった時に「慌てふためき、つまずくことがないように」と、弟子たちに語られたお言葉、それが今日16章なのです。
それは4節に「これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしがそのように語ったということをあなたがたに思い出させるためである」とあるとおりです。

この後必ずつまずきを覚えるようなことがある。迫害も起こってくる。しかしその折に、信じていたのに思いがけないことがふりかかって来たと、意気消沈するのではなく、「あの時、イエスさまがあのようにおっしゃったなぁ」と、思い出すようにということです。
このようにイエスさまは弟子たち、さらにイエスさまを信じるわたしたちすべての信徒の苦難の日、そこで起こって来る葛藤を予見なさって、危険や災難が間近に迫ってきた時にも、慌てふためき信仰を失うことのないようにと、語られたのです。

イエスさまが離れ去ることを聞いた弟子たちは、「本当にイエスさまが去って行かれるとしたら自分たちは一体どうなるのか」と、その心は悲しみと不安でいっぱいになりました。
そのような弟子たちにイエスさまは、「わたしが去って行くのは実を言うとあなたがたのためになる」と、思いがけないことを口になさるのです。
弟子たちは「なんでイエスさまが去って行かれることが、わたしたちのためになるのか」と、思っていたのではないでしょうか。
その弟子たちの思いを知っておられたイエスさまは、「わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者(助け主)をあなたがたに送る」(7)と約束されます。それは、イエスさまの弟子たち、さらに信徒たちを導いて真理をことごとく悟らせるお方、真理の霊、聖霊が来られるという約束であります。
そのとおり、イエスさま御自身が十字架におかかりになって死なれ、復活されて天に昇られた後、一同が一つとなって祈り求める中に聖霊が臨まれた出来事によって、イエスさまは生きておられ、永久までも共におられることを弟子たちは知るようになるのです。
しかし弟子たちは、この時が実現するまでまだイエスさまの言われた事がまったくわかりません。悲しみと先の見えない不安の中で一層頭は混乱するばかりであったのでしょう。  

そんな弟子たちに向けてイエスさまは希望の言葉を語られます。
「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変る」「今は、あなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はない」。これは実体のない、安っぽいなぐさめではありません。
その日から2000年の間、今日の私たちもイエスさまを肉眼で見ることはできなくても、確かに弁護者、真理の霊、助け主なる聖霊が私たちのうちにも来られ、生きてお働きになっていることを私たちは知っています。
聖霊はキリストのからだなる教会をとおしてお働きになり、私たち一人ひとりにキリストが生きておられることを示し、その救いの御業を起し続けてくださるのです。
「悲しみは喜びに変る」。それは神からも見捨てられたと思った人生が、キリストを知って神の愛に生かされる人生に変わるその喜びです。「この喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」。
聖霊に満たされるなら、どのような人もそのおかれた状況如何に関わらず、キリストにある喜びの人に変えられるのです。
「いや、自分は長く信仰生活を続けているが、そんな喜びなどない」と言う人もおられるかもしれません。そのようn神さまがまるで沈黙しておられるように感じられる時は、神さまはさらなる祈りと対話を待っておられるのかも知れません。ご一緒に祈り求めましょう。
それこそ、イエスさまが23-24節で「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。わたしの名によって願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」と言われたことです。

ところで、弟子たちはこれまでも祈りについてイエスさまから学んできました。主の祈り、神さまと一対一での祈り、密室での祈り、野や山での祈りなど。しかし「イエスさまの御名によって」祈ったことはなかったのです。イエスさまが一緒におられたからそう祈る必要はなかったのです。
けれどもイエスさまはこの地上を去るにあたり、弟子たちに今後御自分の名によって父の神に祈ることを教えられます。
それは、父なる神さまと私たちの間を隔てていた壁が、イエスさまの十字架の死、すなわち罪の贖いによって取り除かる。聖霊がそのことをさとらせて下さり、イエスさまの御名で祈るとき直接父なる神さまが私たちの祈りを聞いてくださるのです。
本当に苦しい時、不安な時、もうどうしてよいかわからない時、心の内をさらけ出し、ヤコブのようにじっくりと相撲を取るように助けと祝福を主に求めて祈りましょう。主は生きておられます。

さて、弟子たちはイエスさまの言葉を聞き、30節「あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」と宣言します。それはその時の弟子たちなりの精一杯の信仰の表明でした。
しかし、イエスさまは「だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている」と、おっしゃるのですね。
そして、こう言われます。
「しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださる」。
その後イエスさまは捕えられて十字架に引き渡されます。この時肝心の弟子たちはイエスさまを置き去りにして逃げてしまうのです。イエスさまはひとりきりにされるのです。
しかし、イエスさまは「わたしはひとりでない。父が、共にいてくださる」という確信によって遂に十字架の苦難と死に向かわれるのです。
一方、「あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」と言った弟子たちは、自責の念にさいなまれることになります。
イエスさまはそのような弟子たちのことをお見通しでした。その弱さを十分ご存じでした。その弱さに泣き、落胆した時、そして苦難の時、まさに4節「その時が来たときに、わたしが語ったということを、あなたがたに思い出させるために」とイエスさまはこれらのことをお語りになりました。
弟子たちは、このイエスさまの深い愛を復活のイエスさまと出会うとき、さらに聖霊降臨を経験するとき、そして厳しい迫害に遭ったときにも思い出したことでしょう。

イエスさまはこうおっしゃいます。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである」。
つまり、イエスさまがもっておられた「わたしはひとりではない、父の神が共にいてくださる」という確信と平和。イエスさまはその確信と平和の中に弟子たちを、そして主イエスを信じる私たちを招いておられるのです。
「わたしはひとりではない」「神が共にいて下さる」。

人はだれも弱さを持っており、失敗はあります。人の決心もともすれば激しい風に遭えば飛んでいってしまうようなものです。にも拘らずイエスさまはそんな私たちの弱さを愛によってあるがまま包み込み、聖霊のお働きを通して、何度も立ち上がることができる「勇気」をくださいます。
それは人の努力やがんばりではなく、神の恵みであり、平安と喜びから生じる神の力なのです。

イエスさまは最後に言われます。
「あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。
私たちも又、世の罪と死に勝利してくださった十字架のイエスさまを見上げつつ、神さまの愛と平和、聖霊に生かされて、救いの主、イエス・キリストの福音を分かち合ってまいりましょう。
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2024/3/10 主日礼拝式

2024-03-09 08:58:01 | 教会案内

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TiA クワイアWS 

2024-03-06 08:51:59 | イベント

16歳で歌手デビュー、その後アメリカ・ニューヨークに渡り、本場のゴスペルとの出会いを経験され、Jesusと出会う!
アメリカ最大級のMCゴスペル大会で優勝!
日本に帰ってからTiAさんは、TiAクワイアを率いても活動中。
全国に800人以上のクワイアがおられ、WSが行われている。
昨年TiAさんと出会い、当教会で初めてTiAクワイアWS(大阪)が行われた。(写真下)
3月2日には少しボリュームアップしたWS VoL2が開催された。
(写真上)


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「わたしにつながっていなさい」

2024-03-03 20:10:33 | メッセージ
礼拝宣教 ヨハネ15・1-17 レントⅢ

本日は「わたしはまことのぶどうの木」で始まる、よく知られるヨハネ15章の箇所から御言葉を聞いていきます。
旧約聖書のイザヤ書やエレミヤ書ではイスラエルがぶどう畑やぶどうの木にたとえられています。良いぶどうの木として植えられたはずのイスラエルの民が、良い実を結ばず悪い実、酸っぱすぎて口に入れる事もできないようなものになってしまいます。
そこで御父なる神は古いイスラエルに代わる新しい神の共同体を形づくるために、この世界に御子イエス・キリストを遣わされたのです。
ここで、イエスさまはぶどうの木のたとえを用いて、新しい神の民がイエスさまにつながって神の愛の共同体となるビジョンを示されます。そこには目的がありました。かつてイスラエルの民が陥った神の愛といつくしみを忘れ、人を裁き、分け隔てするような悪い実、腐ったような酸っぱい実ではなく、イエスさまにつながった一人ひとりが良い実を豊かに結ぶようにと教えられたのです。
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」。原文では「このわたしこそ、まことのぶどうの木である」、又は「まことのぶどうの木こそ、このわたしである」と訳せます。
神の御心に逆らう民の指導者たち、偽りのぶどうの木に対して、イエスさまは「わたしこそ、まことのぶどうの木である」と宣言なさったのです。
そこで、農夫である御父なる神さまは入念にその木の手入れをなさるのです。実を結ばない枝は取り除いて、良い実を結ばせるために注意深く選定をなさるのです。

2月に教会玄関先のバラの剪定が有志の奉仕者によって行われました。剪定の時期を逃しますと、バラの花がきれいには咲かないのだそうです。良い花がたくさん咲きそうな枝、柔軟に誘引することができる枝を残し、ゴロゴロして堅い枝は取り除く外ないそうです。そうしないと柔らかい枝の芽の成長を妨げ、花も傷めてしまう。ぶどうの木を剪定する場合もそうですが。良い実をみのらせるには手入れが欠かせません。実がついたぶどうを収穫したら、枝を支えていたつっかえを外し、良くない枝を取り除く選定をします。冬は幹とわずかな枝だけになりますが、そうする事で土からの養分やエネルギーを十分蓄えることができ、枝も力強く伸びて豊かに実をみのらせる事になるのです。又、ぶどうの苗木の場合は植えられてから3年は実を結ぶことはないそうですが。石の上にも3年、その間徹底した剪定で刈り込まれることによって生命を貯え、良き実を結ぶために備えられるそうです。まあそうやって手入れをされながら実を結ばない枝は取り除かれ、実を結ぶ枝はなお手入れがなされるというのですが。これってどこで実を結ぶか実を結ばないかを農夫である神さまは見分けられるかということですが。人にはわかりません。
唯ここで救われますのは、イエスさまが弟子たちに「わたしの話した言葉によって、あなたがたはすでに清くなっている」とおっしゃっていることです。
教会の玄関前のバラも土を消毒し、葉がつながってくればこまめに消毒しないと根も葉も病気になり害虫がついて花は美しく咲きません。ぶどうも良い実をつけるためそういう手入れが大事です。
私たちも良い実を結ぶ者となるため「主のお言葉によって清くされる」のです。
私たち人間は自分でいくら洗っても、拭ってもなかなか消えない頑固でしつこい罪の性質というものがあります。
全き聖なるお方の前に立つと、「わたしはきよい者です」などとは決して言える者ではないでしょう。そのような私たちにとって本当にありがたいのは、イエスさまが「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」とおっしゃっている事です。
御父なる神さまは「イエスさまの話した言葉によって私たちをきよく」し、私たちが良い実を結ぶものとなることを何より望んでおられるのです。

まさにそのために、4節でイエスさまが「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」とおっしゃっている事が最も重要です。
「ぶどうの枝が木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことはできない。」
ぶどうの枝だけでは実を生み出す生命力を持ち合わせていません。当然枝を土に差し込んでも実はつきません。同じようにイエスさまのお姿に倣う弟子たち、又私たちイエスさまを信じる者も、イエスさまにしっかりとつながり、結びついていかなければ実を結ぶことができません。どんなに良いように思える業を行っても、イエスさまとそのお言葉につながって生きるのでなければ、神さまの喜ばれる実を結ぶことはできないのです。
私たちはぶどうの幹であるイエスさまにつながり続け、御言葉にとどまり、聞き続けることによって豊かに実を結ぶ枝とされるのです。

ブラジルのCさんがイースター礼拝でのバプテスマに向けた準備会を持っていますが。彼は大阪教会に初めて来られたのが8月の水曜祈祷会、それから日曜の主日礼拝にほぼ毎週欠かさず出席し続けて6ヶ月が経ちました。早いものですが、また主のお計らいとお導きも早いものです。先日の準備会で彼に問いかけたのは、「なぜ、バプテスマがあなたに必要か?」ということでした。彼は「大阪教会に来る前までは、自分は正しい人間だから、キリストも教会も必要ないと否定的な感情を持っていた。ところが、全ての事はキリストがお裁きになられるので、もう自分で他人を裁く必要がなくなり、心が軽くなっていった。それに伴い周りの世界も変わった。変わることで自分の中にあった否定的な感情が変わった。キリストと教会が自分には必要だと感じるようになり、大阪教会に来た。キリストを知るためにもっともっと聖書から聞き、知識を求める生き方をしたい」と話してくださったのです。
今日のところで、イエスさまが「わたしにつながっていなさい」とおっしゃっていること。又、イエスさまが「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既にきよくなっている」とおっしゃったことをこの6ヶ月の間に彼の経験してきた事がよく分かりました。それが彼の「バプテスマ」を受ける理由であることを知ることができました。

イエスさまはおっしゃいます。5節「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人はゆたかに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」
では、イエスさまにつながる生活、実を結ぶ生き方とはどのようなものでしょう。
9節-10節において、イエスさまは「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」と言われます。それはイエスさまの愛にとどまり続けることです。
「イエスさまが御父の神さまに愛されているように、わたしはイエスさまから愛されている」と信じていますか。わたしのために十字架について下さったこのイエスさまの愛、皆さんお一人おひとりは一人残らずイエスさまから愛されている存在です。その愛にどんな時もとどまり続けましょう。
そして10節「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」とおっしゃいました。
この、イエスさまが「わたしの愛にとどまりなさい」とおっしゃる掟です。
「互いに愛し合う」ことが「イエスさまの愛にとどまっている」事の証となるのです。

かの12弟子といえどもイエスさまのこのお言葉なくして神の愛に生きることはできませんでした。シモン・ペトロはイエスさまに他の弟子の不義に対して、「何度までゆるすべきでしょうか。7回までですか」と尋ねると、イエスさまが「7の70倍、つまり際限のないほどゆるしなさい」といさめられたというエピソードもありますが。
イエスさまは又、マタイ5章46節以降で、「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか」とおっしゃっています。
イエスさまは、「隣人を愛し、敵を憎め」という昔ながらの価値観を、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と言い換え、自らそれを十字架の最期の時まで生きられたのです。

どこか心地よい関係、自分にメリットのある関係ならその苦労は負えるかも知れません。けれどもイエスさまが背負われたのは、ご自身にとって何のメリットにもならないこの世では非常識な程の愛なのです。
イエスさまは私たちをしばるためにおっしゃったのではありません。むしろ11節にありますように、「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」とおっしゃるのです。
イエスさまにつながり、その愛と救いの福音を知れば知るほど感謝と喜び満ち溢れるようになるでしょう。それはまた、私たちが神さまのご計画によって、キリストのからだなる教会につながり続ける中で、「互いに愛し合う」というイエスさまの御言葉の深さと広さを発見し、私たちの神さまへの愛はゆたかに育まれていくのです。
神さまの愛はあまりにも大きく、私たちが持ち得うるものではありません。ちょっとしたことが起こると落ち込み揺らぐような私たちでありますけれども。だからこそイエスさまにつながり、とどまり、倣い従っていく者のうちに神さまは確かに働かれ、豊かに実を結ぶものとならせてくださるのです。
今日の個所の前には、イエスさまが弟子たちの前に身をかがめて仕える人となられて、その一人ひとりの足を洗われた「洗足」の記事があります。
「愛し合う」という事は、具体的に「仕え合う」ことなのだと、イエスさま自ら示されたのです。お互いの汚れた足をもいとわず仕え合う。
それは8節で、「あなた方が豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それが明らかになることによって(傍線原文)、わたしの父は栄光をお受けになる。」アーメン。

イエスさまは、弟子たちをもはやしもべとは呼ばず、「友」と呼ばれました。それは「御父から聞いたことをすべて隠すことなく、弟子たちに知らせた」からです。
随分前ですが、ある高校生に「友」と呼べる存在についてのアンケートをとった結果を見て知ったのですが。1番多かったのは、「心を開いて安心して話せる人」。2番目に多いかったのは「本気で叱ってくれる人」。3番目に多かったのは「一緒にいるだけで楽しい人」だということです。おそらく今の高校生もこれに近い回答がでるのかも知れませんが。なるほどなぁと思いましたが。果たして3つの愛すべてを満たす友がいるでしょうか。いる人は幸いですね。けれど多くの場合、いつ、いかなる時も、いつまでも、という関係性は見出せないのではないでしょうか。
しかしイエスさまはいかなる時も、私たちのまことの「友」となってくださったのです。
今日は「わたしにつながっていなさい」との御言葉から、まずイエスさまと私の関係を築いていくことの大切さを確認しました。それは、私たちがゆたかに実を結ぶためだと、約束をしてくだったことなのです。この豊かな実の最高の結実は、イエスさまが十字架を通して示された神の愛です。その愛によって私たちはイエスさまにつながることが赦されているのです。イエスさまと私たちがつながることによって、私たちも豊かに実を結ぶものとされるのです。それは「互いに愛し合う」ことです。それこそが、神が栄光をお受けになることです。神の国を求め、平和を造り出すようここからあゆみだしましょう
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2024/3/3 主日礼拝式・受難節Ⅲ

2024-02-29 11:48:59 | 教会案内

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主イエスの復活を信じて

2024-02-26 11:02:35 | メッセージ
礼拝宣教    ヨハネ11章1-44節 
 
本日は、わたしたちの人生は「死で終わるものではない。」この救いの真実を、ラザロの死とよみがえりの記事を通して確認してまいりたいと思います。

今日登場いたしますベタニア村の兄弟たちは両親を早いうちに亡くしたのでしょうか。3人で寄り添うように生活をしていました。そういう中でイエスさまと出会った彼らは、イエスさま一行を家に招いて迎えます。食事でもてなそうととするマルタとイエスさまのお話を真ん前で聞いていたマリアのエピソードはよく知られておりますが。今日の箇所のすぐ後の12章はイエスさまが十字架におかかりになる6日前ですが、その時にもイエスさまはベタニア村に行かれ3人のもてなしをお受けになられています。そのように今日の11章5節にあるとおり、イエスさまはマルタとマリアとラザロを大変いつくしまれ、愛しておられたのであります。

そうした3人のうちのラザロが重い病気にかかり重篤になります。姉妹たちはイエスさまに使いを送り知らせるのでありますが、イエスさまは「なおも二日間同じ所に滞在された」というのです。弟子たちはイエスさまがラザロもその姉妹も愛しておられたことを知っていました。けれどラザロの住むユダヤに行くのは大変危険なことだとわかっていました。なぜならイエスさまは反対する者らから命を狙われていたからです。弟子たちも又、心配や不安の緊張感を持っていました。
そのようにこのラザロの出来事はいよいよイエスさまが十字架の道へ向かわれるその過程にあって起ったのです。イエスさまはこの事を通して、弟子たちにご自身を信じるようになることを強く願っておられたのです。

イエスさまは4節「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と謎めいたことをおっしゃっています。
これからラザロの上に起こる出来事が、「神の栄光のためであり、神の子が栄光を受けるためのものだ」と言われるのです。ラザロの上に起こる事とはなんでしょう?
それは「死」と「復活」です。
実はこのラザロの死、さらに死からのよみがえりは、迫りくるイエスさまご自身の十字架の死、そして復活を指し示す「しるし」なのです。

弟子たちはこの後イエスさまのむごたらしい死に直面することになります。イエスさまは彼らがどれほどの深い絶望感に襲われることになるかご存じでした。だからこそ、ラザロを通して「それは死で終わるものではない」こと。その出来事が「神の栄光のためであり、神の子が栄光を受けるため」のものだと、いわば宣言しておられるのです。
この出来事の目的は、奇跡現象にあるのではありません。イエスさまご自身の死と復活によって信じる者に与えられる救い、その神の栄光とイエスさまの神の子としての栄光が顕される。そこにイエスさまの目的があったのです。

さて、17節以降のところで、イエスさまがベタ二アに到着されたことを聞いたマルタは、イエスさまをすぐに迎えに行きます。
マルタはイエスさまに会うと、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と、その心の思いのままを口にします。イエスさまには病人をいやす力があるとマルタは知っていたので、ラザロが生きている間にイエスさまが来られなかったことが残念でならなかったのです。妹のマリアも、イエスさまを見ると足元にひれ伏して、「主よ、もしあなたがここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(32)と嘆くのです。

マルタはそれでもしぼり出すようにして、「しかし、あなたが神にお願いなることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」というのです。
それをお聞きになったイエスさまはマルタに、「あなたの兄弟は復活する」(23)と言われました。
するとマルタは、「終りの日に復活することは存じております」と答えます。
それはユダヤの人々の間にある一般的な復活についての言い伝えをおっしゃったのではありません。

イエスさまは言われます。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(26)
イエスさまは、「わたしこそが復活であり、命でさる」と力強く宣言なさいます。それは神の権能による宣言であります。そして、「あなたはこのことを信じるか」と問いかけられるのです。

「わたしを信じる者は、死んでも生きる。」
わたしどもの肉体は朽ちても、復活のキリストに結ばれる「命」は、死で、滅びに終わることはないのです。それはキリストを信じる私たちがキリストの十字架のあがないを受け、復活のキリストの命を受けているからです。
「生きていてわたしを信じる者はだれも決して死ぬことはない」というお言葉も同様です。復活のキリストにつながっているのなら、肉体の死はもはや死ではなく永遠の命にすでに入れられているのです。弟子たちにも、わたしたち一人ひとりにも「このことを信じるか」と問われているのです。
この問いかけは、人や世間がどうかということではなく、あなたはどうなのか。あなたはわたしが復活であり、命であると信じるのかと直接一人ひとりに向けらているです。
マルタはそのイエスさまの問いかけに対して、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」(27)と答えました。

けれども彼女はその後で、そのまさに復活の主であるイエスさまご自身がラザロの墓の「石を取りのけなさい」(39)と仰せになった時、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」(39)と答えたのです。
彼女はイエスさまに信じますと言いましたが、その後もそのように信仰は揺れ動くのです。

そのマルタに対してイエスさまははっきりと言われます。
「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか。」(40)
この後、イエスさまによって御父である神さまに願いが聞き入れられたという感謝の祈りがささげられます。それはマルタが言うように。「イエスさまが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださる」という確信に満ちた祈りでした。そしてそのように祈られたのは、弟子たちをはじめ、周りにいる群衆のためです。「神よ、あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです」(42)とおっしゃるのです。

イエスさまは「ラザロ、出て来なさい」(43)と大声で叫ばれます。
すると完全に死んでいたラザロが「手と足を布で巻かれたまま出て来た」(44)のです。
死で終らないと仰せになったイエスさまは彼に命を与えられ、神の子としての栄光を顕されるのです。
ラザロのよみがえりはイエスさまご自身の復活であり、命であることの証明となったのです。
主イエス・キリストを信じる者に永遠の命を約束する良き知らせ、これこそが福音であります。
この福音、キリストによる命の法則が2000年余のときを経た今日も聖霊のお働きを通して私たちの間で生き生きと輝き働いているのです。
このイエスさまを通して行われたラザロのよみがえりに、マルタがどのような反応をしたかは何も書かれていませんが。きっとイエスさまと出会い直しをしたマルタがいたのではないでしょうか。

祈祷会の時、ある姉妹が年の瀬に近しい方を突然亡くし、悲しみと不安で心が渇ききって何もする気が起らなかったそうです。それから数日後にOさんが天に召され気持ちも重たいまま告別式に出席されたとき、なぜか自分自身が信仰によって生かされているという思いと不思議と気持ちが静まり、落ち着いた気持ちにされていく経験をすることができた。ヘブライ人への手紙11章1節にある「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と御言葉を知ることができた。長い信仰生活を送って来たが、自分は一体何をしていたのだろうと思うほど気持ちが新しくされる、まさにイエスさまとの出会い直しのお証しくださいました。
その喜びの賛美は、今日の「もし信じるなら、神の栄光を見る」とおっしゃる主イエスへの確かな応答であるでしょう。
私たちの罪を担い、十字架にかかってあがない、私たちを滅びから救い出して下さる主イエス・キリスト。このお方のよみがえりの命に日々与り、永遠の命の光の中を歩み通してまいりましょう。
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桜人企画 公演 2/23-24 終了

2024-02-24 18:39:35 | 教会案内
桜人企画 公演 2/23-24
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