日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

主の言葉を聞け

2024-10-13 13:13:32 | メッセージ
主日礼拝宣教  エレミヤ7章1-11節  

先週の礼拝からエレミヤ書が読まれ、その1章のエレミヤの召命の記事より御言葉を聞きました。その後の2章~6章では南ユダの人々の罪に対する指摘と、悔い改めなければエルサレムの都は陥落し、滅びることになるとの警告が、語られています。さらに5章にはエルサレムの陥落した民の様相が描かれていますが。その1節「エルサレムの通りを巡りよく見て、悟るがよい。広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか正義を行い、真実を求める者がいれば、わたしはエルサレムをゆるそう。」と神は言われますがそれを見出すことができません。31節には「預言者は偽りを預言し祭司はその手に富をかき集めわたしの民はそれを喜んでいる。」このように地方からの巡礼者をいわば食い物にする人々の姿があります。さらに6章13—14節「身分の低い者から高い者に至るまで皆、利をむさぼり預言者から祭司に至るまで皆、欺く。彼らは、わが民に破滅を手軽に治療して平和がないのに、『平和、平和』と言う。彼らは忌むべきことをして恥をさらした。」このように南ユダの現状は神の前に惨たんたるものであったのであります。
立派な神殿が築かれた都エルサレムは、大国の脅威にさらされながらも一見平穏に映ります。けれども神さまの目にはすべてが明らかです。人々は神への背信によって戒めを破り、危機的状況であるにも拘わらず偽預言者や祭司たちは「平和、平和」と人々に偽りの平安を語っていました。
何が偽りかといいますと、神の御心を尋ねようとはせず、気安く主が守って下さる、主の神殿があるのだからエルサレムは大丈夫と安価な恵みを語り、祭りごとを行って富をかき集めていたのです。繫栄した社会に浸ってきた民衆の心は神から離れ、民の指導者たちの言葉に喜んで聞き従っていました。それは耳触りの良い言葉であったからです。権力者や富裕層は自分たちの生活のために地方の人々や外国人たちを搾取し、私腹を肥やしていました。風紀は乱れ、神ならざるものを崇拝する偶像礼拝がはびこっていました。孤児や寡婦、寄留の外国人は虐げられ、無実の人の血が流され、神ならざるものが崇拝される世の中。それは神さまの目には悪と映りました。

さて、エレミヤが主の言葉を語った人々は、「主を礼拝するために神殿の門を入って行くユダの人々」でした。エレミヤはその人々に向けて、「主の言葉を聞け」と訴え、「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない」と主の言葉を告げます。
人々が荘厳で立派な神殿にお参りに行くようなことをいくら形式的に行ったとしても、神は喜ばれませんでした。神が望んでおられたのは、悔いて改める心、砕かれた霊でした。かつて先祖たちを滅びの国から導き出し神の民としてくださった主なる神への真の悔改めと感謝、その生きた交わりを神は待っておられたのです。いくら神殿に出入りしても、神の前に改まった人生の歩みにつながらないのならば、それは虚しいものでしかありません。
まあ人々はおまじないのように「主の神殿、主の神殿、主の神殿」と言っていたようですが。この言葉はかつて先の預言者イザヤの時代、南ユダの国がバビロン帝国の王の進攻に遭い、町がことごとく占領され、最後に残ったエルサレムも包囲されるのですが。しかし神はその王の心を変えさせて、エルサレムとその神殿だけは残ったのですが。そのところから生まれた言葉でした。
南ユダの指導者はじめ民衆は、自分たちの神の前におけるふるまいを認めようともせず、もはや迷信のようにそれをただ唱えていたのです。偽預言者たちが「主の神殿、主の神殿、主の神殿」と唱えればエルサレムは「神がおられ、神殿があるから我々も滅びることなどない」との不滅神話となったのです。
けれども、それは主なる神さまに対する信仰ではなく、神殿という建物に対する盲信でありました。神殿は神ではありません。よく「〇〇神社は〇〇のご利益がある」とか、最近は「〇〇パワースポット」とか言うそうですが。神殿が何か救いや平安を保証してくれるのではありません。 
その神殿が建てられた時ソロモン王はこう祈りました。「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天も、あなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。」(列王記上8章27節)
神殿もこの私たちの教会堂も、それを神聖なものとされるのは神さまご自身です。神殿そのものを信仰の対象として神格化することは、神さまがお嫌いになられる偶像崇拝です。
それでも私たちが共に集まりますのは、主の日(日曜日)に礼拝を捧げ、水曜日には祈祷会で聖書を学び、祈り合う。神の前に信仰が確かなものとされ、共に主の救い、福音を喜び分かち合うためです。それは又、日常生活で心疲れ、重荷を抱えている中で霊的にガス欠にならないように魂に霊の油を給油する貴重な時であるからです。ただ「主の神殿」と唱えても、そのように神の前に出るのでなければそれは虚しいものです。

さて、この当時、礼拝するためにソロモンの神殿の門に入いることができる人たちは限られていました。預言者や祭司をはじめ、主にエルサレムの権力者や富裕層たちでした。
エレミヤは神殿の門をくぐることのできた人々に対してこう告げます。5-6節「この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。」
神は彼らに正義を求め、呼びかけておられたのです。
ところで主イエスは、「神殿から商人を追い出す」いわゆる「宮清め」と言われる記事(マタイ21章他)で、「『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところがあなたたちは、それを強盗の巣にしている」とあります。これは預言者イザヤ(56章7節)、そしてエレミヤが取り次いだ主の言葉(エレミヤ書7章11節)を用いて、主イエスは宮きよめをなさったのです。
神殿の境内には遠方から礼拝を捧げるために大変な旅をして来た巡礼者から、ささげ物などを高額な値段で売りつける商売人や両替商。場所代や出店の権利をまきあげる宮仕えがいました。主イエスは「わたしの父の家を強盗の巣にしている」とお叱りになり、その台をひっくり返し、神殿から彼らを追い出しました。この場面の主イエスの行動は実に激しく厳しいものでありました。
神殿は祈りの家、神の前に立ち帰って自らの行いを省み、悔改めとゆるしの宣言に与って、その感謝をもって御心に生きようと方向転換する、そのような場であることを明らかにされるのです。
先の5章の「エルサレムの通りを巡りよく見て、悟るがよい。広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか正義を行い、真実を求める者が」と、主がエレミヤに問いかけた言葉を読みましたが。主の神殿の門をくぐる人たちに本当に求められていることは、彼らが目を覚まし、神に立ち返って不正や搾取をやめ、隣人愛をもって神の平和を追い求める生き方でした。しかしいくら神殿の門をくぐっても彼らの日常は不義に満ちていました。
ところで、神殿の時間と日常の生活とが切り離されている様子を「サンデークリスチャン」と言うそうですが。聖書の言葉を開くものの、その場限りに終わって日曜日の礼拝に出席していれば大丈夫、安心だ、という安全神話になりますと大変です。
大切なのは、主の救いを忘れることなく思い起こし、希望を戴き、感謝と喜びに与ることです。耳の痛い話でも心探られて立ち返って、御心に歩む人を神は喜び迎えて入れてくださいます。
逆に、教会堂から一歩外に出ると、もう神さまとの関りのない別の世界に切り替わってしまうのであれば、それは残念なことです。もしその行動が不正や暴力、又無慈悲なものであるのなら、もはや躓きでしかありません。争いを仕掛けながら人前で十字を切って見せるような指導者の映像がテレビで流れましたが。何よりも主なる神さまはすべてをご存じです。神を畏れ敬う人はその行いも自ずと正されるでしょう。

始めにも申しましたが、この南ユダの時代は大国の脅威にさらされながら、いつ滅ぼされるかわからないような危機に瀕していました。にもかかわらず、偽預言者らは「主の神殿」があるのだから大丈夫だとかたり、礼拝に来る人たちに偽りの平和を告げ、権力者や富裕層の人たちの不正や搾取に対して見て見ぬふりをしていました。
エレミヤは、真の神は義であり聖なるお方であられる、主に立ち返って生きなければ、滅びる」と御言葉をまっすぐに語りましたが、偽預言者たちは「平和、平安」と口にしました。それは一時は民を安心させたかも知れませんが、偽りに過ぎなかったので結局民は悔い改めることなく、結果的に滅びを招くことになります。又、神殿の祭司たちは状況を知りながら神殿参りに来る人々から奉納金を集め保身に走っていました。
偽預言者、祭司、神殿の門をくぐる指導者や裕福な人々は皆それぞれにもたれ合いながら、主の神殿を私利私欲、自分たちの保身の道具として利用していました。その状況をご覧になられた主なる神さまは、「わたし名によって呼ばれる神殿が強盗の巣窟に見える」と言われたのです。それは人から信仰もお金も平和もあらゆるものを奪う強盗という意味であります。どうしてそうなってしまったのでしょう。それは神を畏れ敬う心を忘れ去っていたからです。

本来の「主の名による神殿」とはどのようなところでしょうか。
それはユダの人々にとっても、又私たちにとりましても、悔い改め神に立ち返り、救いの確認を頂いて感謝と喜びに溢れ、神の御心に沿う御言葉を生きる場であります。先にも申しましたように、生ける主は人の造った建物に住まわれる方ではありません。それにも拘わらず神さまは、私たち人間と共にいる決断をされたのです。それが遂に救いの主、イエス・キリストを通して実現されたのです。
ヨハネ福音書1章にはこうあります。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」神の生ける言(ことば)。イエス・キリストが人の姿となって来てくださった。だれでもこの救いの主なる方を迎え入れるなら、その人は「神の神殿」(Ⅰコリント3章16節)なのです。神は御独り子イエスさまをお与えになるほどに、罪に滅ぶほかない私たちを愛されています。人はこの神の慈愛を迎え入れ立ち返って生きるところに、人本来の幸いと平和を得ることができるのです。罪に滅びることがないためです。

最後になりますが。エレミヤは神の裁きの言葉を臆することなく示し続けました。世間の人がどう思うか、どう人に見られるかではなく、主の言葉を聞き、誠実に御言葉を伝えたのです。キリスト者も又、人がどうとか、周囲がどうかではなく、主の言葉に聞き従って「これは本当だ」という主の御心を示す者とされているのであります。それは語ることだけに限ったことではありません。語る言葉の少ない方はそのしぐさや存在そのものを通して、「神が生きておられる」ことを示しておられるのです。いずれにせよ、主は私たちの存在を通してその主の御心を示し、表そうとなさっておられます。
主イエスは最も重要な掟についてこう仰せになりました。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、あなたの神である主を愛しなさい。」同じように「隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイ22章他)この喜ばしい命の言葉をキリスト者として生きるようにと、招かれています。
今日、私たちも又、「主の言葉を聞け」と、エレミヤを通して主の語りかけを聞きました。実にこの主の言葉とは、神の救いの道イエス・キリストご自身であります。真の幸いに至るイエス・キリストの真理の道を歩んで魂に安らぎを得、本物の平和、シャロームの実現を共に待ち望み、祈り求めてまいりましょう。
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主日礼拝式 2024/10/13

2024-10-11 07:32:16 | 教会案内

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誕生と使命

2024-10-06 13:32:16 | メッセージ
礼拝宣教    エレミヤ1章1~12節 

本日から約2カ月に亘ってエレミヤ書から御言葉に聞いていきます。
まず、このエレミヤについてですが。彼が預言者として立てられ、活動した時期については1章1節から4節までに記されております。ヨシヤ王が南ユダを統治していた13年目の紀元前626年に彼は主の言葉によって預言者として立てられます。そのヨシヤ王の時代は神の教えと戒めが読み直されたいわゆる宗教改革によって平安と繁栄が保たれていました。ところがヨシヤの子ヨヤキム王の時代になると国民(くにたみ)は主の教えを忘れ逆らい、腐敗していくのです。そして、次のゼデキア王の時代には遂に南ユダ王国がバビロン帝国に滅ぼされ、南ユダ王国、そして都エルサレムはバビロン帝国によって滅ぼされてしまうのです。エレミヤは捕囚の民となる紀元前586年までの実に40年間に亘り、そのような激動の時代を主の預言者として活動したのです。

この預言者エレミヤの召命については、いくつかの特徴的な面を見ることができます。
それは、まず4節に「主の言葉がわたしに臨んだ」と記されていますように、エレミヤの預言者としての召命は、彼が自分からやりたくて求めたものではなく、又人から与えられたり、勧められたりしたものでもないということです。主ご自身が彼を召し出し、使命を与えた。しかもそれは、昨日今日決まったというものではなく、5節に「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」とありますように、エレミヤが生れる前からなんと主が計画なさり、預言者となるためにエレミヤは世に生れて来たのです。
詩編139編ダビデの詩にはこのような賛歌が記されています。
「あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎にわたしを組み立ててくださった。わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって、驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか、わたしの魂はよく知っている。秘められたところでわたしは造られ、深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている、まだその一日も造られないうちから。」
それはエレミヤだけではなく、私たち一人一人もまた、天地万物をお造りになられた主なる神さまが、母の胎内に私を造り、私のことを知ってくださり、ご計画をもって地上に送り出しておられるということです。
私たちがイエス・キリストのみ救いを信じ、新生の命に与ったことも、聖書には「神のご計画によって召された」とあります。「いや、私はそのような者ではない」とお思いになる方もいらっしゃるかも知れません。エレミヤもそうでした。
現代の社会において、多くの人が自分の存在意義を見出すことができず、苦しんでいるといえます。仕事や学問の成績が良いか悪いか。周囲の見た目や、地位や肩書き、お金があるかないか。そういうことで常に計り計られています。この社会ではそれらがあたかも人としての存在の意義であるかのように評されていることが、往々にしてあるのではないでしょうか。
聖書は私たちが存在している意義や価値をそうしたこの世の基準や評価によらず、創造主であられる神さまが母の胎内にいるときからあなたを造り、あなたのことを知っていてくださり、母の胎から産まれ出てからも、あなたと共にいて、この地上の人生を歩み行くものとしてくださるのです。
「青春の日々にこそ、おまえの創造主に心を留めよ。」あなたの若き日に、あなたの創造主を覚えよ」(コへレト12章)と聖書の言葉がありますが。まあ昔とは違うでしょうから70~80歳が青春であってよいわけです。大切なのは、今、この光のあるうちに光の中を歩むように、救いの神をほめたたえつつ、恵みに応えて生きる。その証しの日々に私たちが存在し、生かされている。これが良き知らせ、福音なのです。

主はエレミヤに、5節「わたしはあなたを聖別し 諸国民の預言者として立てた」と語られます。
「聖別する。」それは、特別な目的のために取りわけておくということです。エレミヤが清いとか、聖なる者であったからというのではなく、主がエレミヤを諸国民の預言者としてお立てになるために、主自らエレミヤをその使命のために聖別されたのです。

その主の言葉に対してエレミヤはこう答えます。
6節「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者に過ぎませんから。」エレミヤはためらい、自分には相応しくありませんと、何とか逃れようとするのです。ちなみにエレミヤは「若者に過ぎないので、語る言葉を知りません」とも言っていますが。彼は当時少なくとも20歳にはなっていただろうということですから、単に年齢的に若いということではありません。自分のような若輩者にはあまりにその使命は重く大きすぎるという恐れの思いがあったのでしょう。それはエレミヤより少し前の預言者イザヤも主の召命にあたり、「災いだ、わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者」と答えているのです。又、出エジプトのために立てられたモーセも、「ああ、主よ、わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕に言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌が重い者なのです」とやはり答えました。
共通するのは、彼らが聖なる主への畏れを持つ人であったということです。又、その担うべきものがあまりに重く、自分の才能や能力によっては到底務めることなどできないという誠実さからくるものでありました。私なら出来と考えている人は、往々にして高慢と貪欲なために主がお用いになることができないのです。

さて、主はエレミヤに語りかけます。
「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行って わたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す。」
主も引き下がりません。
ここで大切なのは、「主が共におられる」という確約、約束です。「主が共におられる」ことを頼みとし、杖としていく人を主はゆたかにお用いになられるのです。主はエレミヤを南ユダだけでなく、諸国民の預言者として立つよう任命されます。
そして主はエレミヤに「手を伸ばして、その口に触れ、『見よ、わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける』と約束されます。主が必要な言葉を与え、共にいて必ず救い出す。そう仰せになります。
さて、そのエレミヤに思いもよらぬ主の言葉が臨みます。
「見よ、今日、あなたに諸国民、諸国王に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために。」
預言者エレミヤの生きた時代は、シリアや南ユダを含むパレスチナ地方一体の支配権をめぐり、大国エジプトとバビロンが争う中におかれていました。南ユダはエジプトと安全保障同盟のような関係を結ぼうとしますが、それは神の御心ではありませんでした。神は国民(くにたみ)が立ち返って神に信頼するよう預言者を通して語りかけます。エレミヤはエジプトに頼ればバビロンの反感を買い南ユダの滅びに繋がると王と民に訴えるのです。何だか昨今の情勢にも重なる話のようですが。

しかし、南ユダの国民は聞き入れられるどころか、エレミヤは多くの民から売国奴のようにみなされるのです。それでもエレミヤは主の御言葉に立ち、屈することなく、「主に立ち帰れ、戦争のための同盟に加わるなら南ユダは滅びる」と、警告を強く語り続けるのです。次第にエレミヤに対する非難中傷が激化し、彼の兄弟や親戚にもその被害が及ぶような危機にさらされていきます。

それでもエレミヤは最後の最後まで南ユダの国民に向け、「主に立ち帰らなければ、この国は滅ぶ」と訴え続けましたが。南ユダの王はじめ民はエレミヤの語る主の言葉に聞き従うことはありませんでした。そうしてまさに紀元前586年、主の預言のとおり南ユダの国は陥落してしまうのです。
それは「滅び」としかいいようのないものでした。主の言葉を語った預言者エレミヤの働きは無意味であったのでしょうか。
エレミヤに臨んだ主の言葉をもう一度よく読んでみましょう。
「見よ、今日、あなたに諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために。」
確かにエレミヤの語った主の言葉は南ユダの国で現実となり、抜かれ、壊され、滅ぼされ、破壊さ
れました。
しかし、ここに「建て、植えるために」と、あります。崩壊と滅びの中においても、エレミヤの蒔
いた主の言葉は虚しく無くなったのではなく、やがてその来たるべき時、滅亡を免れた残りの人々
の間に主の言葉は芽を吹き、南ユダの国のみならず、世界に実りをもたらしていくのです。その預
言通り長い時を経てエルサレムへの帰還と信仰復興による神殿再建の時が訪れるのです。

11節、主はエレミヤにアーモンド(シャーケード)の枝を指し示して語りかけます。
「エレミヤよ、何が見えるか。」そこにはまだ実りの無いアーモンドの枝だけがエレミヤの目に映ります。
そのアーモンドは枝だけで実りの気配すらありません。アーモンドの木は枯れたように見えるその枝に、ある日突然ピンクの花を一斉に咲かせ、実をつけるそうです。当時の腐敗し滅亡せざるを得なかった南ユダの状況は実りの無いアーモンドの枝のようでした。
しかし、崩壊と共に捕囚の民の厳しい冬を耐え忍んだアーモンドの木が春の訪れと共にその枝に一斉に花を咲かせ、やがてアーモンドの果実を豊かに実らせるように、エレミヤを通して蒔かれた神の約束の言葉は、長い捕囚の民の生活を支え、解放とエルサレム帰還を経て実を結んでいくのです。

主なる神さまは12節にあるとおり、これからエレミヤを通して語られる言葉が成し遂げられるように見張っている(ショーケード)とおっしゃるのです。アーモンドは「シャーケード」、見張っているは「ショーケード」と、どちらも似ていますが。何かニューモラスにも思えますが。アーモンドの実はアーモンドの形が「目」に似ていることから、目にたとえられてもいるそうです。人々が何と悪い時代だ、逆に良い時代だと思っていても、神は見ておられる、見張っておられるのです。南ユダの民は滅びてしまったかに見えました。しかし、エレミヤを通して語られた神の言葉はバビロンから南ユダの民を帰還させ、荒廃したユダの地を植えなおし、信仰の復興がなされるのです。
確かにエレミヤが語った主の言葉は実現いたします。
エレミヤは「涙の預言者」と称されていますように。その生涯は、主の言葉を伝えても同胞の民から拒絶され、行く末を案じては憂い、涙する日でありました。けれどその語った神の言葉はそのエレミヤ自身の名が表すとおり、「主が建てたもう」という復興の実現として結実したのです。希望の種、御言葉を蒔き続けたエレミヤの人生でありました。

最後になりますが、本日は「誕生と使命」という題をつけました。
この世に生まれたのならば、何かを世に遺して人生を終えたいと考える人は少なくないでしょう。内村鑑三氏は「後世への最大遺物」「デンマルク国の話す」(岩波文庫)という本が著され、世の多くの人に読まれ続けています。
それは、当時の若い人たちのみならず、万民にむけても語られている内容であるからです。世で起した業績、地位や名誉、財産を遺せる人は一部でしょうが。すべての人が後世へ残せるものについて内村氏は、「高尚なる生涯」だと語っています。

エレミヤにとっての後世への最大遺物は、彼が命をかけて主の言葉にどこまでも聞き、それを伝えつつ生きていったその神聖にして高尚な生涯でありました。しかし、後世の最大遺物それは、何もエレミヤ、内村氏に限ったことではなく、すべての人びとのうちに主が託しておられることなのです。
それは世に生まれた者誰もは、天から与えられた使命が与えられているのです。私たちひとり一人が何のために誕生し、今を生き、存在しているのかを、今日の聖書の言葉から思いめぐらしつつ、ここから歩みだしていきたいと思います。

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主日礼拝式 2024/10/6 おしらせ

2024-10-04 07:32:22 | 教会案内

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ナインの会@大阪 2024/10/19  おしらせ

2024-10-02 07:54:51 | お知らせ
ナインの会@大阪
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良きものに変え給う神

2024-09-29 13:11:12 | メッセージ
礼拝宣教 創世記50章15節~26節 

9月は創世記からヨセフ物語の記事を読んできましたが、本日はその最終回となります。
先ほど朗読された50章の箇所から、聖書のメッセージを聞いていきたいと思います。
その前におさらいですが。イスラエル12部族の父となったヤコブは、その子ヨセフを溺愛します。ヨセフは兄弟とその父母までもが、自分にひれ伏し拝する夢を見て兄弟に話したために、兄弟からひどくねたまれ、穴に投げ込まれエジプトに売り渡されてしまいます。
奴隷となり、濡れ衣を着せられて囚人となるヨセフでしたが、どんなときも主が共におられることをヨセフは知っていました。
同じく囚人となっている王の料理役と給仕役の夢を解き明かしたことから、エジプトの王ファラオの前に出ることとなり、王の夢を解き明かして神の啓示を示し、為すべき備えを助言したことから、
ヨセフは王の任命によりエジプトの大臣となるのです。後に飢饉が起こりカナンの地から兄弟が糧を求めて下ってきます。様々ないきさつはありましたがヨセフは身を明かし兄弟を許し、父や家族を呼び寄せてエジプト近郊に住むところを与えるのです。
17年ほど経った後ヤコブは子らを呼び寄せそれぞれを祝福し天に召されます。

「ゆるしの再確認」
父ヤコブが亡くなると、ヨセフはカナンの地に葬られることを願っていた父の遺言を実行します。エジプトのファラオの許可を得て、エジプトの主だった重臣たちすべてとヨセフ家族全員、そして彼の兄弟たち、さらに戦車も騎兵も共にカナンの地に上っていくのです。そして一行はヨルダン川の東側のゴレン・アタドの地に着くと、エジプト流の非常に荘厳な葬儀、七日間にわたる盛大な追悼式が行われました。
こうしてヤコブの息子たちは、父のなきがらをカナンの土地に運び、父が生前に命じていたとおりマクベラの畑の洞窟の洞穴に葬るのです。ヨセフは父を葬った後、カナンの地にのぼった兄弟たちはじめ、すべての人たちと共にエジプトに戻りました。

父が死ぬとヨセフの兄たちは、ヨセフが自分たちに報復するかも知れないと恐れます。若き日に弟ヨセフを亡き者にしようとしたおぞましい仕業を、はたして本当にゆるしているのだろうか、そう考え恐ろしくなったのでしょう。確かに先週の45章で、ヨセフは兄たちに身を明かし、すべては神の救いのご計画であったと言って彼らを抱いて泣き、兄弟たちに口づけをし、ともに語り合ったとあります。まあ兄たちにとっては、ヨセフに対してそれだけの事をしたのですから、やはり罪責感があったでしょうし、それに加え、父の葬儀の時にはエジプトをバックに絶大な権力を持つヨセフを目の当たりにし、今後何をされるか分からないと不安が生じたのでしょう。
そこで、兄たちはヨセフが報復しないよう策を講じます。彼らは「父がヨセフに兄たちの罪をゆるしてやるように願っていた」と、人を介してヨセフに伝えさせるのです。
しかし父が兄たちの罪を知っていたかははっきりしていませんし、口にすることなどできなかっただろうと思えます。ヨセフもおそらくそれを見抜いていたのではないでしょうか。ただ、これを聞いたヨセフは涙を流します。いまだに兄たちが自分への恐れを抱いていることを知って、悲しく寂しい思いになったのです。
やがて、兄たちがやって来ます。彼らはヨセフの前にひれ伏し、「このとおり、私どもはあなたの僕です」と、ゆるしを乞うのです。
すると、ヨセフは兄たちに言います。
「恐れることはありません。わたしが神に代わることができるでしょうか。」
「わたしが神に代わることができるでしょうか。」兄たちと再会した時、ヨセフは「あなたたちを生き永えさせ、大いなる救いに至らせるため神がわたしをここへ遣わされた。わたしを遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。」そう言って、もはや「悔やんだり、責め合ったりする必要はありません」とゆるしの言葉をかけ、兄弟たちと抱擁しました。
ヨセフは神に代わって裁くことはできないとの思いに至っていたのです。

私たちの日常の生活においても、又この社会の出来事においても、時に憤り、それは一体どういうことだと怒り、人を裁くことがあります。けれど、すべてを知っているのは唯神のみ、神だけが全く正しい裁きをなすことがおできになるのです。
ヨセフの「わたしが神に代わることができるでしょうか。」この言葉は、神の前において人は真に謙虚にされ、柔和な者に創り変えられていくことを示しているのです。
兄たちはヨセフがエジプトの絶大な権威と力を保持する大臣であることにも脅威を感じましたが、
ヨセフは兄たちに「どうか恐れないでください」と、等身で語りかけています。上から目線ではなく自分も兄たちと同じ人間に過ぎないことをはっきり伝えるのです。

ヨセフはまた、兄たちにこう言います。20節「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」
隠れた神の救いのご計画が、それらの出来事を通して実現されて来たのだと言うのです。
ヨセフは自分の見た夢を兄たちに話したことで、恨みと憎しみを兄たちから受け、その悪巧みによってエジプトに売られてしまい、本当に様々な労苦と辛い経験をしました。もしそうした事がなく彼が父のもとにいたなら、彼の若き日は平穏であったかも知れません。しかし彼は外に投げ出され幾多の試練とも言える出来事に翻弄されながらも、遂には神の救いの業が父ヤコブと兄弟、その家族らのうえに実現されていく経験をするのです。
ヨセフはこれまでの人生を振返るとき、それが決して偶然ではなく、悪しきことをも良きものに変えてくださる、まさに万事を益と変えてくださる神のご計画があることを知ります。その救の計画が成るためにどんなときもヨセフと共に神がお働きくださったことを、ヨセフは確認することができたのです。まさにすべては神が、多くの滅びゆく民の命を救われるためのものであったのです。

ヨセフの時代からずっと後の時代のこと、エジプトを出て神の民とされ国を築いたヤコブの子孫は繁栄のおごりから、バビロンに滅ぼされ捕囚の民となってしまいます。絶望する彼らに神は預言者エレミヤをお遣わしになります。
「主はこう言われる。バビロンに70年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。わたしはあなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」(29:10-11)
彼らはこの約束を握りしめ生きていくのです。主が共におられる。これが私たちの希望です。時に過酷とも思える状況に直面することがあるかも知れません。しかし「わたしはあなたたちのために立てた計画をよく心にとめている。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」この主の壮大な救いのご計画に信頼してまいりましょう。


さて、本日のもう一つの記事は、「ヨセフの死」についてです。
その後、ヨセフは父の家族と共にエジプトに住み、110歳まで生きます。110歳はエジプト人の理想的な寿命であったようで、彼は3代の子孫を見ることができ、長寿を全うしました。その後ミイラにされてエジプトの地で埋葬されたようです。
ヨセフは死を前にして、まず、彼の兄弟たちに「わたしは間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたたちを顧みてくださり、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださいます」という希望の言葉を伝えます。

さらに、ヨセフは兄弟の息子たちにこう言って誓わせました。「神は、必ずあなたたちを顧みてくださいます。そのときには、わたしの骨をここから携えて上ってください。」
そこは先にヤコブが葬られたカナン地方のマクベラの畑にある洞穴の墓地でした。ヨセフとその兄弟たちの子孫らはそのヨセフの遺言通り、後にヨセフの骨を携えてエジプトからカナンの嗣業の地へと上り(出エジプト記13:19)、かの墓地に埋骨するのです。(ヨシュア記24:32)
父ヤコブがそうであったように、ヨセフにとっても真の休息の場、魂の居場所はエジプトにではなく、神の嗣業の地、神の約束の地であったのです。言わば、エジプトの総理大臣にまで上りつめたヨセフでしたが、その人生の集大成として兄弟たちと共に、自分たちは何者であるのかを再確認するのです。「神は必ず、あなたたちを顧みてくださり、導き上られる。」
神のご計画はこれで終わりではなく、続いていくのです。それは確かなる祝福のメッセージであります。
その神のご計画の祝福は彼らの子孫を通して持ち運ばれ、遂にそこから神の救い、イエス・キリストがおいでになったのです。この主イエス・キリストの十字架の苦難とあがないの死によって、今やすべての人に罪のゆるしと神との和解という救いの道が開かれているのです。それだけではありません。主イエス・キリストが3日目に死人の中からよみがえられた、その復活によって、主を信じる人、それは又、先ほどの交読文において「慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。主は主を畏れる人を憐れんでくださる」とありましたように、主を畏れて生きる人に永久(とこしえ)までも共におられる永遠の命の福音、朽ちることのない天の故郷を備えていてくださるのであります。
ヨセフが兄弟たち、又兄弟たちの子孫に伝えた「神は必ずあなたたちを顧みてくださる。」神は必ず導き昇ってくださるというメッセージは、主イエス・キリストを通して時空を超えて今や世界の果てにまで告げ広められ、今日の私たちのもとにも届き実現されているのです。この朽ちることのない希望に感謝しつつ、私たちも受け継いだ福音を伝え、分かち合っていく者とされてまいりましょう。
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主日礼拝式 2024/9/29

2024-09-27 07:53:25 | 教会案内

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救いに通じる悔い改めと和解の言葉

2024-09-22 13:53:14 | メッセージ
礼拝宣教    創世記44章18節~45章8節

先週の41章はイスラエルの族長ヤコブの11番目の子ヨセフが兄たちに棄てられ、行き着いたエジプトの地でエジプトの王、ファラオの夢を解いた箇所でしたが。それは7年の大豊作後、7年の大飢饉が起こるという神の託宣であり、そのための対応まで王に助言します。そしてヨセフはエジプトの第二の地位である大臣に任命され、務めることになります。大飢饉はエジプトだけでなくカナン地方にも及びます。エジプトに穀物を買い求めに出かけた兄たちは、穀物を管理販売する監督、総理であったヨセフにお目通りが叶うのです。
彼らはヨセフにひれ伏しました。ヨセフは一目でそれが自分の兄たちであることに気づきますが、兄たちは気づきません。ヨセフはその時、かつて兄たちについて見た夢、「兄たちの束が集まって来て、わたしの束にひれふした」(37:7)ことを思い起こし、それが目の前で現実となっているのです。その時から20年もの年月が経過していました。
ところが、ヨセフはその兄たちに対して「他国のスパイだ」言って責め立てます。あせった兄たちは「自分たちが12人の兄弟で、カナン地方に父ヤコブの息子たちであり、末の弟は、今、父のもとにおります。スパイなどではありません」とヨセフに懸命に説明します。しかしヨセフはその兄たちを3日間監禁し、一人シメオンだけを人質にして、穀物を持たせて末の弟を連れて来るように命じます。それはヨセフにとって同じ母の子、弟ベニヤミンでありました。
さて、兄たちは食糧をもってカナンの地に戻り、父ヤコブに事の次第を伝えるのですが。ヤコブはベニヤミンをエジプトに連れて行くことを許しません。しかし、その後も飢饉は続いて兄たちは再び一家食糧をエジプトに求めるほかなくなり、ベニヤミンをエジプトに連れて行かなければならない事情を父ヤコブに話します。すると父ヤコブは「では、弟を連れて、早速その人のところへ戻りなさい。どうか、全能の神がその人の前でお前たちに憐みを施し、もう一人の兄弟と、このベニヤミンを返してくださいますように。このわたしがどうしても子供を失わなければならないのなら、失ってもよい」と、断腸の思いで答えます。こうして息子たちは贈り物と二倍の銀を用意し、ベニヤミンを連れてエジプトに旅立ちます。
彼らがエジプトに着くと、大臣ヨセフの前で地にひれ伏し、拝しました。ヨセフは以前ユダが話していた彼らの父について安否を尋ねてから、ベニヤミンをじっと見つめ、「わたしの子よ、神の恵みがお前にあるように」と言うと、弟懐かしさに胸が熱くなり、涙がこぼれそうになったので、奥の部屋に入って泣きます。そして一同はぶどう酒を飲み、ヨセフとともに祝宴を楽しみました。
ところが、そのヨセフが兄たち一行に思いもよらない過酷な難題を仕掛けるのです。それが44章の「銀の杯」事件です。ヨセフは執事に「あの人たちの袋を、運べる限り多くの食糧でいっぱいにし、めいめいの銀をそれぞれの袋にもどしておけ、それから、わたしの銀の杯を、いちばん年下の者の袋の口に、食糧と一緒に入れておきなさい」と命じます。兄弟一行が発った後、ヨセフはその執事に、すぐに彼らの後を追いかけさせ、なぜ主人の銀の杯を盗んだのか、と言わせます。
兄たちは「どうしてご主人様の御厚意を戴いたわたしたちがそのようなことができるでしょうか。僕どもの中のだれからでも杯が見つかれば、その者は死罪に、ほかのわたしどもも皆、ご主人様の奴隷になります。」と言うのですが、ベニヤミンの袋の中からその銀の杯が見つかります。彼らは衣を引き裂き、悲嘆に暮れながら町へ引き返し、ヨセフの前で地にひれ伏します。        
ヨセフが「お前たちの仕業は何事か」と問いただすと、ユダが答えます。「何と申し開きできましょう。今さらどう言えば、わたしどもの身の証しを立てることができましょう。神が僕どもの罪を暴かれたのです。この上は、わたしどもも、杯が見つかった者と共に、御主君の奴隷になります。」
それに対してヨセフは「そんなことは全く考えていない。ただ、杯を見つけられた者だけが、わたしの奴隷になればよい。ほかのお前たちは皆、安心して父親のもとへ帰るがよい。」と言うのです。

そこからが本日読まれた44章18節以降の箇所であります。
これまでヨセフの物語を読んでまいりましたが、その展開のすべては、今日のこの「ユダの嘆願」と、それに呼応する「ヨセフの言葉」に向けられるためにあったと言っても過言ではないでしょう。
ユダがここでヨセフの前に進み出て、18節「僕の申し上げますことに耳を傾けてください」の「申し上げます」はヘブライ語で「ダバール」という原語で、「宣言する」という意味をもちます。
創世記の天地創造の折、神が光あれ、~あれと「宣言」されると、そのとおりになった。それと同じ意味です。
ユダは私がこの様なことを行った、それゆえにこの様なことになっているのだ、と言うのですが。ただそれだけなら原因と結果という因果応報です。けれど聖書は、これらすべてが神の宣言のもと成っているのだ、と示しているのです。はじめにヨセフが夢で示されたように兄弟がヨセフにひれ伏している様子も、そこから起こされていく救いの出来事も、この神の宣言のもと、そのとおりに成っている、と聖書は伝えているのです。

ところで、ここでユダの置かれている状況は、20年前と全く同じです。当時17歳のヨセフが兄たちからあの荒れ野の深い穴へ落とされ、ヨセフの人生は大きく変えられてしまいました。それはヨセフを溺愛する父ヤコブの人生もそうでした。
それから20年後、今度はヨセフと同じ母から生まれた弟ベニヤミンの人生が、ユダら兄たちの手に握られているのです。ユダらはあの時のヨセフ同様、ベニヤミンを見捨てて父のいるカナン地方に帰ることも出来ました。20年前に自分たちが犯したことと同じように、帰って父に「弟はやむを得ない事情で失われました」と言うこともできたのです。このようにユダら兄たちは、20年前と同じ立場に再び立たされるのです。
しかしユダは以前とは違っていました。彼はヨセフに言います。30節「今わたしが、この子を一緒に連れずに、あなたさまの僕である父のところに帰れば、父の魂はこの子と堅く結ばれていますから、この子のいないことを知って、父は死んでしまうでしょう。そして、僕どもは白髪の父を、悲嘆のうちに陰府(よみ)に下らせることになるのです。」
ユダは、父ヤコブが以前愛するヨセフを失ない、その嘆き悲しむ様子を目の当たりにして大変心責められたことでしょう。父ヤコブは今、末息子ベニヤミンを慰めとしており、そのベニヤミンまで失うとなればどうなることか。「二度と父を悲しませてはならない」と苦悩します。そして彼は「ベニヤミンの代わりに自分が奴隷になります」とまでヨセフに申し出るのです。あの20年前、ヨセフを奴隷に売ろうと最初に言い出したのは、このユダ本人でした。その彼が今、ベニヤミンの身代わりになって自分が奴隷になると決意するのです。何が彼をそこまで変えたのでしょうか?
それは「悔い改め」です。ユダは20年前に弟ヨセフに対して犯した罪、その重荷を背負い続けてきました。彼は心から神さまの前で悔い改めていたのです。
このユダの変化は単なる状況の変化とか自然に起ったことではありません。年をとって少しは分別がついた、などということでもありません。人間の本質はそんなに簡単に変わるものではありません。罪ある人間が、それまでとは違う言葉を語り、それまでとは違う人間性、又人間関係を築いていくことができるとするなら、それは神の前に立ち返る、そのことによってなのです。それは単なる後悔ではありません。神に向き直り、本心から神に立ち返って新しく歩み始めることです。
本日の礼拝の招詞として先にコリント二7章10節が読まれました。
「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」
ユダはまさに、この「神の御心に適った悲しみ、救いに通じる悔い改め、回心を経験するのです。

さて、このユダの言葉を聞いたヨセフは、父の家のことを思い出したことでしょう。兄弟、又父母らが自分にひれ伏す夢を見たこと。それを口にしたため兄たちに棄てられたこと。そして兄たちの神の前における悔い改めの思い。ヨセフは神の摂理ともいえる出来事に「心が震える思いでもはや平静を装っていることができなくなり」、兄たちに2節「自分の身を明かし、声をあげて泣いた」とあります。
ヨセフは兄たちがかつて犯した罪の負い目、その痛みと苦しみから解放されずにそれを負い続けていること。又、父や弟をもう二度と悲しませ、辛い思いをさせるようなことはできないというユダの願いに心打たれたのでしょう。そして遂に、ヨセフは兄たちに「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです」と、自分の身を明かにしました。彼は単に「弟のヨセフです」というのではなく、「あなたたちがエジプトへ売ったヨセフです」と名乗りました。そのうえで自分の身に起こったことを口にします。
これはヨセフにとっては動かしようのない事実でした。ヨセフもまた20年前に受けた事実を忘れることはありませんでした。両者にとってそれは決してうやむやにできることではなかったのです。

新約聖書には、イエスさまが「あなたの敵を愛しなさい」とおっしゃっていますが。私たちはたとえ血のつながった家族や、又兄弟同士であっても、こんなことをされた、あんなことを言われたなどと、なかなか許すことができないことがあります。また些細なことに目くじらを立て、そのことに振り回されることの方が多い者でもあります。人のもつ憎しみや恨みとは恐いもので、10年経っても、20年経っても忘れないで、とうとう墓場までもっていくということもあるわけです。ヨセフにとっても、無かったことになどできやしなかったのです。
しかし、ヨセフは兄たちに対して、5節「今は、わたしをここへ売ったことを悔んだり、責め合ったりする必要はありません。」と、救い、ゆるしの言葉を語るのです。

ヨセフは自分がエジプトに売り飛ばされたことを「神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになった」「神が大いなる救いに至らせるためであった」「わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です」と、自分の苦労や身に起こった試練は、すべて「神」からの出来事だと、確信をもって語るのです。
あの兄たちに穴に投げ入れられ、エジプトに売り飛ばされ、濡れ衣を着せられ、牢屋に入れられたことで不思議にもファラオの夢を解き明かしてエジプトの大臣になったこと。さらに、このようなかたちで20年も遠く離れて生活していた兄たちと再会して、その悔い改めの思いを聞いたこと。
それらすべては「神のご計画」であったというのです。そしてこの神のご計画の目的は、ヨセフの言葉によれば、5節「命を救うために、神がわたしをあなたたちより先に遣わされた。」7節「この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるため」であった、と言うのです。これこそヨセフの口を通して語られた宣言、ダバール。神が夢をもって示されていたことが、このような出来事となったという宣言です。
このヨセフの言葉は、兄たちへの単なるゆるしや労わりの言葉ではありません。それはまさに、「神」がヨセフを通して「兄たちの命が救われ、兄たちに神との和解をもたらされ、後の世代に神の祝福、大いなる救いを得させるようになさる」、神のご計画とそのお働きを物語るものだったのです。

私たちもまた、あらゆる出来事や人間関係の中に、これは神さまとしか言いようのないご計画やお働きに気づかされることがあるのではないでしょうか。それを今日のヨセフの物語から聞くことが出来ます。命を救う神は、ヨセフを通してその父母、兄弟たちに、生きるための糧をお与えになりました。又、エジプトの周辺諸国もその糧に与ることになります。人間は食糧によって生きます。けれども、申命記には「人はパンだけで生きるのではなく、人は主(神)の口から出るすべての言葉によって生きるのである。」(申命記8:4)とあります。神の口から出る命のパン、神の言葉によって人は真に生きることができるのです。
その命の糧、生ける御言葉は人となって世に現れ、私たちのもとにお出でくださいました。すべての人の救い、主イエス・キリストです。主は地上において苦難を受けられましたが、死に勝利されてよみがえられ、全世界のメシヤ、救い主となられたのです。

神は罪や恨み憎しみに滅びゆくわたしたち人間を、二コリント5章19節「キリストによって御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられているのです。」
本日は宣教題を「救いに通じる悔い改めと和解の言葉」とつけました。神のご計画の中で、兄ユダの救いに通じる悔い改めとヨセフの和解の言葉によりもたらされた救いと平和、シャローム。それは今や、主イエス・キリストを通して、私たち、この世界にダバール、宣言されています。
私たちもまた、主なる神さまの呼びかけに聞き、応えて生きる、救いと平和の道を主と共に歩みゆく者とされてまいりましょう。
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主日礼拝式 2024/9/22

2024-09-20 09:46:26 | 教会案内

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神を待ち望む人に備えられた計画

2024-09-15 12:52:46 | メッセージ
礼拝宣教 創世記41章1-57節  

先週の37章後、ヨセフはエジプトの地でファラオの宮廷の侍従長であったポティファルの奴隷となります。ヨセフはその家と主人に忠実に仕えました。ポティファルはヨセフに目をかけ、身近に仕えさせるだけでなく、家の管理やすべての財産をヨセフに任せました。それはヨセフに能力があったからだと書かれていません。ポティファルは「主がヨセフと共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計られるのを見たからだ」と書かれています。
そんなヨセフにまた大きな試練が訪れます。39章ですが。「顔も美しく、体つきも優れていた」ヨセフをポティファルの妻が自分の意のままにしようと執拗に誘惑するのです。ヨセフは「どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう」と、拒否しました。
ポティファルの妻のゆがんだ愛は恨みとなり、彼女は家の者たちを呼び寄せて「わたしはあのヘブライ人からいたずらをされた。わたしが大声で叫んだのを聞いて、着物をわたしの傍らに残したまま、外へ逃げて行きました」と、ヨセフに濡れ衣を着せるのです。それを聞いたポティファルは妻の言葉を鵜呑みに信じ、ヨセフは収監される事態になるのです。

その後ヨセフが収監されていた牢獄に、エジプトの王ファラオに対して過ちを犯したとされる給仕役と料理役が入ってきます。40章ですが。給仕役と料理役は牢獄で同じ夜に不思議な夢を見て、何のことかと悩むのです。そこでヨセフが解き明かすことになります。それは給仕役には解放の知らせ、料理役には厳しい裁きの知らせでした。
ヨセフは解放されるであろうことを知らせた給仕役に、「あなたがそのように幸せになられたときには、どうかわたしのことを思い出してください。わたしのためにファラオにわたしの身の上を話し、この家から出られるように取りはからってください」と約束を取りつけます。その3日後、給仕役はヨセフの解き明かしたとおり無罪放免となり、元の職務に復帰が叶います。ところが給仕役はヨセフのことをすっかり忘れてしまうのです。

それから2年経ったある日、エジプトの王「ファラオは夢を見た」のです。それが41章です。
ファラオはこの夢のことでひどく心が騒ぎました。彼はエジプト中の魔術師と賢者をすべて呼び集めて自分の夢を話しますが、だれも解き明かすことができません。
そうした時、ファラオの夢のことを知ったあの給仕役がすっかり忘れていたヨセフのことを思い出します。
彼はファラオに、自分の夢を解き明かしてくれたヨセフのことを話しました。こうしてヨセフはエジプトの王、ファラオの前に出ることになります。
ファラオはヨセフに、「わたしは夢を見たが、それを解き明かす者がいない。聞くところによれば、お前は夢の話を聞いて、解き明かすことができるそうだが」と尋ねると、ヨセフは41章16節「わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです」と、そう答えます。
投獄された奴隷のヨセフはエジプト最高の権力者ファラオに向け、絶対的権威者の「神がファラオの幸いについて告げる」と、臆することなく告げるのです。
ちなみに、この「幸い」と訳されている原語はヘブライ語で「シャローム」(平安・平和)であります。それはファラオ自身が抱えていた大きな不安や恐れ、激しい苦痛の解決が「神」によって明らかにされる、神がファラオの平安について告げられる、ということです。
ヨセフがこのようにファラオを前に堂々と言うことができたのは、彼自身が幾多の苦境を経験しても、なお共におられる神を待ち望み、共におられる神に依り頼んでいく人であったからでありましょう。どんなときにも神がヨセフのシャローム、平和・平安であったからです。だから、たとえ王であるファラオに対しても、神の幸い、シャロームを大胆に告げることが出来たのでありましょう。

さて、そうしてヨセフはファラオの見た2つの夢について、それは間もなく神がそれを実行されようとしておられる事をファラオに伝えます。
「7頭のよく育った雌牛と7つのよく実った穂は、7年の大豊作を意味し、7頭のやせた、醜い雌牛と東風で干からびた7つの穂は、7年間の飢饉を意味します。その後の7年続くその飢饉はひどいものであるため、最初の7年の大豊作のことを思い出せないほど、全く忘れてしまうものだ」と、解き明かします。ちなみに、エジプト南部で発見された文献には、BC2600年頃に数年間の豊作があった後、7年間の飢饉が訪れたという記録が実際に残っているとのことです。
けれど、ヨセフの夢解きは、それだけで終わりません。
ヨセフはファラオに、「これらすべては神がすでに決定しておられること」「神がこれからなさろうとしている」事であると、実に3度に亘って告げています。
それはつまり、神が必ずなさるのだから、ファラオもなすべきことをなさなければならない、ということを言わんとしているのです。具体的には41章34節以降にあるとおり、「豊作の7年の間、エジプトの国の産物の5分の1を徴収し、備蓄として保管すること」でした。それがやがて訪れる7年の飢饉によって国が滅びることがない手立てになるというのです。
ヨセフは王であるファラオにその夢の解釈だけでなく、エジプトの国の危機的な状況を前にして、知らせておられるシャローム、平安を語ったのです。たとえ大飢饉が訪れたとしても、それに対応した生き方、備えによって、国難を救うことができる道が用意されている。そのような幸いの道、シャロームの道を、神はヨセフを通して示されているのです。さらに、この事がエジプト周辺諸国の人たちにとっても食糧の備蓄拠点となり、エジプトだけでなくその周辺諸国に住む人々をも飢餓から救うことになっていくのです。

さて、ここからが先ほど読んでいただいた箇所ですが。これらのヨセフの言葉に、「ファラオの家来たちは皆、感心した」とあります。そしてファラオはヨセフを「神の霊が宿っている人」と呼びます。その霊とは、天地万物の創造をなさった「神」の霊であります。さらにフェラオは家来たちに、「このように神の霊が宿っている人がほかにあるだろうか」「神がそういうことをみな示されたからには、お前ほど聡明で知恵のある者は、ほかにいないであろう」と言っています。
それは実に当時のすべてのエジプト人がひっくり返るような発言なのです。なぜならエジプトは太陽神や月を崇拝しているのに、ここでファラオが口にした「神」は、聖書の天地万物の創造主の神です。ファラオはヨセフのうちにお働きになる万物を統べおさめたもう神の霊を見たのでありましょう。
新約聖書のヨハネ福音書19章には、イエスさまが十字架に磔にされるにあたり、ローマの総督ポンテオピラトから尋問を受ける記事がありますが。
そこでピラトはイエスさまに、「お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか」と言います。それに対してイエスさまは、「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ」と、堂々とお答えになられるのです。
ピラトは「自分が権限をもっているのだぞ」と言うわけですが、イエスさまは「その権限は神がお与えになったものであって、そうじゃなかったなら、このことに対して何の権限もない」とおっしゃっているのです。ピラトにせよファラオにせよ、地上の王や統治者は、すべての権威は天地創造の万物を統べ治めたもう主なる神にあるということを知らなければならないのです。地上のすべての国々の為政者、指導者がこの天地万物の創造したもう神を知り、神への畏れをもってその職務にあたることができますようにと、祈ります。

さて、ファラオはそのヨセフの提案に基づき、聡明で知恵あるヨセフをエジプト全土を治める指導者として立て、彼に自分の指輪をはめ、亜麻布の衣服を着せ、金の首飾りをかけます。そして、自分の第2の車に乗せて、民を彼の前で敬礼させるのです。
ファラオはさらに、ヨセフにツァフェナト・パネアというエジプト名を与え、オンの祭司ポティ・ファラの娘アセナトを妻として与えた、とあります。
この時、ヨセフは30歳であったといいますから、つまりエジプトに売られてから13年もの歳月が流れていたのです。彼はその間、奴隷として、囚人として辛く過酷な時をずっと過ごしてきました。しかし遂には、エジプト全土を治めるいわばエジプトの王に次ぐ総理大臣(首相)という地位に就くのであります。一方で、ヨセフはエジプトの名に改名され、エジプト人として生きていくことになるのです。イスラエル(ヤコブ)の子であったヨセフの心にはきっと複雑な思いが交差していたことでしょう。
まず、エジプトの総理大臣の高位に就いたヨセフが最初になしたことは、エジプト中の町々を自ら足を運んで廻ることでした。そうして豊作の7年の間、エジプトの国中の食糧をできるかぎり町々に蓄えさせます。
49節「ヨセフは、海辺の砂ほども多くの穀物を蓄え、ついに量りきれなくなったので、量るのをやめた」と書かれています。そのように、ヨセフがファラオに提案したとおりのことが7年にも及ぶ政策実践に移した中で整えられていくのです。
私たちもまた、人生、その生活の中でビジョンを与えられることがあるでしょう。又、それが夢であれ、困難に対する克服であれ、祈りのリストを作って、祈り求めながら、主に望みをおきながら日々生活していくことは大事です。そのように神のシャロームに与る者とされたいですね。

ところで、聖書は「飢饉の年がやって来る前に、ヨセフに二人の息子が生まれた」と記しています。
長男の名はマナセで、ヘブライ語で「忘れさせる」という意味をもつ名です。「神がわたしの苦労と父の家でのことをすべて忘れさせてくださった」ということを表わす名です。         
これは、ヨセフが兄たちの恨みと憎しみを買って苦しんだ事、それが元でエジプトに売られて奴隷の身となった事、ぬれ衣を着せられ囚人の身とされた事、その13年にも及ぶすべての苦しみや辛さを「神は忘れ去らせてくださった」と、万感の思いを込めて最初の子を「マナセ」と名付けたのですね。
ヨセフは次男の名はエフライムと名付けます。ヘブライ語で「増やす」という意味があります。    
「神はこの異教の地、苦しみの地において子孫を増し加えて下さった」と、神をほめたたえているのです。
注目すべきは、ヨセフが二人の息子の名前をエジプト名ではなく、ヘブライ語名にしたということです。それは信仰の父祖アブラハム、そしてイサク、さらに父ヤコブ、すなわちイスラエルの神の祝福を受け継ぐ者としての信仰をエジプトにおいてしっかり保っていたことを表わしています。
それは決して忘れるわけにはいかないヨセフのアイデンティティー、存在意義といえるものだからです。辛い過去を忘れさせてくれる新しい人生。しかしその一方で、決して忘れてはいけない主なる神の祝福を受けている者としてのアイデンティティー。それを2人の子の名に読みとることがで
きます。
興味深いのは、そのマナセとエフライムの母親はエジプト人であり、それもエジプトの太陽神の祭司オンの家系であったということです。異邦の国の神々は、天地万物の創造主のご支配の下にあります。異教の国と民も又、この主なる神のものであり、御手のうちにおかれているのです。

さて、ヨセフが解き明かした通り、7年の豊作が終ると7年の飢饉が起りました。それはエジプトの国はもとより、周辺のすべての国にまで及ぶ非常に大規模で深刻なものとなり、ヨセフの故郷であるヤコブの家族たちが住むカナンの地にまで、その飢饉は及びます。
豊作時に蓄えられていた食糧庫は開放されてエジプトの人々はひどい飢饉から守られます。それだけではなく、エジプト周辺諸国、中東諸国からも人々が穀物を買いにエジプトにやって来るようになるのです。
神さまからの夢による啓示と解き明かし、聡明さと知恵による働きによって、豊作の7年の間に計画的に食糧を豊かに備蓄していたことが、こうした大規模な災害といえる飢饉の時に、ゆたかに活かされることになるのです。しかしこれらすべては、38節、ファラオ自ら語っているように「神の霊」のなせる業なのです。

ひるがえって、わが国の穀物自給率について5年前に発表されたデータによりますと、過去最低の37%ということでした。最低の自給率でした。残り63%は輸入に依存することでまかなうことができているということであります。現在(38%)もほぼ変らない状況であります
世界各地で温暖化、気候変動による集中豪雨、山火事、巨大台風などの様々な災害が多発しています。日本においても、計画的に農業を保護していかなければ、農産物を育てる土壌もやせ細り、後継者も育たず、日本の食糧の生産量もその倉もやがて朽ちていき、貿易さえできなくなるような事態が生じたら、私たちの食生活に大きな支障をきたし、ひいては死活問題となり得ます。漁業や畜産業においても同様でありましょう。自然災害が頻繁に起っている今日の時代において、神がお造りになった自然、いのち、人としての営みが、平安で、平和であり続けるために必要な対策と計画的実行が、急務であるといえます。
「神の霊」なるお方の計らいと働きを祈り、神を畏れ、共に生きる道を進んでいくようにと、聖書は私たちに語りかけています。

本日は「神を待ち望む人に備えられた計画」と題をつけました。
ヨセフは政治的指導者としてたけていたことが読み取れます。しかしヨセフがそのように行動できたのは、彼のうちに「神の霊」が宿っていたからです。それは彼がいつもどのような時も、神を待ち望む人として、神を畏れ、信頼と望みをもって生きていたからです。そこに備えられた神のご計画が実現されていくのです。
私たちも又、すべてを司っておられる神のご計画の中で、神に望みをおき、神に用いられ、生かされていく人生を歩んでまいりたいものです。
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