主日礼拝宣教 エレミヤ7章1-11節
先週の礼拝からエレミヤ書が読まれ、その1章のエレミヤの召命の記事より御言葉を聞きました。その後の2章~6章では南ユダの人々の罪に対する指摘と、悔い改めなければエルサレムの都は陥落し、滅びることになるとの警告が、語られています。さらに5章にはエルサレムの陥落した民の様相が描かれていますが。その1節「エルサレムの通りを巡りよく見て、悟るがよい。広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか正義を行い、真実を求める者がいれば、わたしはエルサレムをゆるそう。」と神は言われますがそれを見出すことができません。31節には「預言者は偽りを預言し祭司はその手に富をかき集めわたしの民はそれを喜んでいる。」このように地方からの巡礼者をいわば食い物にする人々の姿があります。さらに6章13—14節「身分の低い者から高い者に至るまで皆、利をむさぼり預言者から祭司に至るまで皆、欺く。彼らは、わが民に破滅を手軽に治療して平和がないのに、『平和、平和』と言う。彼らは忌むべきことをして恥をさらした。」このように南ユダの現状は神の前に惨たんたるものであったのであります。
立派な神殿が築かれた都エルサレムは、大国の脅威にさらされながらも一見平穏に映ります。けれども神さまの目にはすべてが明らかです。人々は神への背信によって戒めを破り、危機的状況であるにも拘わらず偽預言者や祭司たちは「平和、平和」と人々に偽りの平安を語っていました。
何が偽りかといいますと、神の御心を尋ねようとはせず、気安く主が守って下さる、主の神殿があるのだからエルサレムは大丈夫と安価な恵みを語り、祭りごとを行って富をかき集めていたのです。繫栄した社会に浸ってきた民衆の心は神から離れ、民の指導者たちの言葉に喜んで聞き従っていました。それは耳触りの良い言葉であったからです。権力者や富裕層は自分たちの生活のために地方の人々や外国人たちを搾取し、私腹を肥やしていました。風紀は乱れ、神ならざるものを崇拝する偶像礼拝がはびこっていました。孤児や寡婦、寄留の外国人は虐げられ、無実の人の血が流され、神ならざるものが崇拝される世の中。それは神さまの目には悪と映りました。
さて、エレミヤが主の言葉を語った人々は、「主を礼拝するために神殿の門を入って行くユダの人々」でした。エレミヤはその人々に向けて、「主の言葉を聞け」と訴え、「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない」と主の言葉を告げます。
人々が荘厳で立派な神殿にお参りに行くようなことをいくら形式的に行ったとしても、神は喜ばれませんでした。神が望んでおられたのは、悔いて改める心、砕かれた霊でした。かつて先祖たちを滅びの国から導き出し神の民としてくださった主なる神への真の悔改めと感謝、その生きた交わりを神は待っておられたのです。いくら神殿に出入りしても、神の前に改まった人生の歩みにつながらないのならば、それは虚しいものでしかありません。
まあ人々はおまじないのように「主の神殿、主の神殿、主の神殿」と言っていたようですが。この言葉はかつて先の預言者イザヤの時代、南ユダの国がバビロン帝国の王の進攻に遭い、町がことごとく占領され、最後に残ったエルサレムも包囲されるのですが。しかし神はその王の心を変えさせて、エルサレムとその神殿だけは残ったのですが。そのところから生まれた言葉でした。
南ユダの指導者はじめ民衆は、自分たちの神の前におけるふるまいを認めようともせず、もはや迷信のようにそれをただ唱えていたのです。偽預言者たちが「主の神殿、主の神殿、主の神殿」と唱えればエルサレムは「神がおられ、神殿があるから我々も滅びることなどない」との不滅神話となったのです。
けれども、それは主なる神さまに対する信仰ではなく、神殿という建物に対する盲信でありました。神殿は神ではありません。よく「〇〇神社は〇〇のご利益がある」とか、最近は「〇〇パワースポット」とか言うそうですが。神殿が何か救いや平安を保証してくれるのではありません。
その神殿が建てられた時ソロモン王はこう祈りました。「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天も、あなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。」(列王記上8章27節)
神殿もこの私たちの教会堂も、それを神聖なものとされるのは神さまご自身です。神殿そのものを信仰の対象として神格化することは、神さまがお嫌いになられる偶像崇拝です。
それでも私たちが共に集まりますのは、主の日(日曜日)に礼拝を捧げ、水曜日には祈祷会で聖書を学び、祈り合う。神の前に信仰が確かなものとされ、共に主の救い、福音を喜び分かち合うためです。それは又、日常生活で心疲れ、重荷を抱えている中で霊的にガス欠にならないように魂に霊の油を給油する貴重な時であるからです。ただ「主の神殿」と唱えても、そのように神の前に出るのでなければそれは虚しいものです。
さて、この当時、礼拝するためにソロモンの神殿の門に入いることができる人たちは限られていました。預言者や祭司をはじめ、主にエルサレムの権力者や富裕層たちでした。
エレミヤは神殿の門をくぐることのできた人々に対してこう告げます。5-6節「この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。」
神は彼らに正義を求め、呼びかけておられたのです。
ところで主イエスは、「神殿から商人を追い出す」いわゆる「宮清め」と言われる記事(マタイ21章他)で、「『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところがあなたたちは、それを強盗の巣にしている」とあります。これは預言者イザヤ(56章7節)、そしてエレミヤが取り次いだ主の言葉(エレミヤ書7章11節)を用いて、主イエスは宮きよめをなさったのです。
神殿の境内には遠方から礼拝を捧げるために大変な旅をして来た巡礼者から、ささげ物などを高額な値段で売りつける商売人や両替商。場所代や出店の権利をまきあげる宮仕えがいました。主イエスは「わたしの父の家を強盗の巣にしている」とお叱りになり、その台をひっくり返し、神殿から彼らを追い出しました。この場面の主イエスの行動は実に激しく厳しいものでありました。
神殿は祈りの家、神の前に立ち帰って自らの行いを省み、悔改めとゆるしの宣言に与って、その感謝をもって御心に生きようと方向転換する、そのような場であることを明らかにされるのです。
先の5章の「エルサレムの通りを巡りよく見て、悟るがよい。広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか正義を行い、真実を求める者が」と、主がエレミヤに問いかけた言葉を読みましたが。主の神殿の門をくぐる人たちに本当に求められていることは、彼らが目を覚まし、神に立ち返って不正や搾取をやめ、隣人愛をもって神の平和を追い求める生き方でした。しかしいくら神殿の門をくぐっても彼らの日常は不義に満ちていました。
ところで、神殿の時間と日常の生活とが切り離されている様子を「サンデークリスチャン」と言うそうですが。聖書の言葉を開くものの、その場限りに終わって日曜日の礼拝に出席していれば大丈夫、安心だ、という安全神話になりますと大変です。
大切なのは、主の救いを忘れることなく思い起こし、希望を戴き、感謝と喜びに与ることです。耳の痛い話でも心探られて立ち返って、御心に歩む人を神は喜び迎えて入れてくださいます。
逆に、教会堂から一歩外に出ると、もう神さまとの関りのない別の世界に切り替わってしまうのであれば、それは残念なことです。もしその行動が不正や暴力、又無慈悲なものであるのなら、もはや躓きでしかありません。争いを仕掛けながら人前で十字を切って見せるような指導者の映像がテレビで流れましたが。何よりも主なる神さまはすべてをご存じです。神を畏れ敬う人はその行いも自ずと正されるでしょう。
始めにも申しましたが、この南ユダの時代は大国の脅威にさらされながら、いつ滅ぼされるかわからないような危機に瀕していました。にもかかわらず、偽預言者らは「主の神殿」があるのだから大丈夫だとかたり、礼拝に来る人たちに偽りの平和を告げ、権力者や富裕層の人たちの不正や搾取に対して見て見ぬふりをしていました。
エレミヤは、真の神は義であり聖なるお方であられる、主に立ち返って生きなければ、滅びる」と御言葉をまっすぐに語りましたが、偽預言者たちは「平和、平安」と口にしました。それは一時は民を安心させたかも知れませんが、偽りに過ぎなかったので結局民は悔い改めることなく、結果的に滅びを招くことになります。又、神殿の祭司たちは状況を知りながら神殿参りに来る人々から奉納金を集め保身に走っていました。
偽預言者、祭司、神殿の門をくぐる指導者や裕福な人々は皆それぞれにもたれ合いながら、主の神殿を私利私欲、自分たちの保身の道具として利用していました。その状況をご覧になられた主なる神さまは、「わたし名によって呼ばれる神殿が強盗の巣窟に見える」と言われたのです。それは人から信仰もお金も平和もあらゆるものを奪う強盗という意味であります。どうしてそうなってしまったのでしょう。それは神を畏れ敬う心を忘れ去っていたからです。
本来の「主の名による神殿」とはどのようなところでしょうか。
それはユダの人々にとっても、又私たちにとりましても、悔い改め神に立ち返り、救いの確認を頂いて感謝と喜びに溢れ、神の御心に沿う御言葉を生きる場であります。先にも申しましたように、生ける主は人の造った建物に住まわれる方ではありません。それにも拘わらず神さまは、私たち人間と共にいる決断をされたのです。それが遂に救いの主、イエス・キリストを通して実現されたのです。
ヨハネ福音書1章にはこうあります。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」神の生ける言(ことば)。イエス・キリストが人の姿となって来てくださった。だれでもこの救いの主なる方を迎え入れるなら、その人は「神の神殿」(Ⅰコリント3章16節)なのです。神は御独り子イエスさまをお与えになるほどに、罪に滅ぶほかない私たちを愛されています。人はこの神の慈愛を迎え入れ立ち返って生きるところに、人本来の幸いと平和を得ることができるのです。罪に滅びることがないためです。
最後になりますが。エレミヤは神の裁きの言葉を臆することなく示し続けました。世間の人がどう思うか、どう人に見られるかではなく、主の言葉を聞き、誠実に御言葉を伝えたのです。キリスト者も又、人がどうとか、周囲がどうかではなく、主の言葉に聞き従って「これは本当だ」という主の御心を示す者とされているのであります。それは語ることだけに限ったことではありません。語る言葉の少ない方はそのしぐさや存在そのものを通して、「神が生きておられる」ことを示しておられるのです。いずれにせよ、主は私たちの存在を通してその主の御心を示し、表そうとなさっておられます。
主イエスは最も重要な掟についてこう仰せになりました。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、あなたの神である主を愛しなさい。」同じように「隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイ22章他)この喜ばしい命の言葉をキリスト者として生きるようにと、招かれています。
今日、私たちも又、「主の言葉を聞け」と、エレミヤを通して主の語りかけを聞きました。実にこの主の言葉とは、神の救いの道イエス・キリストご自身であります。真の幸いに至るイエス・キリストの真理の道を歩んで魂に安らぎを得、本物の平和、シャロームの実現を共に待ち望み、祈り求めてまいりましょう。