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日本バプテスト大阪教会へようこそ!

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まことの神に信頼せよ

2024-10-20 19:17:53 | メッセージ
礼拝宣教   エレミヤ書10章1~16

今日の宣教箇所、エレミヤ書10章1節~16節は一言で言えば偶像を拝むな。頼るな。真の神に信頼し立ち返りなさい。ということですが、私たちには関係がないことばのように聞こえるかも知りません。私たちは偶像を拝んだりしないからです。また私たちはまことの神様を知っています。私たちが信じている神様は天地万物を造られた創造主であり、私たちを愛して救うために、ご自分のひとり子さえも惜しまず、十字架の死に引き渡された愛なる神様であることを信じているからです。だからと言って本当に関係がないことでしょうか。
皆さんもご存知であるように偶像というものは木や金、銀で作られた目に見えるものだけではないからです。

さて、私たちは7,8、9、三ヶ月間礼拝で創世記を学びました。
創世記から今日のエレミヤ書まではかなり距離があります。これから、その間のイスラエルの歴史、その聖書の物語の流れを大まかに、覚えていきたいと思います。それによって、今日のエレミヤ書の御ことばの背景を理解することで神様の切実な思いが私たちの心に響いてくるのではないでしょうか。

創世記は旧約聖書の重要人物であるアブラハム、イサク、ヤコブとヨセフの物語でした。創世記の最後50章26節で「ヨセフは百十歳で死んだ。彼らはヨセフをエジプトでミイラにし、館に納めた。」で創世記の記事は終わります。
それではその後ヤコブの一族イスラエルの運命はどのように展開していたのでしょう。アブラハムに約束された祝福のもととなる運命を背負って生きていくイスラエルは、思いもよらない彼らの波乱万象の歴史が本格的に始まります。ヨセフもその兄弟たちもまたその時代の人々もみな死んでヨセフの知らない新しい王がエジプトに起こり、彼らの立場は一変します。奴隷のように扱われます。その理由は増え続ける彼らの民の数と彼らの強さに恐れたからです。ここで神様がアブラハムに約束された御ことばが実現されていることに心を留めたいと思います。あなたの子孫を星のように、海辺の砂のように、数えきれないほど、おびただしく増やすということと、あなたの子孫は自分たちのものでない国で寄留者となり、奴隷になって、彼らは四百年間苦しめられる。という神様の計画のなかで預言通りになっています。ここで、私たちは神様の語られた御ことばはその通りになることを覚えたいと思います。それと、神様はご自分の民を苦しんでいるまま放置される方では決してありません。
出エジプト記2章23節~25節まで読みますと、「それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの労役叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。イスラエル人をご覧になった。神はみこころを留められた。」と書いてあります。そこで神様はその民をエジプトから救い出すために先立準備された者、ミデヤンの地で羊を飼っているモーセを呼び出し遣わします。モーセを通して全能の神様の方法でエジプトから連れ出したご自分の民を今度は荒野で養い律法を与え神様の民として、生きる道を教え訓練をします。
レビ記、民数記、申命記、ヨシュア記の内容をみますと、神様はイスラエルに異邦人の中で選民として、どう生きるべきかを徹底的に教え込みます。してはならないことと、しなければならないことを事細かく、念入りに教えます。神様の厳しさがここにありますが、その厳しさは子どもの幸せを願って止まない父の愛が根底にあるからです。神様の厳しさを知ればしるほど、私たちは神様の愛の深さ、その哀れみを覚えられます。本当の意味で十字架の恵みの深さが覚えられます。

創世記50章24節でヨセフが死ぬ前兄弟たちに神は必ずあなたがたを顧みて、この地からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地へ上らせてくださいます。と言ったように、イスラエルは40年間荒野で生活を経てやがて約束の地カナン地に入ります。神様は荒野で彼らにエジプトから連れ出してくださった神様だけに信頼し、頼り、仕えるように訓練させましだが、彼らの信仰はこのカナン地でどうなっていくのでしょう。モーセの次の者ヨシュアによってカナンの地を征服しその地に定着し始めたイスラエルは、ヨシュアの生きている間、また、ヨシュアのあとまで生き残って、主がイスラエルに行われたすべでのわざを知っていた長老たちの生きている間は主に仕えたと書いてあります。
士師記によれば、その後に主を知らず、主がイスラエルのためにされたわざも知らない他の世代が起こって主の前に悪を行い、バアルに仕えます。彼らはエジプトの地から自分たちを連れ出した父祖の神、主を捨てて、ほかの神々、彼らの周りにいる国々の民の神々に従い、それらを拝み、主を怒らせます。
イスラエルの歴史はこういうことの繰り返しでした。列王記に記録されているようにほとんどの王たちは偶像崇拝と周りの強い国に頼るだけではなく、あらゆる悪を行い、神様の前に不信仰の罪を犯します。その度に神様は預言者を遣わし、悔い改めて立ち返るように警告をします。繰り返し、繰り返し、哀れみの神様は忍耐の限りを尽くし預言者の口を通して警告しても、彼らは聞きませんでした。

その預言者の一人エレミヤも、今日の聖書箇所で国の滅亡を前にして悲痛な思いで神様から頂いたことばを伝えますが、彼らは頑なに聞きませんでした。
結局、ソロモン王の後、北イスラエル王国と南ユタ王国、二つに分断された国は、北イスラエルはアッシリアに捕虜になって連れて行かれます。ユタ王国はバビロンの捕囚になって連れて行かれます。
預言者たちの預言通りに彼らは裁かれました。しかし、裁きは裁くだけで終わりません。主は愛する者を懲らしめるという御ことばがあるように、裁きは神様の愛から出たもので、悔い改めて救われることを前提とした建設的なもので、そこには希望があります。
エレミヤ書29章:11~14節にこう書いています。耳に慣れた御ことばかも知りません。「わたしはあなたがたのためにたてている計画をよく知っているからだ。―主の御告げーそれはわざわいではなく、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを探し求めるなら、わたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる。-主の御告げーわたしは、あなたがたの繁栄を元通りにし、わたしがあなたがたを追い散らした先のすべての国々とすべての場所から、あなたがたを集める。-主の御告げーわたしはあなたがたを引いて行った先から、あなたがたをもとの所へ帰らせる。」
このところから教えられることは、―現実は厳しく暗く思われることがあっても、物事を肯定的に前向きに考えて現実から逃げたりせず、疑わず、恐れず、私たちを救ってくださった神様に、全面的に信頼して、どんなときにも希望を持つ大切さです。

今日創世記後出エジプト記からエレミヤ書のところまで簡単に話しをしました。
それでは本文エレミヤ書10章1~16まで所々を読ませていただいて結論に入ります。「イスラエルの家よ。主があなたがたに語られたことばを聞け。異邦人の道を見習うな。国々の習わしはむなしいからだ。そんな物を恐れるな。わざわいも幸いも下せないからだ。主よ。あなたに並ぶ者はありません。
あなたは大いなる方。あなたの御名は、力ある大いなるものです。主は、御力をもって地を造り、知恵をもって世界を堅く建て、英知をもって天を張られた。主が声を出すと、水のざわめきが天に起こる。主は地の果てから雲を上らせ、雨のために稲妻を造り、その倉から風を出される。ヤコブの分け前はこんなものではない。主は万物を造る方。イスラエルは主ご自身の部族。その御名は万軍の主である。」アーメンです。

今日の御ことばは、その時代の選民として神様に結ばれたイスラエルの人たちに向けられたものでありますが、今日私たちにも、また広くはすべての人にも共通のメッセジーであります。
人は神様の恵みによって信仰が与えられ、救われていなければ、霊的に盲目状態です。救われて霊の目が開かないと、何でも信じる価値がないものでも、いとも簡単に信じてしまいます。何の力もない。わざわいも幸いも下せないものを恐れたりします。私たちも経験してきたことではないでしょうか。
もし、この場に神様を知らない方がいらっしゃいましたら、これだけは覚えていただきたいと思います。主イエスキリスト以外にどんな宗教にも罪の赦しと救い、永遠の命のことばはありません。それに肝心な人生の指針がありません。
人々は誰もが幸せな人生を願います。ここで覚えたいのは、神様も私たちが幸せであるように、誰よりも願っておられることです。そのために、私たちに救い主御子イエスキリストが与えられています。私たちに御ことばが与えられています。天地万物を造り、私たちを救ってくださった真の神様に信頼して、その御ことばに従うことが、私たちの人生を最も価値ある豊かなものにしてくれます。

イスラエルは自分たちをエジプトの奴隷から救ってくださった神様を忘れました。捨てました。と書いてありますが、私たちは、御子イエスキリストの血の対価を払ってご自分の子どもにしてくださった父なる神様をどんなときにも忘れず、信頼していきましょう。この世のものに頼らず、自分に頼らず、まことの神様だけに頼って生きていきましょう。
最後にイザヤ書55章1~3節までの御ことばをもって今日の宣教を終わらせていただきます。

「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。なぜ、あなたがたは、食糧にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために、労するのか。
わたしに聞き従い、良いものを食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう。」



       2024年10月20日      橋本知映
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