日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

「多国語で伝えられた、神の偉大な業」

2024-05-19 13:04:29 | メッセージ
聖霊降臨宣教 使徒言行録2章1-13節 

本日は聖霊が降臨し、キリストの教会が誕生し、福音が世界中に伝えられてく神さまの偉大な業を記念するペンテコステの礼拝をお捧げしています
2000年前キリストが昇天された後、聖霊はまず使徒(弟子)たちに降り、語られました。そしてユダヤの人々から、次にユダヤにルーツをもち周辺世界に住んでいた人々、さらにはユダヤ以外の世界中の人々にもキリストの福音が伝えられ、偉大な神の救いのみ業が次々に起されていくことになるのです。それはこうして、今も私たちのもとでも日々実現され続けています。
使徒言行録2章はじめには、「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集っていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎
のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人のうえにとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」とあります。

旧約聖書の創世記のバベルの塔の記事を読みますと、「世界中は同じ言葉を使い、同じように話していた」と記されているように、人は同じ言語でコミュニケーションをとっていた事が伝えられています。
そういう中で「我々こそ優れた文明や思想をもつ民族である」と、権力を誇示し、自分たちと異なる民族を蔑すむ勢力が現れていきます。高くそびえるバベルの塔はその人間のおごりと高ぶりの象徴であります。それは排他主義的な統一の思想、偏狭な民族主義と相通じるものがあります。神はそれを憂い、バベルの塔の建設を中断させ、民を全地に散らされました。
天地の創り主なる神を忘れ、そのままバベルの塔の建設がなされていたなら、その傲慢さのゆえに民は滅びへと突き進んでいったでしょう。
現代はさらなる傲慢と背きが行われる混乱の時代ともいえますが。神はそれを見逃しておられるのではなく、忍耐しておられるのです。それはキリストによって顕わされたみ救いを一人でも多くの人が知って救われるためです。

そうして今日このように集う私たちでありますが。
まあ私たち人間にとりましては、主なる神が言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられないよ
うになさったことは残念な気もいたします。私もできれば数多くの言語を使いこなせたらなあと思ったりしますが。神のご計画はゆたかです。神は様々な言語や文化が形づくられていくことを良し、となさったのです。
この世界には誰ひとり同じ人間はいない、一人ひとりの存在がオリジナルです。だれにでもその人だけの人生のストーリーがあり、存在の意義があります。しかし私たち人間というのは、その多様性、違いのゆたかさに気づけない。自分を守ろうとする思いや不安から世界では争いと分断が絶えまなく起こり、混沌とした状況が続いているわけですが。
神はキリストを通して和解と平和の道を拓いてくださいました。この神との和解を通して違いをもった他者の存在をも尊重し、その多様性を認め合い、共に生きるゆたかさを現して下さったのです。
それは神が具体的にキリストを通して顕わされた偉大なみ業です。
神の慈愛、いつくしみは、小さく貧しい姿でこの暗き世界に生まれ、人間の罪を担い、贖うため十字架にかかられました。底知れない闇に、救いの光として降られたキリストは、信じる者の希望として3日後に復活なさいました。そうして使徒(弟子)たち、又最後まで慕い仕えてきた女性たち、さらに多くの人々に復活のお姿を現わされてから天に昇っていかれた、と聖書に記されています。

復活のキリストは天に昇られる際、使徒言行録1章4節-5節で「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられるからである」と、お語りになります。聖霊の降臨の約束です。
さらに、8節「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と、お語りになるのです。そしてまさに、そのキリストが約束された通りの事が起こるのです。

それが本日2章の聖霊降臨の出来事であります。
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集っていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人のうえにとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」と。

まず、聖霊は使徒や女性たちがキリストのお言葉に聞き従い、心を一つにして祈り続けていたところにお降りになるのです。
キリストの十字架の出来事からそれ程日が経っておりませんでしたから、彼らは身に危険を感じ、不安や恐れもあったに違いありません。
しかし彼らはキリストの御言葉をしっかり握って、心を合わせて一つになって祈り続けました。
そうして聖霊が降り、一人ひとりの上に炎のような舌がとどまるのです。
炎のような舌は、すぐさま語り始めます。
「一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」注目すべきは、」この「ほかの国々の言葉で語りだした」という点です。
この時エルサレムには、古くは戦争、また迫害によってユダの地から散らされた人々の子孫が遠い地や周辺諸国に移り住んでいました。ちょうどこの時ユダヤの五旬節という祝祭が行われ、多くのそうした人々が巡礼のためにエルサレムに集まっていたのです。又、そこには様々な国の人たちもいたようですが。なんと、みな自分の生まれ育った国々や地域の言葉で、神さまの偉大な業について聞くことになったのです。
あのバベルの塔が象徴するような、散らされた人々が、聖霊によって共に神の救いを仰ぎ見る出来事がここで起こるのです。
この偉大な神の業とは、キリストの贖いの死と復活によって信じる者がみ救いに与るという経験です。聖霊に満たされた12弟子の一人ペトロは14節以降で、そのキリストのみ救いの証しを力強
く語るのでありますが。そこでも記されているように、聖霊がお働き下さる時、誰もが如何に神さまに対して背を向けてきた者であるか、自分本位に生きてきたかということに気づかされていくのです。
そして、そのような罪の滅びの中から私を救い導き出すために、キリストがこの世界に遣わされ、十字架の贖いの業を成し遂げてくださった神の愛を、聖霊は悟らせてくださるのです。これは神さ
まの唯一方的な恵みであります。先週もコリント13章の愛の賛歌の箇所を読みましたが。この愛にあって心一つとされ、共にその恵みに感謝して生きる。それは、「まず、神への礼拝から」始ります。

私たちの教会は日本語で行っていますが。不思議なことに様々な国から来られた方々と共に礼拝をお捧げしています。イースターにはサントスさんがキリストを信じてクリスチャンになられ、バプテスマを受けみなで神のみ名をほめたたえることができました。今は礼拝メッセージを翻訳した原稿をお配りすることぐらいしかできていないのですが。それにも拘わらず、みなさんそれぞれが共にここに集められている、まさに聖霊のお働きです。
又、4月より、青年有志の会に「はこぶねかふぇ」というネーミングがつけられ、年齢、性別、国籍を超えて福音を分かち合う場として新しい歩みが始まりました。その一環として例会の時に女性会や壮年会の方をお迎えし、証しに耳を傾けることになりました。その初回となった先週は、女性会の88歳になられる方をゲストにお迎えしました。この方はフィリピの信徒への手紙3章13節の「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」とのみ言葉に生きてこられたこと。それによって「何か自分にできることはないかとチャレンジし続け、傾聴ボランティアなどを行ってひたすら走って来た。今はそれもできなくなったが、最近も近所の人に話しかけると、その方は1時間も話をなさり、何日間も人と話をしていなかったと言われた。そのような日々の出会いと、今も歩き続ける毎日にわくわくする。」ということでした。この例会が終わった後、事務室におりますと、「香港から参加された学生さんが礼拝堂で泣いている」というのを聞いて慌てて様子を見にいきました。
すると、その88歳の方と引き続きお話をして涙が止まらなかったということでした。国の違い、年齢の違い、言葉の違いを越えて、共に主のみ救いの恵みとそのゆたかさを覚える幸いを、キリストの教会にその聖霊のお働きによって与えられている事を心より感謝します。


聖霊を受けた使徒パウロは、「ユダヤ人にはユダヤ人のように、律法に支配されている人には律法に支配されている人のように、律法を持たない人には律法を持たない人のように、弱い人には弱い人のようになりました。福音のためならわたしはどんなことでもします」(Ⅰコリント9章20節以降)と、そのように生きたのです。それはがんばってそうしたのではなく、「神の愛と救い」という素晴らしいキリストの福音を伝えずにはいられなかったからです。
聖霊に満たされた人は実に愛のために豊かで自由であります。聖霊降臨は、新しい愛の言葉が降り、互いを理解し合える世界の訪れを告げます。

確かに私たちは、時に相手が理解できず手詰まり状態になることもしばしばございます。けれども聖霊はそうした困難な中においても、なお神の愛によって私たちを導こうとなさいます。
それは、ローマの信徒への手紙8章26節にあるように、私たちがどう祈ったらいいのかさえ分からなくなってもいる時も、「聖霊自らが、言葉で表せないうめきをもって執り成してくださる」のです。
聖霊降臨によって、今や世界中で神の偉大な業が伝えられ、証しとなる出来事が起こり続けています。それは神の愛であるキリストの福音によるのであり、キリストを通してお降りになった聖霊の力強いお働きです。今日も聖霊のお働きをとおして新しく神の子として生まれ変わる人たちが世界中のいたるところで起こされています。

今日ここに集われたお一人おひとりに、もれなく聖霊がとどまってくださり、イエス・キリストに顕される神の愛を悟らせてくださいますように。神の偉大な業を証しする者とされるよう、聖霊に満たされますよう祈ります。今週もここから遣わされてまいりましょう。
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