2020年 歳晩礼拝宣教 マタイ2・13-23
音声→https://drive.google.com/file/d/1Rmh71fjlxzPFXWdMPdkdQbt-W7Elvtam/view?usp=drivesdk
アドベントから先週のクリスマス主日礼拝、そして24日のキャンドルライトサービスには主の招きのもと初めて教会に来られた方々ともご一緒に救い主イエス・キリストのご降誕をお祝いすることができ感慨深い時となりました。
今年はその始まりから世界中が不安と恐れに震撼するような事態となり、未だに収束の兆しさえ見えない状況でありますが。こうして歳晩礼拝の場へ帰ってくることが許され心から感謝します。礼拝の音声データや宣教原稿、ブログ等を通して共に礼拝を持たれている方の上にも、等しき神の守りと祝福をお祈り申しあげます。
人類の歴史には様々な時代がありましても、天地万物をお造りになり、すべてを司っておられる主なる神さまの統治はとこしえに変わることはありません。あらゆる予期せぬ出来事が如何に強く働きましょうとも、活ける神にのみ救いは確かに日々生まれ、人の世の理不尽ともいえる状況の中にも主は共にいまし、守り導いてくださることを、今日のメッセージから受け取ってまいりましょう。
本日の聖書箇所には、聖家族のエジプトへ避難、ヘロデ王のベツレヘムにおける幼児虐殺、再び聖家族がイスラエルの地へ帰って来て、ナザレの町に移住するという記事が綴られております。クリスマスの全世界に与えられた救いの喜びから一変して嘆きと悲しみの出来事が起こるのです。ヨハネ黙示録には、火のように赤い竜が男の子を産んだ女に対して激しく怒り、その子もろとも亡きものにしようと後を追ったと記されていますが。まさにそのように、すべての人に向けられた神の大いなる救いの誕生に、世の力と罪とが敵対して、神の恵みを亡きものにし、損なわせようとするのです。
この新しい王メシアはもちろんユダヤの人々、エルサレムの住民、そしてヘロデの救いの喜びのためにお生まれなったになったのです。それも拘わらず、ヘロデは自分の地位と栄誉が損なわれるかもしれないという猜疑心から喜びを失うことを非常に恐れるのです。占星術の学者たちからの報告を待っていたヘロデは学者たちが戻って来ないので大いに憤り、ベツレヘムで生まれることになっているその子を亡きものにするために、ベツレヘムとその一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させるのであります。ヘロデは神を畏れることよりも、自己保身と野心から起こる激しい妬みが神の招きを拒み、神に対して敵対させます。古今東西の世界の歴史においてこのような事は繰り返されているように思えてなりません。
話は変わりますが、以前にもご紹介した聖書教育を執筆した方の記事ですが。この幼児虐殺の記述について、ある方がこんな質問をしたそうです。「この子どもたちはイエスさまが助かるために犠牲になったのですか?」。それに対して、ある牧師が答えて、「むしろイエスさまは、この悲しい出来事の中での生存者・生き残った人々(Survivor)となったと考えることはできないでしょうか。イエスさまは、その生涯の始まりから、人々の死と嘆きを背負って歩まれたのです」とおっしゃったそうです。それを受けて、その執筆された方は、「震災被災地のことを思いました。被災地では多くの方が亡くなりました。被災された方々の中には、そのことの悲しみから、自分たちが助かったことを喜べない方がいます。生存者・生き残った者(Survivor)としてのイエスさまについて考えながら、イエスさまはそのような方々の痛みや嘆きさえも知っていてくださるのだと思いました」と記していたのです。
この記事を読みながら、世の力や予期せぬ出来事によって損なわれた人びとの苦しみを自らのこととして担われるイエス・キリストのお心を知らされた思いがいたしました。
さて、占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている」と言います。
すると、ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ逃れて行きます。
実に、この聖家族はエジプトからイスラエルに帰って来る折にも、主の天使がヨセフに夢で現れて、「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい」とのお告げがあり、そこでもヨセフは起きて、すぐ幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来るのであります。先のマリアを妻に迎え入れる決断に際しても、主の天使がヨセフに現れなさるのです。
ヨセフとマリアと幼子イエスとの前に立ちはだかるあまりにも大きな問題、あまりにも強い力の前に、なすすべもない彼らでありますが。そこに神はご意志をもって天使をお遣わしになり、守り導かれるのです。
ヨセフは主の天使の「起きて」という御声に、まっすぐに聴き従うのであります。彼は世の力を前にして、唯神に依り頼むほかなすすべがない、神こそ私の力と、すぐさま起きて、従ったのではないでしょうか。それは先の神の救いと恵みを拒み、敵意をむき出しに表したヘロデ王とは対照的であります。
「起きて」という言葉。それは、イエスさまが「目を覚ましていなさい」ということをよくお弟子たちにおっしゃっていますが。ヨセフもそうであったように、不安や恐れで心が揺れている私たちに、神さまは「起きよ」、「目覚めよ」と呼びかけ、真に生きるべき道へと導こうとしておられるのです。大切なのは、主の呼びかけに心開いて応えるか否かということであります。
今日は最後のおまけではありませんが、スウェーデンの女流作家ラーゲルレーヴという方の書いた「ともしび」という小説をご紹介したいと思います。この小説をもとに絵本が邦訳されておりますが。その主人公も、神の与えられた自分の人生を真に見出すものとなった、そんなお話であります。
昔、イタリアのフィレンツェに住んでいたラニエロは、勇ましく力も強く、喧嘩ぱやいい男で、彼はその勇気と豪傑ぶりとをいつもみんなに認められたがっていました。ところが、彼が人の気を引こうといろいろとやらかすので、町の人々は彼を乱暴で傲慢な男だと思っていたのです。「みんなに認められるためには兵士になって、戦で手柄を立てるのが一番だ。そして、いくさの戦利品をフィレンツェのマリアさまの前にささげればみんなのうわさにのぼるだろう」。そう考えたラニエロは兵士となり、その名を国中にとどろかせます。その頃、エルサレムにあるキリストのお墓をイスラム教徒からとりもどすために十字軍とよばれる多くの兵士たちが遠いエルサレムに出かけていきました。ラニエロも手柄をたてたい一心でその十字軍に加わり、大きな手柄を立てます。そのため、彼はキリストのお墓の前に燃える尊いともしびを最初にろうそくに移すことをゆるされるのです。その時だれかが「ラニエロ、いくらなんでもそのともしびをフィレンツェのマリアさまにお届けするわけにはいくまいな」と言うと、他の者も「ともしびを運ぶなんてできっこない、ともしびは消えてしまうに違いない」と言って笑います。それを聞いたダニエロはむきになって、思わず「よし、このともしびを、おれさま一人でフィレンツェまで運んでみせるぞ」と宣言してしまいます。
こうしてあくる朝早く、ラニエロはマントの下に鉄のよろい、刀とこん棒を着け、馬にまたがってともしびを手にエルサレムを出発するのです。「なーに、こんなことは簡単なこと」と、たかをくくっていたラニエロでしたが、そうやすやすとはいきません。馬が足早になるとともしびは揺らめき、今にも消えそうになりマントでかばったり、後ろ向きに乗ってなんとかともしびを守ろうとします。山辺ではおいはぎに襲われ、取り囲まれて、ふだんなら簡単に追い散らすことが出来るのですが、そんなことをしていたら、ともしびが消えてしまうかもしれません。彼は無抵抗のまま身ぐるみ剥がれ、残されたのはおいはぎのひどいやせ馬と、ぼろぼろの着物、そして二束のろうそくだけでした。まあ、ともしびは無事だったということで旅を続けます。途中、エルサレムを目指す人のむれに出くわしますと、ともしびを手にみすぼらしい格好をしてうしろ向きでやせ馬に乗っているラニエロを見て、人々はあざ笑い、からかいます。ラニエロはさすがにかっとなって彼らにになぐりかかり、気がつくと、ともしびが枯れ草に燃え移っています。慌てて火をろうそくにともし、また旅を続けます。
「ひとふきの風、ひとしずくの雨でも、ともしびは消えてということで、何とか消えないようにと、そればかりを願いながら、こんなかよわいものを必死で守ろうとするなんて、生まれて初めてのことだ」と彼は考えます。
とうとう替えのろうそくがなくなってしまい、もうこれで終わりだと思ったその時、巡礼たちが岩山を登って来て、その中の年取った女の人をラニエロは助けて山の上まで登らせてあげます。その人はお礼に自分の持っていたろうそくをくれたので、ともしびは守られました。彼はそうやってともしびを大事に守って、旅を続けるうちに、いくさでの数々の手柄や名誉や戦利品など、もうどうでもよくなってきました。荒々しいいくさよりも、優しく和やかなものを喜ぶようになっていくのです。
そしてとうとうフィレンツェに着き、その城門から入っていくと、町は大騒ぎになり、ラニエロはともしびが消されるのをふせぎ、高くかかげながらようやく祭壇の方へと進んでいきます。前のラニエロを知る人々は「エルサレムからともしびを運んで来たなんて、うそだ、証拠を見せろ」と騒ぎ、ラニエロを取り囲みます。その時です、急に一羽の小鳥がまいこんできて、ともしびにぶつかり、火を消してしまうのです。ラニエロの目に涙がにじみます。ところが、だれかが「小鳥が燃えている、羽に火が燃えついたぞ」と、叫びます。小鳥はひらめく炎のように、聖堂の中を飛びまわり、遂に祭壇の前に落ちて、息が絶えるのですが。ラニエロはかけよって、小鳥の翼を燃やした残り火で、祭壇のとうそくにあかりを灯すのであります。
私がこのお話を初めて聞いたのは35年前に行われた大阪教会の秋の特別集会でした。
ラニエロが新しい人に変えられていく過程が印象的で、それ以降このお話がずっとすきになり私の心のうちに残っています。
大変な今の時代ですが。もっと強くならなければ、乗り越えなければ、という思いで逆に押しつぶされそうになるような状況が多くの人に起こっていると思うのです。また、世の力、社会のひずみによって弱い立場に立たされたまま切り捨てられるような人も多くおられます。
よく小さい命、かよわき命を脅かし蔑ろにするなら、その者、その勢力、その国は滅びると言われています。その破れやひずみの大きい社会構造の中で、小さくされた者、弱くされた者に益々重い負担やしわ寄せがのしかかっており、暗く息苦しい今日の社会。
小さくか弱い「ともしび」を守っていくことによって、ラニエロ自身が新しい人に変えられていったように、どんな状況の中でも守るべき命のいとなみを大切にしていく中で、私たちは真のゆたかさを知るものへと変えられていくように思います。
本日の聖書のヨセフとマリアは、小さくか弱き幼子イエスさまの命を守りぬいていった旅路であったかと思うのでありますが。実は、この懸命に命の灯を消されないように守ろうとした小さき幼子イエスさまこそが、全世界を罪の滅びから守る存在、「共に苦しみ、共に歩まれる」神として、幼子の姿をとって私たちのもとへ来てくださったのです。その尊い恵みを心に留め、インマヌエル、共におられる主に導かれつつ、新しい年も希望の光を消すことなく歩んでまいりましょう。