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日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

救いの泉、主イエス

2020-02-02 20:20:26 | メッセージ

礼拝宣教 ヨハネ7章37-39節 

先週は火曜日のTさん、そして金曜日にはRさんの告別式が続き、私たち大阪教会の主にある家族お二人を天に送ることになり寂しい思いですが。私たちは死よりよみがえられた復活の主イエスにあって再び主の名のもとにお会いする時が備えられていることを信じるものです。けれども地上においては寂しい思いでいらっしゃるそれぞれのご遺族皆様のこれからの歩みの上に、主の慰めとお支えが豊かにありますよう引き続きお祈り下さい。

本日はヨハネ7章より「救いの泉、主イエス」と題し、み言葉に聞いていきたいと思います。

① 「水にまつわる祭り」
私たちは生きていくために日々食事をします。そして水は欠かすことができません。私も一日目標2リットルの水を摂取するように心がけてはいますが、せいぜい500ミリリットルのペットボトル1本飲むだけでも難儀しています。が、水を飲まないと血の通りが悪くなったり、不純物を溜め込んでしまったりと、身体にはよくありません。珈琲なら1日3度は煎飲んではいるのですが。カフェインは体の水分を出すので水は2倍飲まないといけないそうですが難しいですね、贅沢な話です。蛇口をひねれば水が出る日本の感覚と、幼児の聖書のイスラエルの雨期以外ほとんど雨が降らないところでの水に対する価値判断は大きな違いがあるでしょう。
今日読まれましたユダヤの仮庵祭は、「イスラエルの民が荒野で天幕に住んだことを記念し、仮庵、まあテントのようなものを造って祭りの間そこに仮住まいをしたのです。イエスさまの時代には、7日間ないしは8日間「の祭りの期間中、毎日シロアムの池の水を黄金の器に汲んで神殿に運び、朝夕の供え物とともに祭壇に注ぐ行事として行われていた」とのことです。日本の祭りでもお水取りなんてことをするようですが。
イスラエルの先祖たちがかつてエジプトを脱出してシナイ半島の荒野を旅した折、彼らは食べ物も飲み水も十分ではなくなってきたことに腹を立て、まあそこで指導者モーセにくってかかって「なんでこんなところまで我々を連れて来たのか、こんなになるんだったらエジプトにいた方がまだましだった」と激しく不平不満を言うのですね。
しかし神さまは不平をもち忍耐できない人々に対して、モーセを用いて岩から水を湧き出せて民の渇きをいやされたのです。
それ以来、イスラエルの人々は代々、自分たちの今と未来とがあるのもそのことがあったからだと記念し覚えて、祝ったのがこの仮庵の祭りなんですね。

ところがです。イエスさまの時代このシロアムの池から水を汲んで注ぐ祭壇は、厳しい入場制限があったというのです。
女性や子ども、又、何らかの不自由を抱える人は神殿にも入ることがゆるされませんでした。貧しい人は神殿の門の前で施しを乞うていました。まあ、神殿や祭壇に入って祭りに加わりたくてもゆるされない人たちがいたのです。
その一方で、神殿に入れて祭壇に近づくことができたユダヤの人々も又、この儀式に酔いしれてはいましたが、彼らを真に満たし得ることになっていないことを、イエスさまは見通しておられたのです。
ある方がクリスチャンになる以前、若い頃までお祭り行って高揚した気分になり、神社で手を合わせたりもしたが、神さまとの関係性を感じることはなかった。けれどもイエスさまと出会って、本当に神さまの愛に満たされ喜びを知ったということを言っておられましたが。
37節「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」。
この「だれでも」というイエスさまの招きの言葉が非常に重要なのです。

神さまの恵みのみ業を覚えつつ、切実に今日の命の水を必要としている魂の渇きを切実にもっていた人たちが、この祭りから閉め出されている。
この祭りは一体何のためにあるのか、という強い義憤の思いをイエスさまはもっておられたのでありましょう。
イエスさまは、神殿に入ることがゆるされていなかった人々に対しても、神は等しく招いておられることをお示しになられたのです。
この時も、そして今も変わることなく、主イエスは「だれでも」が神の真の満たしに与えられるように強く招いておられるのです。

② 「イエスさまが与える水を飲め」
さて、ここでイエスさまは「わたしが与える水を飲みなさい」と招かれました。
物質的な水は私たちの身体や健康にとって大切なものには違いありません。けれどもこの水は一時的なものであり、人の魂を平安にし、人生を潤し満たすことはできません。
イエスさまが与えてくださる水をイエスさまから飲むこと、それが私たちの魂を真に平安にし、生き返らせ、人生を満たすことができるのです。

私たち人間の渇きのもっとも深い原因はどこにあるのでしょうか?
それは神さまとの断絶です。万物の創造主であり、人を御自分の作品として形づくり、慈しんでおられる神さまとの和解がなければ人は平安を得られず、魂は渇きます。
キリストによる罪の赦しと神との和解こそ真の平安、魂の渇きを満たす源となるのです。
渇きは何度も起ります。真に渇きを満たす生きた水、根本的に渇きを満たす生きた水の源泉が必要なのです。命の水の源泉であられるイエスさまから戴く必要があるのです。

③ 「生ける命の水の性質」
ではこのイエスさまが与えてくださる生きた水、もっといえば生ける命の水の性質、水質とはどのようなものなのでしょうか?
38節「聖書に書いているとおり、その人のうちから生きた水が川となって流れ出るようになる」とあります。
旧約聖書のゼカリヤ書14章8-9節を読みますと、「その日、エルサレムから命の水が湧き出て、半分は東の海へ、半分は西の海へ向い、夏も冬も流れ続ける。主は地上をすべて治める王となられる。その日には唯一の主となられ、その御名は唯一の御名となる」。イエスさまのことが預言されているんですね。命の水は世界の四方に溢れ流れ出て、すべての地を潤していくのです。
全世界のみ救いを成し遂げるために、十字架上で御体を裂かれたイエスさまが脇腹を槍で突かれた時、水が流れ出たとあります。医学的にいえば腹水であったのかも知れませんが、主イエスを信じる私どもにとりましてそれは「命の水」を象徴する霊的な水であります。
イエスさまの生ける水は、神さまが御独り子を犠牲にしてまで私たちのために与え尽くしてくださった、人を活かす神さまの愛そのものなのです。

さらに、その生ける水について、39節「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている霊についていわれた」と記されています。
この「霊」は幽霊とか亡霊とかといった得体の知れないようなものではありません。
ここに言われているのは、三位一体の「聖霊」の神さまご自身のことです。聖霊は神の力におけるお働きなのです。聖霊によらなければイエスさまを救い主と信じ、受け入れることはできません。

④ 「生ける命の水の流れ」
さて、人の魂を真に満たすことのできる生ける命の水、聖霊のお働きによってさらに生ける命の水は溢れ流れていきます。
ヨハネ4章でイエスさまは、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」とおっしゃいました。
そのようにイエスさまから流れ出る水は、それを戴く人のうちからも留まることなく湧き溢れていくのです。
もう何度も中村哲医師のお名前を出して恐縮ですが。先生は恐らくイスラム教徒などの多いパキスタンのペシャワールやアフガニスタンのガブールで活動なさるのに、ご自分がクリスチャンであることを控えていらしたようです。先生は日本バプテスト連盟の香住ヶ丘バプテスト教会の初穂(一番最初にバプテスマに与かった方)です。強い使命感をもって、ペシャワールの会を有志の方々と立ち上げ、やがて垣根を越え、ゆたかに拡がってゆきました。中村医師と志を共にする人たちのうちから、言うなれば「生ける命の水が溢れ出で、荒野に道が切り拓かれて、命の水の川が流れ溢れて、多くの人が今もその水に潤されています。
先生は思いもよらぬかたちでの最期となられましたが。先生がなさって来られたことは
途絶えず今も引き継がれて、命の水の流れはこれからも人と大地を潤していくことと信じます。その命の水の源は主イエス・キリストであると信じます。
昨日から藍色のシャマールの音楽劇が教会を会場に行われていますが。後藤健二さんの活動もそうだったと思うのです。彼自身の志と共にクリスチャンであった彼のうちから流れ出るキリストご自身の愛にあって、危険を冒しながら戦地に入り込み、そこで懸命に生きている人たち、とくに子どもや女性、病のうちに苦しむ人たち、生活を破壊された人たちに、寄り添り沿うように取材をして、この現実を多くの人に知って欲しいとマスメディアを通して、又、子どもでも読み易い本を何冊も書いて本当に地道なかたちで発信され続けてこられたのですね。

私は何もできない、何も持っていないなどと思う必要はまったくありません。
イエスさまは、「渇いている人はだれでも、わたしのもとに来なさい」。だれでも来て命の水を戴く時に、聖霊がどのような人であっても、神の栄光を顕わす器として下さるのです。そこに意にそぐわないガンバリやヨロコビの伴わない背伸びは必要ありません。
ただ、「アァーメン」と受けることによって聖霊がお働き下さるのです。

⑤「大切なこと」
大切なことは主イエスこそ命の水の源泉、救いの泉であることを日毎に確認し、聖霊のお働きを確信していくことです。
生ける水、命の水は旧約聖書においては、命を与える神の言葉と神の知恵を表わします。箴言13章14節には「知恵のある人の教えは命の泉」とあり、さらに箴言18章4節には「人の口の言葉は深い水のようだ。知恵の泉は、わいて流れる川である」と記されております。聖書のみ言葉は神さまの知恵であり、命の言であります。御言葉に馴染んで生きる日々、又御言葉の分かち合いは大事です。けれどももっと重要なのは、その命の水の源、救いの泉が主イエスご自身であられるということです。
ヨハネ5章で、主イエスはご自分を信じようとしない人々に対してこうおっしゃいました。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」。
私たちはどんな学びの中にも、礼拝や集会の中にも、この主イエスこそ生ける命の水の源であり、救いの泉である。このことを発見し、確認していくことが大切なのです。
今日もこのことを喜びのうちに確認しつつ、ここからそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。

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