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世界の王、主を求めて

2019-12-22 20:24:44 | メッセージ

クリスマス礼拝宣教 マタイ2章1節~12節 

「メリ―クリスマス、クリスマスおめでとうございます。」
今日初めて教会にお出でになられた方もいらっしゃるかと思います。又、久しぶりにお出でくださった方、求道中の方、ようこそいらっしゃいました。全世界に与えられた救いと希望、救い主イエス・キリストのご降誕を記念するクリスマス礼拝を共に捧げられることは喜びです。
一方で2000年前も今も、残念なことに世界中で悲しく無残な戦争やテロが後を絶ちません。それはすべての人に向けられた神の愛を知らないために起ってくる無関心や利己的な人の思いというものが要因となっているでしょう。そのような暗き世界に平和の君である救い主イエス・キリストが世を照らす真の光としてお生まれ下さった、この平和の福音がすべての人にと、切に祈り願います。

本日は先ほど読まれましたマタイ2章1-12節より、「諸国民、全世界の王なる主を求めて旅し、遂に神の御子キリストのもとに導かれ、喜びにあふれて幼子イエスさまに礼拝を捧げた東方の学者たちに焦点をあてながら、聖書のメッセージに聞いていきたいと思います。
さて皆さんは、このクリスマスの礼拝に様々な思いを持っておいでになられたでしょうか。しかしそれは私たちの側の意志や決定以前に、まず「主なる神さまのお導き」があってのことです。主のお導きがあって一人ひとりがこのクリスマス礼拝の場へと招かれた、ということであります。
先程読まれました聖書の東方から来た学者たちは、まずベツレヘムでお生まれになったユダヤの王のしるしと思われる不思議な星に導かれ、ヘロデ王のもとを訪ねます。
さらに彼らがヘロデ王の宮廷から出かけると、「東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった」とあります。このようにその随所で星が彼らを救い主・キリストのもとへと導いていったのです。それは神の御心でした。

「星に導かれて」ということで思い浮かびますのは、もう10年も前になりますが、ある方が大阪教会のブログに寄せて下さった文章が目に留まりました。それをちょっと紹介したいと思います。
「先日、教会のクリスマス・ツリーの飾り付けをしていたとき10月11日に入信したばかりの9歳のT君も一緒に手伝ってくれた。そのうちに彼は大きな星を見つけて「これどこにつけるの?」と聞いてきたので、その星の由来を説明した。東方の博士たちを導いた星のことを!すると、彼は「僕が飾りたい!」その木の天辺に飾りたい!」小さい彼にはとても無理な話であった。人の助けが必要であることは勿論である。「ぼくが」という強い意志が彼を動かした。彼を抱っこしても届かない。それが階段近くにあったので、階段の間から手を伸ばす方法を彼は思いついた。その木の先端に手の届く方向へ下にいる者が曲げてやると苦心惨憺の末ついに届いた。見事にその星は定位置に収まったのである。T君の顔は「やった!」という満足感でみなぎっていた。多くの方々の祈りに導かれ、でっかい星を「ぼくが」飾りたいのだと小躍りをもってしたことが遂に実現につながった。背丈が問題ではなかったのだ。T君の意欲が周辺にいる人たちを巻き込んだ。その星が他の飾りに先駆けてあるべき位置に就いたとき、彼のよろこびようは尋常ではなかった。彼は信徒になってはじめてのクリスマスを迎える準備に大役を果たしたのです。じっとしてはおれなかったあの異国の博士たちは遠く山河をこえてエルサレムにやってきた。途上けわしい道もあったであろうが東方でその方の星を見た彼らを導かないはずはないと固く信じてひたすら進んできたと思う。博士たちの努力や熱心が、救い主を見つけたのではない。救い主の誕生とそのしるしが彼らを動かしたのだ。信仰者があらゆる努力をして救い主を造り出すのではなく、救い主はすでに生まれているのです!云々」。
ほのぼのとしたエピソードでありますが。その彼も先日二十歳となり信徒となって今日で11回目のクリスマスを迎え共に礼拝を捧げています。

さて、東方の学者たちの「ユダヤの王がお生まれになった。その方を拝みに来た」という言葉を聞いて、3節「ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」と述べられています。
これは救い主・キリストの誕生が、ユダヤの王ヘロデやエルサレムの人々には決して喜ばしものではなかった、祝われるような出来事ではなかったという事を物語っています。 
巷ではもう11月初め頃からデパートや商店などに華やかなクリスマスの飾付けがなされ、教会より先にクリスマスが来ているようですが。まあ私たちは一年に一度こうしてクリスマスの本来の意義をあらためて見出し、喜び祝うため集っているのであります。それは救い主キリストが私たちのもとにおいでくださったことを心から感謝する喜ばしい日でありますが。しかし世界で最初のクリスマスは決して華やかさもにぎやかさもなく、何か楽しくうきうきするような中で来たのでもなかったのです。むしろ人々の不安と心の闇の中にその日が訪れたのであります。
当時のユダヤはローマの支配下にあったとはいえ、エルサレムの住民は比較的裕福であり、ヘロデもその地位に満足していました。
そこに神の民としての畏れや渇きはありません。何よりも権力を掌握していたヘロデ王にとって、自分に取って代わるような新しい王が誕生するなんぞという知らせは、自分の地位や権力を揺るがしかねないと、都合の悪いものでしかなかったのです。それはエルサレムの住民もまた、自分たちの生活の現状が維持されるならよいが、それを揺るがすようなことは彼らにとってみれば不安の材料に他ならなかったであります。
2週前の礼拝ではヨセフが主の天使から、婚約者のマリアは「救い主・キリスト」を聖霊によって宿した、とのお告げを聞く場面を読みました。
ことの次第を聞かされたヨセフに驚きと「恐れ」が生じ、彼は非常に戸惑いました。けれどもヨセフはヘロデやエルサレムの人々のようにただ「不安を抱く」のではなく、主の言葉に聞き従うあゆみへ方向転換されていくのですね。
先週礼拝で読みましたルカの福音書に登場する羊飼いたちは、ヘロデ王のように地位や権力はありませんでした。又、エルサレムの住民のように安定した暮らしもありませんでした。羊飼いたちは自分を守るもの一切所有していない人々であったのです。その日一日をただ一生懸命に羊飼いとして生きていた。にぎやかな街の喧騒から置き去りにされ、町の人たちからも疎外されていたその羊飼いたちに、真っ先にあの天使の御告げ、「あなたがたのために救い主がお生まれになった」という喜びの知らせが届けられたのです。彼ら羊飼いたちは主の天使のお告げに、恐れおののくのですが。その羊飼いたちの恐れは、ヘロデ王やエルサレムの住民たちが抱いた「不安」と全く違ったものでした。羊飼いたちは「自分たちのように小さい者のもとに救い主の誕生の知らせが届けられるとは、一体どういうことか」という驚きと謙遜、それは「神への畏れ」、畏敬の念であったのですね。

さて、この東方の学者たちは「マギ」とも言われていました。口語訳や新改訳では「博士たち」と訳されておりますが。それは当時のペルシャで広く知られた天文研究者や自然科学者、占星術者を指していたようです。
彼らは東方から来たとありますから、バビロンやペルシャという国からと考えますとその地は、ユダヤの人々が長い間捕囚の民として暮らした地域でありますから、そこに移住していたユダヤの人々を通して、王なるメシアの預言を知るようになったのかも知れません。
彼らは「東方でユダヤの王となる方の星を見て」、遙々エルサレムのヘロデ王の宮廷を訪れるのです。そうして「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちはその方を拝みに来たのです」と、真正面から尋ねるのであります。ヘロデ王がどう受け取るかなどあまり考えていなかったのかも知れませんね。「神の約束であるユダヤの王、待望された王がお生まれになった。是非とも拝みたい」と、ただその一心で自分たちの見た星を頼りに、遠くから遥々国境を越え、資金、時間、労力を惜しまず、危険な山道を乗越えてエルサレムにまで足を運んで、ヘロデの王宮を訪ねたのです。
イエスさまは、「だれでも幼子のようにならなければ、神の国に入ることはできない」とおっしゃっていますが。まさに、この東方の学者たちのあり様は、神とその救いを一目拝したいという心のあらわれであったといえます。(今日は小澤愛子さんが何とか礼拝に出席したいとの願いが叶えられ、久しぶりに礼拝を共にできて嬉しい限りですが。)

まあそのような東方の学者たちとは対照的にヘロデ王やエルサレムの人々の心は、日常の様々な事どもに心ふさがれ、神の時が訪れても、それに気づくことも受け入れることもできませんでした。
この東方の学者たちの心は、「神の示されるこの特別な王に是非とも会って礼拝したい」という期待に満ちていました。彼らが抱いていた「礼拝したい」、又「神の救いに与りたい」という強い願いは、本来世界中の人々の魂の飢え渇きを示しているのです。なぜなら、そこに神さまが備えてくださる真の平安と祝福があるからです。
ところが、今日の時代にあっても多くの人びとは日常の事どもや思い煩いに心がふさがれて、あの王やルサレムの住民たちのように神の恵みを受け取ることができなくなっているのではないでしょうか。主を信じている私たちは、どうでしょうか?

本日の箇所で重要な点は、救い主の誕生をはじめに知り、拝むために探していたのが、ユダヤの民や人々でなく、意外も意外、ユダヤ以外の異邦の人々であったということであります。いわゆる神の選びのユダヤの民でなく、ユダヤと国境を隔てた遠い東の国に住む異邦の人たち、ユダヤ、エルサレムの住民からすれば、神の祝福の範疇から除外されている目されていた人々であったのです。
マタイの福音書は神の民であるユダヤ人に向けて書かれていますが、救い主がお生まれになった最初の知らせを聞きとり、主を心から礼拝したのがその異邦の人々であったと、異邦人に向けられた神の祝福がこのようなかたちで物語られているのです。
私たちもまた、異邦の民であり、罪深い者でありますが、主はその私たちのために救い主を送ってくださったのです。東方の学者たちのように救い主に導かれた大いなる畏れと感謝を、私たちは失いたくないものであります。
今日の礼拝の招詞、エレミヤ書10章6-7節をもう一度読んでみましょう。    
「主よ、あなたに並ぶものはありません。あなたは大いなる方/御名には大いなる力があります。諸国の王なる主よ/あなたを恐れないものはありません。それはあなたにふさわしいことです。諸国民、諸王国の賢者の間でも/あなたに並ぶものはありません」。
アーメン。これは、すでに旧約の時代から、救い主はユダヤだけでなく諸国民、諸王国つまり世界の王、主としてお生まれになることが預言者エレミヤによって告知されていたのです。そうして、このエレミヤ書の預言が、御子キリストの誕生によって実現したことをマタイの福音書ははっきりと世界の人々に伝えているのであります。

さて、ヘロデ王が「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ、わたしも行って拝もう」と東方の学者たちを送り出し、彼らも王の言葉を聞いて出かけると、あの「東方で見た星が彼らに先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった」というのです。そして、「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」とあります。
天体物理学で世の中を計算し占うような彼らが、人知を超えた存在、天地万物を創造された神のお働きとお導きに遭遇した感動と喜びが彼らに満ち溢れているんですね。

そうして彼らがそこに入りますと「幼子は母マリアと共におられた」のであります。
東方の学者たちがずっと会いたいと切に願っていた新しいユダヤの王と、彼らはここで初めて対面することになるのです。
そこは王の宮廷でも立派な建物でもなく、岩穴の洞窟を利用した粗末な家畜小屋でした。そこには王座も王冠もなく、その幼子には世に言う権力をもつ王としての風貌は何もありません。
またそこには、期せずしてかけつけて来た貧しい羊飼いたちの姿もあったことでしょう。
彼らもまた救い主の誕生の知らせを聞いて、同じく喜びに溢れていました。まあ、薄暗い家畜小屋に、身分も立場も、国も肌の色も違う者が訪れて来て、この幼子イエスさまを拝しているという何と平和で暖かい光景でありましょう。東方の学者たちはそういう出会いの中で、この幼子こそ、平和の主にして、世界の王メシヤであるとの確信を与えられたのではないでしょうか。
都を守り治めるのは力や権力であると、それに依存し、しがみつく人たちは、この平和、平安に与ることができなかったのです。

今日の東方の学者たちは、そこで乳飲み子イエスをひれ伏して拝みました。異邦人であった彼らは天文学や自然科学を探求することによって真理を探し求めていましたが、しかしその星や天体や自然界をも統治し、導いて偉大なお方、主なる神を、彼らはこうしてベツレヘムの小さな町の家畜小屋に寝かされた幼子イエスを拝んだ、礼拝したのです。
マタイ4章に預言者イザヤの書の言葉が次のように引用されております。「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」。
まさに主イエスは、世界の救い主としてお生まれくださったのであります。

東方の学者たちは「宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」。
黄金は王や権威の象徴。乳香は神殿で焚かれるお香ですから神性を表します。没薬は死者を葬るさいに塗られるものですから、死を意味しています。つまり御子キリストは王であり、神であり、救いのために死ぬこと、すなわち罪の身代わりとなって死ぬために来られた。そのようなお方であることがこの3つの宝に預言的に表されているのです。

こうして主イエスさまを拝した「彼らはヘロデの王宮には戻らず、別の道を通って自分たちの国へ帰っていった」とあります。
彼らが当初来た道は、政治的使節団としての意味あいをもっていました。彼らは平和的な関係を築くためにユダヤの王子の誕生を祝いに来たのです。しかし救い主の幼子イエスに出会った彼らは、ヘロデの王宮にはもう向かわないで、神の言葉、御告げに従う道を通って自分たちの国へ帰っていくのですね。それは、彼らのこれからの人生が、世の力や権力に依り頼む道ではなく、生ける主なるお方を拝しながら生きる、ほんとうの平和・平安、シャロームの道を選びとっていったのですね。私たちはどの道を通っていくのでしょうか。それを選ぶのは私たち自身に委ねられているのです。
今日は「世界の王、主を求めて」というテーマでお話をしました。メリークリスマス、全世界のすべての人たちのために救い主イエス・キリストがお生まれくださったこの大いなる恵みを感謝して、主の御名をほめたたえます。

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