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教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

キリストの愛に照らされて

2022-07-17 14:38:36 | メッセージ
礼拝宣教 エフェソ3章14~21節
 
先週は大阪教会の教会案内のチラシがご自宅の郵便ポストに入っていたということで、ある方からメールをいただき、お会いしてお話を伺いました。壮年の方かと想像していたのですが、お会いすると青年の方で、とても熱心な仏教徒の方でした。  彼は、ロシアとウクライナの戦争を見て、同じキリスト教を中心とした国なのに、どうしてあのような戦争をするのかという疑問をもっておられました。その事についてはまず、政治と宗教が癒着することの危険性をお伝えしたのでありますが。キリスト教の本質は神との関係であり、そこから人と人への関係へと目が向けられていくわけですが。神を畏れ敬う人はその思想信条を重んじ、心と魂、生活の全領域で正しく生きてゆきたいと努めるものです。ところが、宗教が政治や何がしかの権力に結びついてしまいますと、人びとの信仰心を揺さぶります。神の言葉と信仰理解が歪められ、迫害されていきます。ロシアとウクライナでは、それが国家という大きなレベルで起こったのかも知れません。先の大戦について、世界的に知られた牧師が権力者と結託し、日本人をサタン呼ばわりし、広島・長崎への原爆投下を肯定、正当化しました。人類の歴史を振り返ってみても、こういったことは何もキリスト教に限ったことではなく、香港のキリスト教会とその信徒への迫害が今非常に深刻な状況にあるようですが。そういったことは至る所で何度も繰り返されてきたことです。日本でも憲法に政教分離の原則がしっかりと定められているわけですが。                                         
フィリピの信徒への手紙1章9‐11節には、「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたることができるように」とあります。生ける神の御言葉によってキリストの平和をかかげ続けるキリストの教会であるように、と祈るものです。

話を戻しますが。その来会なさった青年は又、仏教の教え、業(ごう)、因果応報、成仏等についてお話をされました。彼の宗派は「法華経」を重んじ、念仏を唱えることによって、自分の心の中に悟りを経、悪行からの浄化がなされて、成仏へ至る道が拓かれていくということでした。成仏するには修行や供養が必要であるということでした。                                 

キリスト教も神の御言葉に聞き、キリスト(救い主)の御姿に倣って生きて行くことを大事にします。けれども正しい行いをすること、徳を積んだから救われるというのではなく、むしろ自分の業(わざ)の至らなさ、弱さ、罪を知るからこそ、救い主であるキリストを必要とするのです。それがキリスト者です。キリストによって神に赦された喜び、感謝の思いから救いの恵みに応える人生を歩んでいくところに、成仏ではなくすでに天の国はあるのです。
キリスト教の救いの原点は、イエス・キリストがあのゴルゴダの丘で十字架に磔になって、壮絶な死を遂げられたことによって、救いの道が拓かれたことにあります。

先にお話をした仏教徒の青年は、「キリストが十字架で、神よ、なぜお見捨てになったのですか、と絶叫して死んだのは、結局は敗北ではないですか」とおっしゃいました。今問題となっているカルト宗教も、「キリストの十字架は失敗で、自分たちの教祖が救世主」と言っていましたが。
わたしははっきり、「いいえ実はその十字架のイエス・キリストのお姿が、万人を救うことのできる神の愛の現れなのです。それがキリスト、救い主なのです」と申し上げました。キリストが死を前にしたあの絶叫なさったお姿こそが、わたしたち人間の痛みと苦悩、不安や恐れを身に負い。なぜですか、どうしてですかとしか言いようのないどん底にまで一緒にいるという救い主の証しなのです。                                                さらに、そのキリストは死の滅びから復活なさったのです。それは、この地上での生涯が虚しく滅びゆくことなく生も死も超えたお方がどこまでも共にいてくださることの証しです。そこにキリストを信じる者は世では得難い大きな平安を見出すことができるのです。

さて、今日の聖書の箇所はエフェソの教会の信徒たちに向けられた使徒パウロの「願いと祈り」であります。                                                      わたしたちは、キリストの御救いによって、すべての造り主であり、万物を統べ治めておられる全能の神がいつでも、又どこにいようとも幸いな事に祈り求める恵みの賜物が与えられています。

3章12節で、「わたしたちは、主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます」と、パウロは述べていますが。                           今日のところでパウロはまず、「そういうわけで、御父の前にひざまずいて祈ります」と述べていますが。立って祈ったり、座って祈ったりと、特に祈りの形の決りなどありませんが。唯一人、切なる願いをもって神の御前に祈ろうとする時、自ずとひざまずいて祈る姿勢をとるものです。それほどパウロがエフェソの教会の信徒たちを思い、とりなして祈っていたということでありましょう。それは、先週読みましたように、多種多様なエフェソの信徒たちの間にあった心の壁が、福音の恵みを損なわせていたからです。
そのような信徒たちをパウロはとりなして祈ります。                            

15節「御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。」この「家族」というのは、キリストにある神の家族のことです。先週の2章19節以降に「あなたがた(エフェソの信徒たち)はもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています・・・キリストにおいて、あなたがたも共に立てられて、霊の働きによって神の住まいとなるのです」と、ありましたが。その神の家族とされたことの祝福を、パウロは受け取ってほしいと切に願い祈ったのです。ユダヤ人も異邦人もなく、民族や国の違い、地位や立場の違い、男も女もといった性差による区別も超えた神の家族としての祝福。それこそがパウロの願う「キリストの平和」であります。                       

16-17節「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」                                「愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者」とは、キリストがその人の心のうちに住まわれ、キリストの愛に満たされた人のことです。人の精進や努力の結果得られたものではありません。それはややすれば人を高ぶらせ、高慢にさせます。けれど、唯、恵みによって、「御父は豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強める」ことがおできになるのです。

18-19節「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛(奥義)の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」   
キリスト教の祈りの本質をここから読み取ることができます。それは「神の愛」、アガペーです。イエス・キリストが十字架で最期を遂げられたあの死は、この世的に見れば、敗北、それは罪があるからああなったんだ。落ち度があったから失敗したんだ、と因果応報のように映るかも知れません。けれども、先にも触れましたように、キリストのこの十字架の死こそ、罪に滅びるしかない人間、又世の力と損なう力とに虐げられ、死を待つばかりの人間と一緒にいまし、そのどん底から救い出そうとする全き神さまの愛の御業なのです。「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」、それは私たちの全存在をまるごと抱え込んでゆく人の思いや知識をはるかに超える神の愛。その愛を知るようになり、その神の満ちあふれるゆたかさのすべてにあずかり、満たされていくようにと、パウロは切に祈ります。

今日の聖書箇所から、「キリストの愛に照らされて」と題をつけさせていただきました。私たちのもとに御子なるキリストを救い主としてお与えくださった神さまに、又、どこまでも共におられるイエス・キリストをほめたたえます。

20-21節「わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることがおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」                             この世界とすべての人が、天地創造の時に神さまがお造りになられた神の家族として回復されていくことを願い求めつつ、このパウロの祈り、そのキリストの愛に心を合わせて歩んでまいりましょう。
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