礼拝宣教 使徒言行録2章1~13節
本日はペンテコステ・聖霊降臨によってキリストの教会が誕生し、主イエスの十字架と復活の福音が全世界に告げ知らされることとなった、その初めの出来事を記念する礼拝を捧げております。
聖霊は世々の時代を経て、世界各地に、こうして日本の私たちのもとにも臨んでおられます。
主イエスがバプテスマをお受けになったとき、聖霊が鳩のように主イエスのうえにお降りになり、主イエスは地上における神の国の到来を実現なさる使命を果たしていかれました。
同様に、聖霊が降臨したキリストの教会、信徒一人ひとりの群れもまたこの地上にあって、主イエスの十字架と復活の福音を世に伝え、証し、分かち合う使命を託されています。
使徒言行録2章はじめに「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集っていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人のうえにとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」とあります。そこにいたのは無学なガリラヤ出身の者が多かったことから、人々はたいへん驚いたということです。
旧約聖書・創世記11章のバベルの塔の記事を読みますと、そもそも「世界中は同じ言葉を使い、同じように話していた」とあります。国や民族が異なっても一つの言葉で意思疎通を図っていたということです。そういう中、東の方から移動してきた人々がシンアルの地にバベルの塔を建設しようと企てます。彼らは「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして全地に散らされないようにしよう」と、このような目的をもって塔を建て始めます。彼らは全地を創られた神を忘れ、ただ自分たちの名をあげるためにそれを建てようとするのです。今流行の言葉で言えば、「テッペンを目指す」という事でしょうか。それは又旗印を掲げるような排他主義的統一の思想。又うちの国のファーストみたいな偏狭な民族主義と相通じるものがあります。
そのことを見抜いておられた神は、「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は下って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう」と言われ、彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはバベルの塔の建設をやめた、と記されています。
一つの民族が排他的思想や国粋主義に陥るとどんな事が起っていくかは、世界の歴史の示す通りでありますけれども。
まあ私たち人間にとりましては、主なる神が言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられないようになさったことは残念な気も正直いたします。学生の頃あああの時、いっそ日本も英語でしゃべれるようになっていたらどんなによかったか、そう思ったのは私だけではないのではないでしょうか。
けれども神のご計画はゆたかです。様々な言語や文化が形づくられていくことを神は良しとなさいました。
それは、一人ひとりの存在がオリジナルなものであるゆたかさでありますし、その多様性を認め合い、互いを尊重することのゆたかさです。
しかし私たち人間というのは、その多様性、違いのゆたかさに気づけない。受け入れられないため、今も世界は混沌とした状況があるわけですが。
さて、そういう混沌とした世界、道筋の見えないような状況の中で、使徒言行録1章13―14節にありますように弟子たちや女性たちは、主イエスの約束のお言葉を握りしめ、「心を一つにして」熱心に祈り続けていたです。
それは1章8節に復活の主イエスが語られた「あなた方の上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」という約束です。
イエスさまの十字架の出来事からそれ程日が経っておりませんから、彼らはその身に危険も感じたり、不安や恐れもきっとあったに違いありません。
又、弟子たちの中には疑う者もいたということですから、不信を起こさせるような試みもきっとあったと思うのです。
それでも彼らは主イエスの約束をしっかり握って、互いに心を合わせて熱心に祈り続けたというのです。そうして遂に約束の聖霊が降臨されて、集うその一人ひとりの上にとどまり、主のお約のとおり様々な言語の人たちに「神の偉大な業」を語り出したのであります。これこそが聖霊のバプテスマです。
聖霊は目に見えませんけれども、主の御名によって集い、祈り求めるエクレシア、呼び集められたその一人ひとりに降臨されるのであります。
聖霊は私たちが主にあって心を合わせて祈り求めていくところにゆたかに臨まれるのです。
皆さまも礼拝や祈り会、又讃美を共にささげる集いで、自分の意識や理性とは別のところで感動が溢れたり、胸が熱くなったり、何だか知らないけれど涙が止らなくなったりという体験をお持ちではないでしょうか。それは祈り求める人びとにお応えくださる神さまからの一方的愛の介入、聖霊がお働きになっておられるのであります。
私たちが心を開いて聖霊による神の愛と慰めを受け入れる時、魂は平安を得、救い主への確信が与えられます。昔も今も永遠に変わることのない聖霊がゆたかにお働きになられるのです。
聖書にもどりますが。「一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」というその時、大勢の人が何事かと集まってくるのですが。その中には「天下のあらゆる国から帰ってきた信心深いユダヤ人たちがいて、ガリラヤの無学な人が、様々な言葉で神のみ業をたたえていること」に驚くのですね。
彼らはユダヤの地を様々な事情により離散した者らとその子孫たちであり、エルサレムに帰ってきた人たちでした。おそらくユダヤ以外のお国の言葉しか話せない人たちも少なくなかったと思うのですが、その魂のふるさとであるユダヤの地に帰ってきた人々は、何とその自分たちが散らされていたお国の言葉で「神の偉大な業」を、聖霊に満たされた人たちから聞くことになるんですね。散らされた人たちがここで再び聖霊によって一つとされる出来事が起っていくわけです。
この偉大な神の業とは、具体的に、主イエスの贖いの死と復活におけるみ救いであります。
聖霊に満たされた12弟子の一人ペトロは14節以降で、その証しを力強くユダヤの人々に語るのでありますが。そこでも記されているように、聖霊がお働きくださる時、私たちが如何に神に背を向け、あのバベルの塔の人たちと同様自分本位に生きてきたかに気づかされていきます。
そして、そのような罪の滅びの中から私を救い導き出すために主イエスが十字架の贖いの業を遂げてくださったその神の愛を聖霊は悟らせてくださるのです。これは神の一方的な恵みであります。この神の愛にあって心一つとされて共にその恵みを「喜び、祈り、感謝していく」。私たちの今年のテーマでもありますが。ここに神の霊、聖霊の豊かな働きを見るのです。
国の違い、言葉や文化の違いを越えて、共に主のみ救いの恵みとゆたかさを覚える幸いを、私たちも又、このキリストの教会で与えられている幸いを覚えます。
先週はギデオン協会の方からお証しを聞きました。そのお働きというものも、世界中の人々が自分の国の言葉に訳された聖書によって「神の偉大な業」を知ることができるそのための尊いお働きであるということです。又、先週書店で「超訳聖書・生きる知恵」という書物を見つけたんですが。編者の石井さんは「聖書は地球上の2932の言語に翻訳され、過去50年間で39億部も発行されている。これは第2位の「毛沢東語録」8億2千部を大きく引き離す数字」ということをおっしゃってて、まあそれだけ多くの人たちが自分たちの言語で聖書は読めるようになっているということですね。
ペンテコステ:聖霊降臨によって、今日世界中で神の偉大な業を聞くことができるようになりました。それは神の愛、主イエス・キリストにある救いと新しい命のメッセージです。今も聖霊のお働きをとおして新しく生まれ変わる人たちが世界中のいたるところで起こされています。
私たちは誰しも一人ひとりが神さまのご計画によって救われています。それは主の福音を知らせ、分かち合って生きる者として召されているということでもあります。
その召しに応えて生きる者でありたいと願うものです。
最後に、「神の偉大な業が語られている」一方で、「『あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ』と言って、あざける者もいた」と今日の箇所に記されています。
これは教会に自分の意思で行き初めるようになった時や信仰を持つ決心をした時に、直面する試みでもあります。私たちは異教の地ともいえる日本において信仰を守ることの困難さが常につきまとうものであります。あざけられたり、馬鹿にされたり、友情や人間関係がぎくしゃくしたり、危うくなることもあるかも知れません。
それでも命の主、救いの主への信頼、その信仰の確信を失わずに一足一足を歩み通してゆくことができますように祈るものです。そうした救いの喜びに生きるその姿を見て、このみ救いが本物であることを認めてくれる人も出て来るかもしれません。こうした生ける証し人へと導きお用いくださる。これこそがペンテコステを生きる聖霊のお働きであります。今日ここに集われたお一人おひとりにもれなく聖霊がとどまってくださり、イエス・キリストに顕される神の愛を悟らせてくださいますように。
神の偉大な業を証しする者とされるよう、聖霊に満たされますよう祈ります。
主の御力を受け、今週もここからそれぞれの持ち場へと遣わされてまいりましょう。
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