礼拝宣教 Ⅰコリント12:31-13・13
先週の水曜午前の祈祷会に、訪日中の韓国の青年たち4人が出席され、ほんとうに恵みの時が与えられ感謝でした。水曜日集会を持っている教会をネットで検索していたところこの大阪教会がヒットして来られたそうですが。その目的は日本のキリスト者と一緒に心を合わせて、日韓における福音宣教のために祈りを共にしたいということでした。帰り際教会へということでプレゼントを頂いたのですが、それはコリント書一16章14節の「何事も愛をもって行いなさい」が記された素敵な壁掛けのボードでした。その日の祈祷会の聖書の箇所がまさにコリント13章の「愛」をテーマにしていましたのでお互いに神さまのゆたかなお導きを思い讃美しました。掲示版のところに青年たちのそのボードと心を込めて日本語で書いてくださったメッセージカードと写真を貼っておりますのでご覧下さい。
その日の午後は第二回目のこども食堂が開かれ、こどもとおとな22名が集まり、ボランティアの方々が本格的に味付けした美味しい麻婆豆腐をこどもたちと一緒にいただきました。こどもたちは遊んだり本を読んだりと楽しく過ごしていました。特に今回天王寺区の社会福祉協議会よりお二人のスタッフさんが出席してくださり、この様子を見ていただけたのも幸いでした。
まだまだ月一度の活動ですが、地域の学校や福祉機関にもつなげられ、見守りと励ましの場としてゆかたに用いられ、キリストの教会にふさわしい証が立てられていくことを期待しています。どうぞ、このためにもお祈りにおぼえてください。
さて、本日はⅠコリント13章の愛の讃歌としてよく知られる個所から、「愛がなければ」と題し、御言葉を聞いていきます。
パウロは12章終わりの31節でこのように言います。「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。」
パウロは私たちが賜物を欲することやそれを得るために祈り努力することを否定していません。むしろ積極的にそれらを求めるように促します。
そのうえでパウロはコリントの信徒たちに向け、1~3節「わたしが異言や天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかなしいシンバル、たとえ預言する賜物を持ち、あらゆる神秘と知識に通じていようとも、たとえ山を動かすほどの完全な信仰をもっていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしは何の益もない」と述べます。
「愛がなければ何の益もない」。パウロは「愛」のない状態を「騒がしいどら」や「やかましいシンバル」にたとえます。
ずっと以前関西地方教会連合の信徒大会で講演者が「騒がしいどら」と「やかましいシンバル」の実演をされ、大きなどらをただ無秩序に打ち鳴らすまあそのうるささ、やかましさといったらなかったですが。
ギリシャの異教の神殿では当時そういうどらやシンバルを打ち鳴らして悪霊を追い出す儀式、そのようなことが行なわれていたようです。
真の神さまを知るパウロにとってそれらはやかましいただの騒音に過ぎなかったんですね。同様に異言や天使の異言を語るという賜物が与えられた人も、異言は言葉にならない祈りや嘆き、そして讃美を聖霊がうめきをもってとりなして下さるその言葉でありますから、そもそも神の恵み以外の何ものでもないわけです。ですからそれを受けたから本物のクリスチャンになったとか、受けなければ半人前などと言うことは全くないんですね。それは賜物の一つであって、それを誇ったり、人のことも全く考えないでやみくもに用いてそこに「愛がなければ」、やかましいだけのどらやシンバルに過ぎない、人の耳を疲れさせる騒音に過ぎなと言っているのです。
パウロは又、「預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていたとしても、愛がなければ、無に等しい」と言います。
今日も有名な伝道者やいろんな賜物を与えられた人を呼んで大集会を開き、大勢の人が集まったりしますが。そういった人の前でたいてい臆したり、畏敬の念を持ったりするでしょう。
ところが、そのように偉大に見られるその人の働きや業も、もしそこに「愛がないならば無に等しい」と言うのです。
マタイ7:21-23で、イエスさまはおっしゃいました。「かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』というであろう。そのとき、わたしはきっぱりこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』そうしてイエスさまは「主よ、主よと言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」と言われたのです。
この神の御心とは「み子を信じる者が一人も滅びないで永遠のいのちに与ること」であります。その神の愛、神の願いに応え、その愛に根ざした行為でないなら、主はそのような者は知らないと言われるということであります。
さらにパウロは、「たとえ自分の全財産を投げ打って救済のため使い尽くそうとも、殉教の犠牲さえも、愛がなければ、わたしに何の益もない」と言います。
これらの行いは世に称賛される行為のように思うのですが。しかしその動機が、もし自分の栄誉や誇りのためなされ、そこに愛がないなら、神の前にわたしは何の益もないと言うのです。自己満足や自己完結型の行為はむなしいものだというのです。
4節以降においては、その「愛」のもつ特性について述べられてます。
よく言われるのは、この愛のところに「自分の名前」を入れて読んでみるとよく自分のことが分かるということです。
たとえば、私・・・は忍耐強い。私・・・は寛容だ。私・・・は情け深い。私・・・はねたまない。自慢しない。高ぶらない。ああ、なんか「歯」が浮いてくるような思いにさせられますがどうでしょうか?そのように生きていきたいとは願うものでありますが。
しかしそれら愛の特性は、どちらかといえば目立たず地味な、時代遅れと思われるような言葉です。
ここで特に心に留まりますのは、「愛は忍耐強い」口語訳は寛容で始まり、「すべてに耐えること」で終っている点であります。
ここでいう愛とは単なる感情ではなく、自分にとって怒りや憤りを覚えること、或いは面倒くさいようなこと、嫌なこと、苦しいことまでも相手のために引き受け、耐え忍んでいく意志なのです。
教会にせよ、社会生活にせよ、神の御心を行ない生きるとは、「寛容」と「慈愛」、そして「忍耐」という具体性をもった愛に生きるということなのですね。
ただ、だからといってそれがすべての悪をそのまま容認するとか、悪に妥協するということではないんですね。それならば愛でなく不義であります。
「愛は不義を喜ばず、真実を喜ぶ」とあるとおり、間違ったことには否と、正します。愛は真実と共にあり、その真実を追い求めることで悪は捨てさられるのです。
パウロはローマの信徒への手紙5章8節でこのように言っています。
「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」
この神の正しさ(義しさ)、この神の愛を受けているものにふさわしく生きていきたいと願うものであります。
さてその「忍耐強い」に続く「愛」のもつ個々の特性について、ねたまない、高ぶらない、礼を失せず、恨みをいだかないなどの項目が列挙されていますが、これらは実際にコリントの教会の分裂を引き起こした人々の悪徳であったのでしょう。
愛の特性とは、これとは正反対の「心の狭さ、冷淡、ねたみ、高ぶり、自慢、不作法、自己中心、いらだち、恨み、不義、短気、不信、あきらめ」などが人々の間で膨らんでいたということでしょう。
イエスさまは良いパン種と悪いパン種の話をされましたが。
良いパン種、すなわちキリストの愛に根差した言葉は私たちの間に天国の喜びをもたらし。一方悪いパン種、すなわち反キリスト的言葉、先の愛のない言葉ですが、それは人の間で不満と混乱を生じさせるのです。
じゃあここを読んで愛の特性がよくわかった、さあそれを行おう、そのように生きてゆこう、と考えてそのように実際過ごせるかというと、先ほどこの「愛」のところに自分の名前を入れて読んでみてもお分かりのように、なかなかそうはいかない。私たち自身のうちにもコリントの信徒たちが抱えていたような弱さや欠けたる面があるということに気づかされます。
私たちは生きていく中で、身近に親子愛、家族愛、又学生時代や思春期においては友だちや親友ができていく友愛を知るでしょう。さらに恋愛があり、社会の一員となっていくなかで隣人愛を培われるということがあるわけです。私たちはそういう様々な愛を受け合いながらともに生き、生かされているといえます。
けれども私たちの愛は燃え上がることはあってもずっと持続していくことが出来るかというと悲しいかなそうではありません。
状況や事態が変わってしまうといく愛情が薄れたり、泡のように消えてしまうものです。
私たちの愛情で次元が高いともいわれている親が子を思う愛情でさえも、無償の愛とはいいきれず、どこか親も子に自分の思いや願いを押し付けにしながらの愛情であったりいたします。どんな人間の愛もエゴや自我の思いが混ざり込んだ愛であるのです。
それに対してパウロは8節~13節で、神の愛、ギリシャ語で「アガペー」の不変性について述べます。
私たち人間の愛は友愛;フィリアレや性愛:エロスというものですが。13章に記されている愛は、実にすべてが「アガペー」で記されている神の愛なのですね。
ですから今日のところは正しくは「神の愛がなければ、わたしは騒がしいどら」「神の愛がないければ無に等しい」「神の愛がなければ何の益もない」、さらに「神の愛は忍耐強い」、そして「神の愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう」と「神の愛は永久に存続する」ということが言われているのです。
たとえ自分の中に「愛があります」などといえる者でなかったとしても、「神の愛」を頂いている者として、その最高の道を求めて生きることはできます。その福音の喜びの中で価値ある愛に生きるものでありたいものです。
私たちはたとえどのような賜物を与っているにせよ、それらはみな一時的なものであり、限界があるということを知る必要があります。
今この時与えられていても、明日それがあるかどうかは分りません。健康も財も時間も能力も同様です。だからこそ今与えられている賜物をもって、神から愛を受けているその喜びを知る者にふさわしくそれらの賜物を用いるということが大切です。
私どもはパウロが言うように「土の器」であり、欠け多い者、もろさを持つ者でありますけれども、その土の器に愛なるキリストが入って戴くことによって、この土の器が尊い主の器としてゆたかに用いられていくのです。
私たちそれぞれに与えられた種々の賜物、預言や異言や知識はじめ諸々の賜物は、前の12章27~31節にあるようにキリストの救いを証し、福音を共有するための道具に過ぎないのです。それらは神の愛を私たちが益々深く知り、証しされていくための神の手段に過ぎないのです。
パウロはそのことを10節で「完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう」と述べているのです。
パウロはそれを「鏡」の前に立つ人にたとえています。
「わたしたちは、今は鏡におぼろげに映ったものを見ている。だが、そのとき(10節;完全なものが来たとき)には、顔と顔とを合わせて見ることになる。今は一部しか知らなくとも、その時には、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」
この時代の鏡は銅製のものが中心で、その映りは完全でなくおぼろげであったと言われます。
どんな賜物をもってしても、今は神の栄光の一部分しか映しだすことができない。
しかし必ず、かの日には完全なものが来る。神の愛の実体であられる主イエスと顔と顔とをはっきり合せる日が来る。その日を望みながらもっとも優れたる道、神の愛、アガペーの愛に生きていくようにとパウロは勧めます。
いつの日にか何の業もできない時、出来なくなる日が来るでしょう。その時、私の中に何が残っているか。それが問題です。それは私が何によって生き、働いてきたかが明らかになる時であります。
それゆえに13節「信仰と、希望と、愛、この3つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」
私たちにとって、信仰と希望と愛、それらはどれも尊いものであります。
「信仰」とは、ヘブライ書11章に「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と記されています。この信仰は人を救います。信仰なしに神の国に入ることができません。
又「希望」は生きる力と勇気を与えます。この地上において様々な苦しみや悲しみはつきませんが、永遠のいのちと天のみ国での報いに対する希望が私たちには与えられています。しかしこの信仰と希望はこの地上にいる間のものです。地上の生活を終えれば、主と顔と顔とを合わせるのですから、見えないものを信じてきた信仰の生活は終わりです。又もう望んでいた主のもとに与れるのですから、希望は叶ったということでこれもある意味終ります。
けれども、愛は違います。神の愛は永遠に存続するのです。
パウロはこの3つの中で「愛を最も大いなるもの」と示します。
私たちはこの神の愛によって、地上に生き生かされ、一日一日を神と人を愛し、天の国の喜びにつながって生きていきます。
今日はそのようにこのところを読んでまいりまして気づく事は、この愛というのは、十字架と復活を通して永遠のいのちを賜った「主イエス・キリストご自身」であり、私たちはこのお方の愛を内に頂いて、共にこの主の愛を分かち合って生きるよう召されているということです。
「信仰と希望と愛、この3つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」
今週も神の愛に満たされて「世の光、地の塩」としてまたここからそれぞれの場へ遣わされてまいりましょう。
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