クリスマス礼拝宣教 ルカ2章1-20節 歳晩礼拝
メリークリスマス、救い主イエス・キリストのご降誕を心よりお祝い申しあげます。
巷では11月頃からクリスマスソングが流れ、ツリーやきらびやかなイルミネーションで飾られて、クリスマスセールなどと、教会よりも早くからわきかえっていましたが。
私たちの教会では11月27日からアドベントを守りながら本日こうしてクリスマス主日礼拝を迎えました。「神の愛と救い」が肉をとって世に現された。この世界に与えられる大きな喜びの知らせのために用いられた二人の女性、マリアとエリサベトを通して、私たちも神の救いを黙想してまいりましたが。
先週は身重のマリアが、親類のエリサベトを訪ねたところから御言葉を聞きました。
エリサベトが聖霊に満たされ「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、何と幸いでしょう」と言うと、マリアは「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださった」と、主をあがめ、喜びたたえました。
エリサベトも子どもができなかった苦しみから、一転して高齢で子どもを宿すという悩みを通る中で、「主は今こそ、こうして、わたしに目を留めてくださった」と主を賛美します。
二人はアドベントの期間を通して、世間や世の視線がどうであれ、救い主である主がこの「わたしたちに目を留めてくださっている」ことを共に確信していったのですね。
今日も私たち一人ひとりに目を留めて下さる救いの主を共に覚えつつ、「キリストは飼い葉桶の中に」と題し、クリスマスのメッセージを聞いていきたいと思います。
「救い主・キリストの誕生」
ヨセフとマリアはベツレヘムで住民登録をするためにガリラヤのナザレを出立します。
距離的にはおよそ100キロ以上の道のりです。その道は小高い丘が幾つも連なっていて、山あり谷ありで道路など整備されておりません。マリアは臨月で子どもがいつ産まれてもおかしくなかったという状態でしたから、彼らにとってそれはもう想像を超えるような険しい道のりであった事でしょう。そうしてようやくベツレヘムの町に入るや、マリアは出産の時を迎えるのであります。
聖書はそれを、「マリアは月満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶の中に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」と簡潔に記しています。
それは住民登録のために町に来た多くの人々がごったがえす中で、彼らの泊る場所はなかったということです。しかし、これは単に宿泊所が不足していたというのではなく、神の救い、主イエス・キリストが世に来て下さったというのに、世の人々に受け入れる余地がなかったということです。それは現代における経済や効率性を第一に優先させていくような社会の中で、大人から子ども迄が能力主義や競争に追いたてられ、ともすれば我を失う程になっている状況と重なるように思えます。
この神の救いである主イエスさまが、そのような世の人びとの慌ただしさ、生活のただ中に、あえておいでになったという事実は、まことに感慨深いものがあります。
このクリスマスの時に、より多くの方が、慌ただしさの中にも立ち止まり、神の救いを見出す機会を得ますようにと願います。
又、「宿屋には彼らの泊る場所がなかった」理由がほかにも考えられます。
ベツレヘムは婚約者ヨセフのお里であります。親戚や知り合いも住んでいたはずです。
これは恐らく結婚前のマリアが身重になったということが何らかのかたちで親戚や知人の耳に入り、当時としては大変なゴシップ、親族の恥というような事として、だれも彼らを家に迎え入れる者がいなかったということもありえます。
いずれにしてもマリアとヨセフは世間から顧みられない、もっといえば疎外されたような中、家畜小屋で救い主のイエスさまを産むのです。
一体だれが想像したでしょうか。神の御子、救い主メシアがこういう世間の片隅で、しかも飼い葉桶という動物の食べるほし草をベットにするなどと。
しかし、それが神さまのご計画なのです。主の御業は、世から疎外され、軽んじられ、顧みられないような人のところに自らお降りになられ、そこから救いがはじまっていくのです。そうして十字架に至っては人間のどん底にまでお降りになる。その事によって全ての人に向けられた贖いの業が成し遂げられるのです。
さて、クリスマスの良き知らせが最初に届けられたのが羊飼たちでした。
この当時の羊飼は、家もなく年中羊と共に生活していたため、安息日も守ることができません。町で豊かに暮らす人たちからすれば体裁も汚らしく、悪臭がするということで蔑(さげす)まれ、公の裁判の証人にもなることができませんでした。そのように彼らは社会にあって様々な差別や偏見を受け、社会から孤立した生活をせざるを得なかったのです。
その羊飼いたちのもとに天使が現れ、「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」と、神の御子・救い主が「あなたがたのためにお生まれになった」。このような「あなたがたのために」という驚くべき知らせが届けられるのですね。
ユダヤの町の人々は思っていたでしょう。「神の救いの祝福は彼らに果たしてあるのだろうか?」
けれども神の救いの知らせが、社会から軽んじられているような羊飼いたちのもとに真っ先に届けられるのです。実に神さまは、この喜びの知らせを全身全霊で受けとめるのはだれかを知っておられるのです。
もし救い主、キリストが王宮や神殿の中でお生まれになったとしたなら、彼らはそのお姿を決して見る事も拝する事もできなかったでしょう。彼らは相変わらず隔ての壁の外におかれたまま、この知らせを聞くこともなかったでありましょう。
しかし神さまの救いのご計画は、救い主がきらびやかな王宮や神殿にではなく、キリストは飼い葉桶の中にお生まれになり、家など持たなかった羊飼いから始まっていくのです。
羊飼いも、ヨセフもマリアも彼らには居場所がありませんでした。しかし、神の救いこそ彼らの真の居場所でした。居場所があるというのは単に立派な建物や家・ハウスがあるということではありません。いくら立派な建物や家があっても居場所がないという人も現代の社会に多いのではないでしょうか。この飼い葉桶にお生まれになったキリストなる救い主を拠り所にする者に神はご自身を顕されるのです。
羊飼いたちは、神の救いが薄暗い家畜小屋、その飼い葉桶の中に寝かされた乳飲み子によって実現されることを信じることができました。この私たちと共においで下さるという神のメッセージを、そこに見出したからです。真の平和、平安を彼らはそこに見たからです。
今年の恒例の一文字が決まりましたね。「戦(いくさ)」、戦いの「せん」です。戦は国や民族の戦争に限らず、私たちの身近な所や私たちの心の内にも起こります。世の戦いは力や武力をまとわせ従わせようとしますが。そこに起こるのは不安と恐れです。ところが、神の大軍は「平和」を歌い、それを実現なさる神を賛美します。力や武力でなく、生まれたての乳飲み子を取り巻く人々によって「平和」を顕されます。そこに起こされるのは「平安と安らぎ」、そして「喜び」です。
さらに、飼い葉桶に寝ている乳飲み子のキリストの周りには人間だけでなく、家畜の動物たちもいたのではないでしょうか。クリスマスの時節にはイザヤ書11章が必ず読まれるのですが。その「平和の王」の到来とその統治の預言に次のような言葉が出てまいります。
その平和の王の統治下では、「狼は小羊と共に宿り、豹は小山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。」と語られているのです。
現代の弱肉強食の社会とはなんと対照的な平和な光景でしょうか。
先週の火曜日のことですが、ペットとして13年間一緒に暮らした犬の のあくんの息を神さまが引き取られました。私たちは家族3人でその光景をみることが出来ましたが。その時私たちの口から出たのは、「ありがとう。ありがとう。ありがとう。」という言葉でした。さすがに寂しくもありますが。なんて平和な光景であっただろうかと、今は想えます。我が家に迎え入れて一緒に過ごした時も、ああして最期の息を引き取った時も、今思い出す時にも、いつも主が共におられるからです。
救い主であられるキリストが飼い葉桶の乳飲み子の姿でおいで下さった。その弱々しく見えるけれども、暖かい光に満ちた世界はなんと優しくも確かで、主が共におられる平安に満ちていることでしょうか。
「主の恵みに満たされた羊飼い」
さて、大きな喜びに満ち溢れた羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムに行こう。主が知らせてくださった出来事を見ようではないか」と話し合った後、「急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた」とあります。
一刻も早く救い主にお会いしたいという期待に胸ふくらませた思いが伝わってくるようです。
羊飼いたちは、「見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」しかしそれだけでは終わりません。神の救いをいわば身をもって体験した彼らは、「この幼子(救い主)について天使が話してくれたことを人々に知らせ」て廻るのです。
救いの知らせを先に受取った羊飼たちは、民全体に与えられたこの大きな喜びの知らせを告げ知らせるべきだと、すぐに行動したのです。
彼らは町の人々から日頃は差別や偏見を受け、疎外されてきました。にも拘わらず彼らはその町の中に入り、人々に「大きな喜びの知らせを伝えた」のですね。多少は気が引けたかも知れません。町の人が自分たちの言うことを信じてくれるだろうかという考えが頭をよぎったかも知れません。けれど、神さまの驚くばかりの恵みを体験し、喜びと感謝にあふれていた彼らでしたから、もう伝えずにはいれなかったのでしょう。
「キリストの平和」に生きることができるように、このような新鮮な喜びに私どもも常に与らせていただきたいものです。
ところで、「それを聞いた町の人たちは皆、羊飼いたちの話を不思議に思った」とあります。彼らもやがて平和の君が現れて自分たちを救うのだとの預言を知ってはいたのです。その心の感性が鈍くなっていたため、ただの夢物語のようにしか聞こえなかったのでしょう。しかし福音の証しは確かになされたわけです。後は神さまの御業なのです。
大切なことは、神の救いを待ち望む人たちが遂にそれを見出し、大きな喜びに溢れ、神の救いを分かち合う日が訪れていく事であります。
その羊飼いの知らせが2000年という歳月を経て世界の国々に、そして私たち一人ひとりのもとに届けられているという事実に感謝し、主を賛美します。私たちもまた、この大きな喜びを携え、今週もそれぞれの生活の場へと遣わされてまいりましょう。2022年の歩みを感謝して。
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