礼拝宣教 創世記3章20-4章1節 (賛美と証しの集い・青年会主催)
先週の箇所は、神の平安が満ちるエデンの園の中央の2本の木。「善悪の知識の木」と「命の木」のうち、食べてはならないと言われていた「善悪の知識の木」の実を蛇、これは祝福の神との関係をねたみ、神のみもとから引き離そうとする働きですが、その蛇に唆された女が食べ、アダムもそれを食べてしまった。そのことのゆえに、創造主なる神さまと人との信頼関係が大きく損なわれるような出来事が3章には記されていたわけですが。こうして神のみ顔を避けて身を隠す者となった彼らを、主なる神は憂い、惜しまれます。神さまは全きお方です。彼らは聖なるお方を前に審きを受けなければなりませんでした。
主なる神はまず蛇に向けて裁きを言いわたされ、次に女に産みの苦しみ、そしてアダムに労働の苦しみを告げます。さらに、人はみな死すべき者として「塵に返る」ことが告げられます。
今日の23節を読みますと、神はアダムと女をエデンの園から追い出したとございますが。この「追い出した」の元の原語は、非常に強い調子で「追いだした」ということであります。
そのように彼らをエデンの園から「追い出した」理由について、主なる神は22節で次のように言われます。
「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある」。そして24節には、神は「こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた」と。
彼らが神の言葉に背く前においては、「命の木」と「善悪の知識の木」が園の中央にあり、人はそのどちらかを選ぶ自由がありました。
今日の時代も同様だと思うのですが。私たちは善悪を知らされている中で、どちらを選択して生きていくかは、その人自らが選び取っていくことですよね。
この2人は、神の言葉に背いて、死んではいけないから決して食べないように、と命じられていた「善悪の知識の木」の実を取って食べてしまいました。
神さまは、もはやそうなってしまった「今や」、罪の人である彼らが、神になり代わって善悪を決め、遂にエデンの園の聖なる命の木までもぎ取って食べ、背きのままに生きながらえようとする事を、強く危惧なさったのであります。
まあ、近代科学は不老不死の領域にまで近づいていると言われてもいますが。その一方で、核の脅威や戦争の火種が未だに絶えない世界の現況をおもう時、創世記は単なる寓話とはいえない、とつくづく思うものですが。
さて、本日の20節には「アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべての命あるものの母となったからである」と記されています。
アダムは神に「塵にすぎないお前は塵に返る」(19節)。つまり死ぬべき者にすぎない、と告げられたにも拘わらず、妻である女に、「命」エバと名付けたというのであります。
そして、その様子を主なる神さまはご覧になっていたのでしょう。
21節にあるとおり、「アダムとエバに皮の衣を作って着せられた」というのですね。これからエデンの園から離れ過酷な地において生きていかねばならない彼らのために、主なる神さま自ら皮の衣を作り、それを二人に着せられた。そこに神さまの「義」と共に深い「慈愛」を知らされる思いがいたします。
背信の罪を犯し自らを恥じる彼ら。善悪を知って、ああ自分は裸だ、と気づいた彼らを、
自ら作った皮の衣で包んでくださる神さまの愛。それはまさしく今、新約聖書の時代に生きる私たちにとりましては、アダムとエバではありませんが、神に背き背を向け、犯し続けた罪を悔いる者に、その弱さと恥を示す裸を覆う衣、すなわちイエス・キリストの救いという衣を着せ、罪を覆ってくださる主なる神さまの愛なのであります。
アダムとエバが神に犯した罪は決して消えるものではありません。しかし、主なる神はその彼らを憎んではおらません。むしろ、人のもつ弱さやもろさを包み込むようにして、その慈愛をもって、彼らをエデンの園から送り出しているのであります。
創造主なる神さまの義と愛。新約の時代に生かされる私たちは、ここに救いの十字架を見るものであります。
以前使用していました日本基督教団出版局の「讃美歌262番」。私の愛唱讃美歌の一つでもありますが。その1節にこういう歌詞がございます。「十字架のもとぞ いとやすけき、神の義と愛の あえるところ、あらしふく時の いわおのかげ、荒野のなかなる わが隠れ家。」
さて、今回私はこの箇所を読んでいて、新たにハッと気づかされたみ言葉がございました。それは4章1節の「彼女は身ごもってカインを産み、『わたしは主によって男子を得た』と言った」というところです。
彼女は、先週の3章の箇所で、神のみ言葉に背いて罪を犯します。そして、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてくると、御顔を避けて、身を隠しました。
罪を嘆き、恐れと不安、後ろめたさ等、怒濤のごとく様々な感情が襲い迫り、怖じ惑う姿がそこに描かれています
その同じ彼女が、今日のこのところではどうでしょうか。「わたしは主によって男子を得た」と、言うんですね。「主によって」と。それは信仰の賛美の言葉に他なりません。
彼女は主によって命を与えられるという経験を通して、主を見上げ賛美する者に変え
られたのですね。まぎれもなく確かに。に証し、伝えているのです。
礼拝の最初に招詞として、イザヤ書61章3節が読まれましたが。
このイザヤ書61章1節は、実に主イエスが宣教を開始されるにあたって会堂でお話な
さった箇所です。「主はわたしに油を注ぎ 主なる神の霊がわたしをとらえた。わたし
を遣わして 貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み 捕わ
れた人に自由を つながれている人には解放を告知させるために」。
その3節が今日礼拝の招きのことばとして読まれました。
「シオンのゆえに嘆いている人々に、灰に代えて冠をかぶらせ、嘆きに代えて喜びの香
油を、暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために」との御言葉であります。
まさに、エデンの園を追われ、労苦を身に負った彼女がここで、「命を与えてくださる
のは主であり、主こそ命の主である」ことを身をもって経験して、「賛美の衣」を身に
まとう者となった。そのことがここに記されているのですね。
罪のゆえにもはやエデンの園から出て行かざるを得なかった人間、それはこの地上に生きる私たちでもあります。その私たちに主なる神さまは、今や、イエス・キリストを通して「命の衣」を着せてくださいました。
イザヤ書61章10節にもこうございます。「わたしは主によって喜び楽しみ わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ 恵みの晴れ着をまとわせてくださる」。アーメンです。
罪あるまま、足らざるまま、欠け多き私たちを、御前に立ち返って生きるものとしてく
ださる。今日も主なる神さまは、罪を贖う義と愛の衣、主イエスの十字架の義と愛によ
る贖いをもって、神と人、人と人との関係回復へと導いて下さっています。この愛に応
えて生きる私たちでありたいと切に願うものです。今日の賛美礼拝もそのメッセージを
かみしめながら、この後も心から主を賛美いたしましょう。
おわりに、聖書の一番最後にあるヨハネ黙示録の22章14節をお読みします。
「命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである」。今週もここから、それぞれの場へと遣わされてまいりましょう。
先週の箇所は、神の平安が満ちるエデンの園の中央の2本の木。「善悪の知識の木」と「命の木」のうち、食べてはならないと言われていた「善悪の知識の木」の実を蛇、これは祝福の神との関係をねたみ、神のみもとから引き離そうとする働きですが、その蛇に唆された女が食べ、アダムもそれを食べてしまった。そのことのゆえに、創造主なる神さまと人との信頼関係が大きく損なわれるような出来事が3章には記されていたわけですが。こうして神のみ顔を避けて身を隠す者となった彼らを、主なる神は憂い、惜しまれます。神さまは全きお方です。彼らは聖なるお方を前に審きを受けなければなりませんでした。
主なる神はまず蛇に向けて裁きを言いわたされ、次に女に産みの苦しみ、そしてアダムに労働の苦しみを告げます。さらに、人はみな死すべき者として「塵に返る」ことが告げられます。
今日の23節を読みますと、神はアダムと女をエデンの園から追い出したとございますが。この「追い出した」の元の原語は、非常に強い調子で「追いだした」ということであります。
そのように彼らをエデンの園から「追い出した」理由について、主なる神は22節で次のように言われます。
「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある」。そして24節には、神は「こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた」と。
彼らが神の言葉に背く前においては、「命の木」と「善悪の知識の木」が園の中央にあり、人はそのどちらかを選ぶ自由がありました。
今日の時代も同様だと思うのですが。私たちは善悪を知らされている中で、どちらを選択して生きていくかは、その人自らが選び取っていくことですよね。
この2人は、神の言葉に背いて、死んではいけないから決して食べないように、と命じられていた「善悪の知識の木」の実を取って食べてしまいました。
神さまは、もはやそうなってしまった「今や」、罪の人である彼らが、神になり代わって善悪を決め、遂にエデンの園の聖なる命の木までもぎ取って食べ、背きのままに生きながらえようとする事を、強く危惧なさったのであります。
まあ、近代科学は不老不死の領域にまで近づいていると言われてもいますが。その一方で、核の脅威や戦争の火種が未だに絶えない世界の現況をおもう時、創世記は単なる寓話とはいえない、とつくづく思うものですが。
さて、本日の20節には「アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべての命あるものの母となったからである」と記されています。
アダムは神に「塵にすぎないお前は塵に返る」(19節)。つまり死ぬべき者にすぎない、と告げられたにも拘わらず、妻である女に、「命」エバと名付けたというのであります。
そして、その様子を主なる神さまはご覧になっていたのでしょう。
21節にあるとおり、「アダムとエバに皮の衣を作って着せられた」というのですね。これからエデンの園から離れ過酷な地において生きていかねばならない彼らのために、主なる神さま自ら皮の衣を作り、それを二人に着せられた。そこに神さまの「義」と共に深い「慈愛」を知らされる思いがいたします。
背信の罪を犯し自らを恥じる彼ら。善悪を知って、ああ自分は裸だ、と気づいた彼らを、
自ら作った皮の衣で包んでくださる神さまの愛。それはまさしく今、新約聖書の時代に生きる私たちにとりましては、アダムとエバではありませんが、神に背き背を向け、犯し続けた罪を悔いる者に、その弱さと恥を示す裸を覆う衣、すなわちイエス・キリストの救いという衣を着せ、罪を覆ってくださる主なる神さまの愛なのであります。
アダムとエバが神に犯した罪は決して消えるものではありません。しかし、主なる神はその彼らを憎んではおらません。むしろ、人のもつ弱さやもろさを包み込むようにして、その慈愛をもって、彼らをエデンの園から送り出しているのであります。
創造主なる神さまの義と愛。新約の時代に生かされる私たちは、ここに救いの十字架を見るものであります。
以前使用していました日本基督教団出版局の「讃美歌262番」。私の愛唱讃美歌の一つでもありますが。その1節にこういう歌詞がございます。「十字架のもとぞ いとやすけき、神の義と愛の あえるところ、あらしふく時の いわおのかげ、荒野のなかなる わが隠れ家。」
さて、今回私はこの箇所を読んでいて、新たにハッと気づかされたみ言葉がございました。それは4章1節の「彼女は身ごもってカインを産み、『わたしは主によって男子を得た』と言った」というところです。
彼女は、先週の3章の箇所で、神のみ言葉に背いて罪を犯します。そして、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてくると、御顔を避けて、身を隠しました。
罪を嘆き、恐れと不安、後ろめたさ等、怒濤のごとく様々な感情が襲い迫り、怖じ惑う姿がそこに描かれています
その同じ彼女が、今日のこのところではどうでしょうか。「わたしは主によって男子を得た」と、言うんですね。「主によって」と。それは信仰の賛美の言葉に他なりません。
彼女は主によって命を与えられるという経験を通して、主を見上げ賛美する者に変え
られたのですね。まぎれもなく確かに。に証し、伝えているのです。
礼拝の最初に招詞として、イザヤ書61章3節が読まれましたが。
このイザヤ書61章1節は、実に主イエスが宣教を開始されるにあたって会堂でお話な
さった箇所です。「主はわたしに油を注ぎ 主なる神の霊がわたしをとらえた。わたし
を遣わして 貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み 捕わ
れた人に自由を つながれている人には解放を告知させるために」。
その3節が今日礼拝の招きのことばとして読まれました。
「シオンのゆえに嘆いている人々に、灰に代えて冠をかぶらせ、嘆きに代えて喜びの香
油を、暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために」との御言葉であります。
まさに、エデンの園を追われ、労苦を身に負った彼女がここで、「命を与えてくださる
のは主であり、主こそ命の主である」ことを身をもって経験して、「賛美の衣」を身に
まとう者となった。そのことがここに記されているのですね。
罪のゆえにもはやエデンの園から出て行かざるを得なかった人間、それはこの地上に生きる私たちでもあります。その私たちに主なる神さまは、今や、イエス・キリストを通して「命の衣」を着せてくださいました。
イザヤ書61章10節にもこうございます。「わたしは主によって喜び楽しみ わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ 恵みの晴れ着をまとわせてくださる」。アーメンです。
罪あるまま、足らざるまま、欠け多き私たちを、御前に立ち返って生きるものとしてく
ださる。今日も主なる神さまは、罪を贖う義と愛の衣、主イエスの十字架の義と愛によ
る贖いをもって、神と人、人と人との関係回復へと導いて下さっています。この愛に応
えて生きる私たちでありたいと切に願うものです。今日の賛美礼拝もそのメッセージを
かみしめながら、この後も心から主を賛美いたしましょう。
おわりに、聖書の一番最後にあるヨハネ黙示録の22章14節をお読みします。
「命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである」。今週もここから、それぞれの場へと遣わされてまいりましょう。
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