礼拝宣教 ヨハネ黙示録1章1-8節
先週は主イエスの復活を祝うイースターをともにすることができ本当に感謝でありました。イエスさまの福音は弟子たちを通して証しされ、主の約束の聖霊降臨によって教会が誕生し、今日に至るわけですが。こうして世界中に主の救いの福音が伝えられるまでには、多くの迫害と人としての過ちの歴史がありました。そのような時代の中で主はどのように歴史に介入されたのか。信徒らはどう応えて生きたのか。今の混迷の時代に生きる私たちも、このヨハネの黙示録から、主の語りかけに信仰の思いをとぎすませていきたいと願っております。
このヨハネの黙示録の書かれた時代は、ローマ帝国の支配とその強い影響下のもとにありました。信徒たちにとって主イエスの信仰を保って生きることは厳しく、困難極まりない状況にありました。殊にローマのドミティアヌス皇帝の折には皇帝崇拝が強いられ、クリスチャンたちは「カイザルかイエスか」を問われて苦しんだのです。そのような厳しい迫害の中で主はこのような啓示をお与えになったということであります。
ここでヨハネは、「今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる7つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者」(4-5)とイエスさまを言い表していますね。それは主こそが真にすべての時を権威をもってすべ治めておられる方であることを示しています。世の権力や苦難の時は必ず終わりがあるという信徒たちへの励ましが、ここに語られているんですね。このように主は私たちの苦しみの時にも今ここにおられる。かつてそうであったように、やがて主権をもってすべ治めてくださる時が必ず訪れる。それは私たちへのエールでもあります。
さて、ヨハネは当時パトモス島におりましたが、それは彼がパトモスに伝道するために行ったのではなく、「神の言葉とイエス・キリストの証し」をなすがゆえに流刑されていたのです。彼は2節のところに、「すなわち、自分の見たすべてのことを証しした」とありますように、かの地で神の霊に導かれ、示されたすべてのことを記録し、主が命じられたとおりに7つの小アジアの教会に手紙を書き送ったのです。それがこのヨハネの黙示録なのであります。
まあ「黙示録」と聞きますと、一昔前はノストラダムスの大預言だとか、あるいはここに記されている幻や数字を殊さらとりたて、怪しげなミステリーとして扱われ、何かと得体の知れない不気味なものとして世間では思われがちかも知れません。又、14章の「14万4千人」ということを強調して、「天国に行ける人は予め決まっているから」と勧誘するカルト的な教団もございます。しかしそれらは迫害の目をくぐり抜け、信徒らにメッセージが届くための工夫でもあり、人をいたずらに脅すために書かれたものではないんですですね。
このヨハネの黙示録の中心テーマは、1章の冒頭に記されていますように、「イエス・キリストの黙示」であります。この「黙示」と訳されたギリシャ語原語「アポカリュプシス」は、アポという「取り除く」という動詞と、カリュプシスという「覆っているもの」という名詞の合成語で、「覆っているものを取り除く」という意味です。ですから得体の知れない荒唐無稽なものではなく、むしろそれは旧約聖書の預言者を通して啓示されてきたその覆いが取り除かれて、今やイエス・キリストを通して人類の救いが露わにされたことを明らかにする証言なのです。そういうことで、このヨハネの黙示録は、イエス・キリストが世の罪を取り除く神の小羊として来られ、十字架の苦難と死を通って人の罪を贖い、復活なさった主であることが証しされている書なのであります。
同時にこの書は、過ぎ去った過去のことではなく、与えられたその救いの信仰を守り、忠実に生きる者にとっては、今も生きて働く神の言葉なのです。やがて来られるお方とその全き日の到来を今日の私たちもともに待ち望みつつ、この書を読むことが重要であります。
私はこの今日の1章3節の「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記さ
れたことを守る人たちは幸いである。時が迫っているからである」という言葉の中に
3つの大事な勧めが語られていると思います。
信仰の自由が保証されている今の私たちであっても、程度の違いこそあれ、世の思い
との葛藤や様々な妨げに遭う経験をすることがあります。そういう中で私たちが如何に主の御救いと平安に満ちた信仰者として保たれ、生きていくか。ここにはそのための有効な勧めが語られています。
まずその一つは、「預言の言葉を朗読する」ということです。
これは公の礼拝の場で神の言葉・御言葉が読まれることの大切さが示されています。
当時は今こうして私たちが一人ひとり聖書が持てるような時代ではありませんでしたから、個々人で聖書を読むことはできません。ですからみな会堂に集い、そこで聖書の言葉(当時は旧約聖書)が朗読されることが必要だったわけです。しかし今こうして礼拝するために一つの場所に集う中で読まれることの大切さは変りありません。
個人個人で読んだり、黙想してのデボーションは大切なことですが、主イエスに連なる教会で共に読むことの拡がりとゆたかさは格別です。自分の独断や先入観で聞いていた御言葉が、礼拝や聖書の学びを通して、単なる知識に終わらず、時に適った新しい響きをもって迫って来る。ともに集うことでそういった生きた言葉として体験されるわけです。この後の2章から諸教会に向けたメッセージが語られていきますように、教会は単なる建物や人の集まりではありません。神の救いが実現されていくことを信じ、主を仰ぎ見て行く群なのです。そこに教会で御言葉が朗読されていくことの意義があります。
二つ目は、「預言の言葉を聞く」ということです。
次の2章3章に続く7つの教会にあてた手紙において、主は再三「耳のある者は霊が諸教会に告げることを聞くがよい」とおっしゃているんですね。「聞く」ということは意識的に耳を傾けないとできないことです。御言葉が単に物語や昔のこととしてあるのではなく、自分に語られていること、私の、私たちのこととして聞き、受ける、傾聴することが大切です。そしてこの「聞く」ということは、三つ目の「聞いたことを「守る」」ということにつながります。
主イエスは御言葉を聞いて、それを「守り行うこと」の大切さを教えられました。「家と土台のたとえ」で「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」(マタイ7章24節以降)とおっしゃいました。又、ヤコブの手紙にはこうあります。「自由をもたらす完全な律法(イエス・キリスト)を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。」(ヤコブ1章25節)そのように御言葉に生きることこそが、様々な世の誘惑や妨げから自らを守っていくことになるのです。それは又、来るべき「神の時に備える」ということであります。御言葉を「朗読」し、その御声に「聞き」、それを「守る」。信仰者にとってのこれら3つの柱を思いますとき私は、へブル10章25節の御言葉を思い起こしました。
「ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。」ここにも、今日の箇所の「時が迫っている」と共通する「かの日が近づいている」という言葉が出てまいります。
人は元気で、差し迫る問題もない時には、いつまでも時間が続くように思えます。けれども必ずかの日はやってまいります。そしてその日その時は人には分からないのです。だからこそ1日1日を差し迫る貴重な時として捉え、いつ何時も主の前に立ち得る者として生きることが大事なんですね。
迫害の時代の中で、脅迫や暴力に遭い、恐れにおびえる日々に疲れ果て、信仰を見失いそうになる人も大勢いたことでしょう。個々人それぞれにそのようなた戦いがあったのです。そう言う中で、ともに集い、礼拝をささげることはどれ程大きな慰めとなったことでしょうか。御言葉を朗読する者と、これを聞いて守る人は幸いである、との言葉に彼らはどんなにか勇気と励ましを見出したことでしょう。
このヨハネの黙示録が記されて早や2000年が経ちました。今の世界状況、社会情勢もまた、終末の時の迫りを確かに感じるものです。しかし黙示録は滅亡や絶望を示すためのものではなく、今日もイエスを主と信じる者たちに、神の審きと救いが迫っているという「希望」を示す励ましの書なのです。
苦難の時代を耐え忍んだ初代教会の人たちに倣い、私たちも又、イエス・キリストのからだなる教会につながってともに神の言葉を読み、聞き、行って生きる。近づいている終末の時、主の来臨の日に備え、1日1日をそのようにイエス・キリストの証し人として生きていくことがほんとうに大事なのですよね。
今日の最後の8節の御言葉にこう記されています。
「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである』。」
先週のイースターの宣教において「主イエスは生きておられる」というお話をいたしました。主イエス・キリストは2000年前に私たちの姿となってこの地上に来られ、その死をもって救いの御業を成し遂げられました。そこから3日の後によみがえられ、天に上げられ、約束の聖霊が降ることで教会が誕生しました。私たちもその主の教会に働かれる聖霊を通して、「主は今も生きておられる」ことを知らされています。主はかつておられ、今おられ、同時にやがて来るべきお方であられるのです。
ヨハネの黙示録の時代の信徒たちは確かにその主が再び来られる時を目にすることはありませんでした。その後2000年の長い年月を経ましたが未だその時は訪れておりません。けれども主の来臨の日は必ずやって来きます。イエス・キリストはアルファ:初めから、オメガ:終りまですべ治めておられる私たちの主であられるのです。
それゆえに私たちもヘブライ人への手紙12章にあるとおり、「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら走り抜こうではありませんか。」今週もここからそれぞれの場所に遣わされてまいりましょう。
先週は主イエスの復活を祝うイースターをともにすることができ本当に感謝でありました。イエスさまの福音は弟子たちを通して証しされ、主の約束の聖霊降臨によって教会が誕生し、今日に至るわけですが。こうして世界中に主の救いの福音が伝えられるまでには、多くの迫害と人としての過ちの歴史がありました。そのような時代の中で主はどのように歴史に介入されたのか。信徒らはどう応えて生きたのか。今の混迷の時代に生きる私たちも、このヨハネの黙示録から、主の語りかけに信仰の思いをとぎすませていきたいと願っております。
このヨハネの黙示録の書かれた時代は、ローマ帝国の支配とその強い影響下のもとにありました。信徒たちにとって主イエスの信仰を保って生きることは厳しく、困難極まりない状況にありました。殊にローマのドミティアヌス皇帝の折には皇帝崇拝が強いられ、クリスチャンたちは「カイザルかイエスか」を問われて苦しんだのです。そのような厳しい迫害の中で主はこのような啓示をお与えになったということであります。
ここでヨハネは、「今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる7つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者」(4-5)とイエスさまを言い表していますね。それは主こそが真にすべての時を権威をもってすべ治めておられる方であることを示しています。世の権力や苦難の時は必ず終わりがあるという信徒たちへの励ましが、ここに語られているんですね。このように主は私たちの苦しみの時にも今ここにおられる。かつてそうであったように、やがて主権をもってすべ治めてくださる時が必ず訪れる。それは私たちへのエールでもあります。
さて、ヨハネは当時パトモス島におりましたが、それは彼がパトモスに伝道するために行ったのではなく、「神の言葉とイエス・キリストの証し」をなすがゆえに流刑されていたのです。彼は2節のところに、「すなわち、自分の見たすべてのことを証しした」とありますように、かの地で神の霊に導かれ、示されたすべてのことを記録し、主が命じられたとおりに7つの小アジアの教会に手紙を書き送ったのです。それがこのヨハネの黙示録なのであります。
まあ「黙示録」と聞きますと、一昔前はノストラダムスの大預言だとか、あるいはここに記されている幻や数字を殊さらとりたて、怪しげなミステリーとして扱われ、何かと得体の知れない不気味なものとして世間では思われがちかも知れません。又、14章の「14万4千人」ということを強調して、「天国に行ける人は予め決まっているから」と勧誘するカルト的な教団もございます。しかしそれらは迫害の目をくぐり抜け、信徒らにメッセージが届くための工夫でもあり、人をいたずらに脅すために書かれたものではないんですですね。
このヨハネの黙示録の中心テーマは、1章の冒頭に記されていますように、「イエス・キリストの黙示」であります。この「黙示」と訳されたギリシャ語原語「アポカリュプシス」は、アポという「取り除く」という動詞と、カリュプシスという「覆っているもの」という名詞の合成語で、「覆っているものを取り除く」という意味です。ですから得体の知れない荒唐無稽なものではなく、むしろそれは旧約聖書の預言者を通して啓示されてきたその覆いが取り除かれて、今やイエス・キリストを通して人類の救いが露わにされたことを明らかにする証言なのです。そういうことで、このヨハネの黙示録は、イエス・キリストが世の罪を取り除く神の小羊として来られ、十字架の苦難と死を通って人の罪を贖い、復活なさった主であることが証しされている書なのであります。
同時にこの書は、過ぎ去った過去のことではなく、与えられたその救いの信仰を守り、忠実に生きる者にとっては、今も生きて働く神の言葉なのです。やがて来られるお方とその全き日の到来を今日の私たちもともに待ち望みつつ、この書を読むことが重要であります。
私はこの今日の1章3節の「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記さ
れたことを守る人たちは幸いである。時が迫っているからである」という言葉の中に
3つの大事な勧めが語られていると思います。
信仰の自由が保証されている今の私たちであっても、程度の違いこそあれ、世の思い
との葛藤や様々な妨げに遭う経験をすることがあります。そういう中で私たちが如何に主の御救いと平安に満ちた信仰者として保たれ、生きていくか。ここにはそのための有効な勧めが語られています。
まずその一つは、「預言の言葉を朗読する」ということです。
これは公の礼拝の場で神の言葉・御言葉が読まれることの大切さが示されています。
当時は今こうして私たちが一人ひとり聖書が持てるような時代ではありませんでしたから、個々人で聖書を読むことはできません。ですからみな会堂に集い、そこで聖書の言葉(当時は旧約聖書)が朗読されることが必要だったわけです。しかし今こうして礼拝するために一つの場所に集う中で読まれることの大切さは変りありません。
個人個人で読んだり、黙想してのデボーションは大切なことですが、主イエスに連なる教会で共に読むことの拡がりとゆたかさは格別です。自分の独断や先入観で聞いていた御言葉が、礼拝や聖書の学びを通して、単なる知識に終わらず、時に適った新しい響きをもって迫って来る。ともに集うことでそういった生きた言葉として体験されるわけです。この後の2章から諸教会に向けたメッセージが語られていきますように、教会は単なる建物や人の集まりではありません。神の救いが実現されていくことを信じ、主を仰ぎ見て行く群なのです。そこに教会で御言葉が朗読されていくことの意義があります。
二つ目は、「預言の言葉を聞く」ということです。
次の2章3章に続く7つの教会にあてた手紙において、主は再三「耳のある者は霊が諸教会に告げることを聞くがよい」とおっしゃているんですね。「聞く」ということは意識的に耳を傾けないとできないことです。御言葉が単に物語や昔のこととしてあるのではなく、自分に語られていること、私の、私たちのこととして聞き、受ける、傾聴することが大切です。そしてこの「聞く」ということは、三つ目の「聞いたことを「守る」」ということにつながります。
主イエスは御言葉を聞いて、それを「守り行うこと」の大切さを教えられました。「家と土台のたとえ」で「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」(マタイ7章24節以降)とおっしゃいました。又、ヤコブの手紙にはこうあります。「自由をもたらす完全な律法(イエス・キリスト)を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。」(ヤコブ1章25節)そのように御言葉に生きることこそが、様々な世の誘惑や妨げから自らを守っていくことになるのです。それは又、来るべき「神の時に備える」ということであります。御言葉を「朗読」し、その御声に「聞き」、それを「守る」。信仰者にとってのこれら3つの柱を思いますとき私は、へブル10章25節の御言葉を思い起こしました。
「ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。」ここにも、今日の箇所の「時が迫っている」と共通する「かの日が近づいている」という言葉が出てまいります。
人は元気で、差し迫る問題もない時には、いつまでも時間が続くように思えます。けれども必ずかの日はやってまいります。そしてその日その時は人には分からないのです。だからこそ1日1日を差し迫る貴重な時として捉え、いつ何時も主の前に立ち得る者として生きることが大事なんですね。
迫害の時代の中で、脅迫や暴力に遭い、恐れにおびえる日々に疲れ果て、信仰を見失いそうになる人も大勢いたことでしょう。個々人それぞれにそのようなた戦いがあったのです。そう言う中で、ともに集い、礼拝をささげることはどれ程大きな慰めとなったことでしょうか。御言葉を朗読する者と、これを聞いて守る人は幸いである、との言葉に彼らはどんなにか勇気と励ましを見出したことでしょう。
このヨハネの黙示録が記されて早や2000年が経ちました。今の世界状況、社会情勢もまた、終末の時の迫りを確かに感じるものです。しかし黙示録は滅亡や絶望を示すためのものではなく、今日もイエスを主と信じる者たちに、神の審きと救いが迫っているという「希望」を示す励ましの書なのです。
苦難の時代を耐え忍んだ初代教会の人たちに倣い、私たちも又、イエス・キリストのからだなる教会につながってともに神の言葉を読み、聞き、行って生きる。近づいている終末の時、主の来臨の日に備え、1日1日をそのようにイエス・キリストの証し人として生きていくことがほんとうに大事なのですよね。
今日の最後の8節の御言葉にこう記されています。
「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである』。」
先週のイースターの宣教において「主イエスは生きておられる」というお話をいたしました。主イエス・キリストは2000年前に私たちの姿となってこの地上に来られ、その死をもって救いの御業を成し遂げられました。そこから3日の後によみがえられ、天に上げられ、約束の聖霊が降ることで教会が誕生しました。私たちもその主の教会に働かれる聖霊を通して、「主は今も生きておられる」ことを知らされています。主はかつておられ、今おられ、同時にやがて来るべきお方であられるのです。
ヨハネの黙示録の時代の信徒たちは確かにその主が再び来られる時を目にすることはありませんでした。その後2000年の長い年月を経ましたが未だその時は訪れておりません。けれども主の来臨の日は必ずやって来きます。イエス・キリストはアルファ:初めから、オメガ:終りまですべ治めておられる私たちの主であられるのです。
それゆえに私たちもヘブライ人への手紙12章にあるとおり、「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら走り抜こうではありませんか。」今週もここからそれぞれの場所に遣わされてまいりましょう。
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