礼拝宣教 創世記48章1-22節(召天者記念)
先週まではヨセフの物語を読んで御言葉を聞いてきましたが、本日の48章は、信仰の父祖アブラハムの孫でありヨセフの父である「ヤコブの人生の終わり」を語っています。
ヤコブが死に臨んで何を語り、何を遺したか。
以前ヤコブが、神さまによってイスラエルという新しい名を与えられたことを私たちは読みました。本日のところでも、ヤコブと言われていたりイスラエルと言われていたりしますが。そのヤコブに与えられたスラエルという名が、この民の名となっていったわけです。そして、このヤコブの息子たちから、イスラエルの12の部族が興った、ということでございます。
49章には12部族のリストが語られていますが、そこにおいてはヨセフが一つの部族となっています。しかし長い年月を経て彼らの子孫が増え拡がり、エジプトの奴隷状態から解放されて、神の約束の地カナンに入り、土地の分配が行われ時、その嗣業の土地を与えられたのはヨセフ族というのではなく、マナセ族とエフライム族であったことがヨシュア記16章に記されています。
ヤコブの息子の兄弟からなる12部族で、なぜヨセフだけはその子らが嗣業の地を受け継ぐこととなったのでしょう。それは、本日の48章にありますように、イスラエル、すなわちヤコブがこの2人の孫たちを祝福したからに他なりません。年老いたヤコブは、自分の死を意識しつつ、この孫たちに祝福を与えたのです。 子供や孫を祝福し、その健康や繁栄を願うことは、その立場になれば誰しもそういう思いを持つでしょう。けれどもこのヤコブの祝福は、そういった私たちの思いとは違うものです。なぜならこの祝福はヤコブ個人の願いではなく、神さまから受けたものだからです。そのことをヤコブは3、4節でこう語っています。「全能の神がカナン地方のルズでわたしに現れて、わたしを祝福してくださったとき、こう言われた。『あなたの子孫を繁栄させ、数を増やし、あなたを諸国民の群れとしよう。この土地をあなたに続く子孫に永遠の所有地として与えよう』。」
ヤコブはこの祝福をヨセフの子である孫たちに与えようとしているのです。
私たちが子や孫を祝福する時、それは祝福と言うよりも願望と言った方がよいものです。理想的姿を思い描き、無事を願う。しかしそれは人生がままならないことを知っているからこそ、そう願わないではおられない思いでしょう。けれどもヤコブの祝福は、神さまからすでに受けた祝福であって、力を持ち、具体的な表われとして実現するのです。この祝福を受けたヨセフの息子たち、マナセとエフライムの両氏族は、やがてイスラエル12部族の一員として嗣業の土地を受けつぐものとなっていくのです。
ヤコブが受け、与えたこの祝福は又、父イサクから受け継いだものでした。そしてそのイサクも、この祝福を父アブラハムから受け継いだのです。 そのように、神さまの祝福がまるでバトンを渡されるように、父から息子たちへと継承されていくのです。 その「祝福の源」(創世記12章)と、神さまが仰せになったアブラハムは、神さまへ信仰によって義と認められ「神さまの祝福」に与るものとされました。ヤコブも又、神と格闘するように相対した、その信仰にあって祝福を確かなものとされたのです。このように聖書が伝える祝福は「神の御前を生きる者」としての祝福であり、そういう意味では世の中が期待する幸いとは同じものではありません。 新約聖書の時代に生きる私たちは、主イエス・キリストにある救いの信仰によって神の祝福を受けつぐ者とされています。 それは血筋によらず、能力によらず、ただ信仰によって祝福の恵みに与っているのです。欠けがなく立派だったからというのではなく、むしろ神の前に罪と欠けある者であるがゆえに、神の救いと祝福を信仰をもって受ける者とされているのであります。 今や神さまの祝福は、罪と欠けのあるこのような者を通して継承されるというまさに奇跡を私たちは自分自身において体験しているのです。自分に起った信仰の継承という奇跡が、今度は自分を通して他の人に起こされていく。まさに、神さまのそれが救いの御業、祝福のご計画であります。
さて、ヤコブは今、年老いて、死を目前にしています。この地上の歩みを終えようとする時に私たちは、家族に、自分の子供に、あるいは次の世代の人々に、何を遺すことができるか、ということを考えるのではないでしょうか。 ヤコブがその時を目前にして、子孫に遺そうとしているものは何でしょうか。彼は父イサクから神さまの祝福を受け継ぎ、それを担って歩んできました。 その祝福の内容は先程読みました4節にあるとおり、「あなたの子孫を繁栄させ、数を増やし、あなたを諸国民の群れとしよう。この土地をあなたに続く子孫に永遠の所有地として与えよう」という、これは神さまの約束のみ言葉です。
彼はこの約束を信じて、その実現を求めつつ人生を歩んできたのです。この約束の御言葉の中で、彼の人生において実現し、今彼が持っているものは何でしょうか。彼は12人の息子を与えられましたが。しかし肝心の「この土地をあなたに続く子孫に永遠の所有地として与えよう」と神さまが約束して下さった土地を、彼はただの1㎡も所有していないのです。所有していないどころか、そこに住んですらいません。彼は今いるのは異教の地エジプトであったのです。
この約束を神さまから与えられた時、彼はその約束の土地にいました。その土地を所有してはいませんでしたが、寄留者としてそこに住んでいたのです。ところがその後彼は、飢饉によって飢え死にするのを避けるためにその土地を離れてエジプトに下らなければならなくなりました。そこに、ヨセフの物語に語られていた神さまの不思議な導き、ご計画があったわけですね。ヤコブは最愛の息子ヨセフを失う悲しみを味わいますが、後になってそのヨセフが生きており、エジプトの大臣になっていることを知らされ、そのヨセフのおかげで家族全員が飢饉から救われるという恵みを体験します。そういう意味では彼はエジプトで喜びの内に老後を過ごすことができたのかもしれません。しかし神さまの祝福の約束の実現ということに関しては、目に見えるしるし、成果を得てはいません。そして、今や死が目前に迫っていたのです。そのような中で、彼が子孫に遺すことができるものはただ一つです。それは、彼自身が神さまからいただいた祝福です。ヤコブは神さまの祝福、もっと正確に言えば祝福の約束しか持っていません。彼が死に臨んで彼が子孫に遺すことができるのはただそれだけなのです。
15節、ヤコブはヨセフを祝福して言います。「わたしの先祖アブラハムとイサクがその御前に歩んだ神よ。わたしの生涯を今日まで導かれた牧者なる神よ。わたしをあらゆる苦しみから贖われた御使いよ。どうか、この子供たちの上に祝福をお与えください。どうか、わたしの名と、わたしの先祖アブラハム、イサクの名が、彼らによって覚えられますように。どうか、彼らがこの地上に数多く増え続けますように。」
ヤコブは自分の生涯を振り返って、「牧者なる神さまが私の生涯を今日まで導いて下さった、御使いが私をあらゆる苦しみから贖って下さった」と語り、神さまを讃美し、感謝しているのです。 その神さまをして、「わたしの先祖アブラハムとイサクがその御前に歩んだ神」と言っています。信仰の父祖アブラハムも、父イサクも、主なる神さまの御前を歩んだのです。「御前に」とは、「み顔の前に」という意味です。アブラハムもイサクも、主なる神さまのみ顔の前に歩んだ。生ききった。それは又、主なる神さまに見守られながらの人生でした。それこそが、彼らに与えられた祝福でした。ヤコブもまた、神さまの御前を歩んできたのです。 ヤコブは47章で「わたしの生涯の年月は短く、苦しみ多く、わたしの先祖たちの生涯や旅路の年月には及びません」とエジプトのファラオに言っていますが。たとえ人間的な目に見える何の成果も上げることができなかったとしても、主なる神さまのみ顔を見つめながら歩むことができたがゆえに、彼の人生は神さまの祝福の中にあったのであります。ヤコブは終わりの時を迎えようとしている今、この祝福を讃美と感謝をもって子孫たちに遺そうとしているのです。
この神さまの祝福は、信仰と言うことができます。信仰とは、成果をあげることではありません。神さまの御前を歩むことです。 自分の人生の歩みの全てが神さまの御前での歩みとなる。これこそが信仰に生きることであり、そこに神さまの祝福があるのです。
私たちは、信仰の先輩たちから、この神さまの祝福、信仰を受け継いできました。信仰に生きるところには確かに、様々なよい実りが与えられます。そういう意味で目に見える成果も伴います。しかし、信仰を受け継ぐとは、その実りや成果を受け継ぐことではありません。本日の箇所のヤコブの姿から私たちはそのことをはっきりと知ることができます。 人生において目に見える成果を何も得ることができなかったヤコブが、自分の人生は神さまの御前を歩んだ人生だったと、喜びと讃美と感謝をもって振り返り、その祝福を子孫に継承することができたのです。神さまの祝福は、信仰は、このようにして継承されていくのです。
本日は召天者記念礼拝として主に捧げておりますが。先ほど当教会の召天会員会友名簿に沿って、故人のお名前が呼ばれました。それぞれにご事情は異なりますが、みなさまが神の御前を歩まれた人生であられたことでしょう。 先週の水曜日の聖書の学びは聖書教育のカリキュラムに基づいて、ルツ記1章の箇所を読み合い、御言葉を分かち合ったのですが。そこに登場するナオミという女性は、夫に先立たれ、さらに2人息子にも先立たれしまうのであります。彼女はまさに「残された人」として描かれています。人間的にみれば、これほど辛く、悲しいことがあるでしょうか。しかしそんな虚しさを背負ったナオミの隣人、大きな支え手、協力者となったのは、亡き息子の連れ合いのルツであったのですね。二人は貧しさの中、畑で落ち穂を拾って生活をつないでいくのです。その光景は、あのフランスの著名な画家ミレーの「落ち穂拾い」のモチーフとなっていますが。ミレーは人生のどん底ともいえる状況の折に、この作品を描いたとされています。 マタイによる福音書の1章を見ますと、「イエス・キリストの系図」の中に、何とこの異邦人であったルツの名前が記されているんですね。夫を亡くした彼女は姑のナオミと、その主なる神からわたしは離れません、とその信仰を受け継いでいく道を選ぶのです。そういう中で神さまの不思議なお導き、ご計画によってボアズと再婚し、オベドを産み、そのオベドからエッサイ、エッサイからダビデ、そうして救い主イエス・キリストへと、その信仰の系図がつながっていくのです。まさに信仰の継承がこういうかたちでなされていくのであります。
さて、今日の箇所の中で、ちょっと気になるところが皆さまにもおありではないでしょうか。それは、ヤコブの祝福の継承の場面で起こります。 ヨセフは長男であるマナセがヤコブの右側に、次男エフライムが左側に来るように立たせます。それは、右手による祝福が左手による祝福より上位であり、その最上の祝福を長男が受けるべきものと考えて、そのように二人の息子をヤコブの前においたのです。ヨセフは年老いて目がかすんでいるヤコブが間違えないように、という配慮からそうしたようです。ところが、いざ祝福を与える時に、ヤコブは(ここではイスラエルと12部族の総称としての名が用いられていますが)、14節にあるように「イスラエルは右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。つまり、マナセが長男であるのに、彼は両手を交差して置いたのである」と記されています。なぜヤコブ、イスラエルはそのように祝福の手を交差させたのでしょうか。それは何を意味しているのでしょうか。
それを見たヨセフは不満に思い、「父上、そうではありません。これが長男ですから、右手をこれの頭の上に置いてくださ」(18)と言って、父の手を取ってエフライムの頭からマナセの頭に移そうとします。(17) しかしヤコブはそれを拒んで、「いや、分かっている。わたしの子よ、わたしには分かっている。この子も一つの民となり、大きくなるであろう。しかし、弟の方が彼よりも大きくなり、その子孫は国々に満ちるものとなる」(19)と言いました。 ここに示されているように、この祝福の手の交差は、その後のイスラエルの民の歴史において、この祝福のとおり、マナセ族よりもエフライム族の方が数も増え、力を持つ部族となるのです。まあ人間的に見て、ここにヤコブ自身の個人的な思いを読み込むことができるかもしれません。ヤコブ自身双子の兄弟の次男だったのですが、長男エサウをおしのけて父イサクから祝福を受けたのです。ヤコブが末息子のヨセフやベニヤミンを溺愛したこともそうですが、そういう長男よりも次男への思い入れ、贔屓(ひいき)の思いを持っていたのではないかと、まあいろんな解釈をすることもできますが、その真意は分かりません。
ただ思いますのは、主イエスさまがマタイ福音書19章30節のところでおっしゃった、「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」とのお言葉です。
これは、信仰の歩みにおいて、目に見える立派さ、実り、成果をたくさん生み出すことができたからといって、その人がそれらのことを誇り高ぶるのなら、その人はもう報いを受けてしまっているのであり、もはや神の祝福、信仰の恵みは必要とされてい逆に、そのような目に見える成果は何一つあげることができなくても、否それどころかかえって、苦労の人生の連続であったヤコブやヨセフ、又先ほどの残された人、ナオミではありませんが。困難の中であらゆるものを失い、亡くしていくような中にあっても、なお神さまがその身も心も魂も、生活も、その生の全領域を守り、支え、養っていてくださるお方であると、信じ続け、従って生きる、すなわち「神さまの御前を歩み続ける人生」であるのなら、まさにそれは、神さまの祝福に満ちた人生となるのであります。
本日は先に天に召されました私たちの信仰の先達をしのびつつ、御言葉を聞いてまいりました。私たちそれぞれに神さまの祝福を受けとっていく者であり、またそれを継承していく者として今を、生かされていることを心に留め、今週もこの礼拝から、それぞれおかれています場へと、遣わされてまいりましょう。
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