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日本バプテスト大阪教会へようこそ!

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共に喜び祝う

2022-11-13 14:35:45 | メッセージ
礼拝宣教 ネヘミヤ記7章72節―8章12節 

今朝は先程読まれました8章のところから「共に喜び祝う」と題して、御言葉に聴いていきたいと思います。
先に読みましたエズラ記とこのネヘミヤ記は共にバビロンによって破壊された神殿の再建についての記述でありますが。ネヘミヤの場合はまず、神殿再建の動機と熱い祈りから始まります(1章)。
ネヘミヤは彼の兄弟の一人であったハナニから、「捕囚を免れて生き残っている人々は、大きな不幸の中にあって、恥辱を受けており、エルサレムの城壁は打ち破られ、城門は焼け落ちたままである」という話を聞いて、「座り込んで泣き、幾日も嘆き、食を断ち、天にいます神に祈りをささげた」というのであります。
そもそもこのように城壁が打ち破られ、城門が焼け落ちたのは、先の時代のユダの人びとの神への背信から生じた事柄であり、彼らの神に対する罪、的外れな生き方にあったわけですが。ネヘミヤはその事を自分たちの事柄として受けとめ、嘆き、食を断ち、神に祈るのです。そして打ち破られた城壁、焼け落ちた城門をどうしても放置しておくことができなくなったのです。又、エズラにもネヘミヤにも共通するのは、神さまとの関係性を損なう「罪」を悔い改め、神さまとの関係修復がなされていくことが急務であるという事でありでした。つまり、打ち破られた城壁、焼け落ちた城門、つまり神殿の再建と信仰の刷新とが神さまのお導きのもと内実ともになされていく、本日の8章に至るのであります。本日はその8章から共に御言葉に聴いていきたいと思います。

  • 「一人のひとのようになった」
冒頭で、「民は皆、水の門の前にある広場に集まって一人の人のようになった。」とあります。
この時点で城壁の再建は終わり完成していたようですが(7章)。ユダの人々は「水の門の前にある広場」にぞくぞくと集ってきて、「一人の人のようになった」というのです。
この「一人の人のようになった」という言葉と似た言い方としては、「一致して」とか、「心を一つにして」という言い方があります。けれども、往々にしてそれは自分たちの思いや考えによって、また、力や地位のある人の発言や扇動によって突き進んで「一つになる」「一致する」ことが方向づけられるものです。それは残念なことに人間的な力や言動による同化や強要、反対者への排除が起こることがあります。

一方、ここで聖書が「一人の人のようになった」といっているのはどういうことかと申しますと。「民は皆、一人のひとのようになった」とありますように、それは単なる群衆ではなく、主体的な意志をもった民衆の一人ひとりが集い、一人の人のようになったということです。
私たちはここで今礼拝を捧げておりますが、それも、そうしなければならないとか。誰かに言われて行ったというのではなく、自分の意思をもって神さまの御前に出で、礼拝を捧げよう、御言葉を聞き主を賛美しようと、ここに集まって来られたのではないでしょうか。
そういう神さまの招きに応えた一人ひとりの民による礼拝が、「一人の人のようになって」、主を喜び祝う祝祭が捧げられているのです。
さて、祝祭であるこの礼拝をささげる私たち一人ひとりには様々な課題があるでしょう。
ネヘミヤ記を読みますと、ユダの再建として城壁の修復がなされたものの会衆の一人ひとりは未だ生活に事欠き、敵の脅威を身に感じ、やはり様々な問題を抱えていました。城壁の再建は彼らが平安に暮らしていける復興を実現していく事柄でもあったのです。

そのためには、目に見える城壁にも優る、主なる神さまの霊的堅固な砦を必要としていたのです。それは、民である彼らが神の平安と祝福を受け継ぐ者として父祖から受け継いできた「モーセの律法」、すなわち神と民との契約、命の御言葉こそが彼らのうちに築き直されていく必要があったのです。民はその日、主の御前にあって、そのことを確認すべく「一人の人のようになった」ということであります。

主の日の今日、私たちも又、主イエス・キリストによって与えられた、救いの契約と命を得させる御言葉に聞き、それを確認するため、主体的にこの礼拝に集って来ました。それは、あらゆる物質にも優る豊かさ。もっと言えば、「主の恵みと救い以外、私の魂を生かしてくれるものはない」という主への信頼、信仰によるものです。「一人の人のようになって」この礼拝もまた捧げられているということであります。この主の日の礼拝から私たちの生活のすべてが始っていく。人生も又、内に外に築かれていく。その確かさを今日も確認しつつ、共に、心をこめて主を賛美する礼拝であることを願い、祈ります。

  • 「礼拝の要素」
さて、今日のこの箇所では、まずユダヤ人たちがシナゴグで守っていた礼拝の原型を見る事ができます。それは、新約(新しい神との契約)の時代に及んで、現代のキリスト教会においても継承されており、私たちが週ごとに捧げる礼拝の中にもその要素を見る事ができるわけであります。

まず書記官であり祭司であったネヘミヤの大先輩のエズラが、民の要請によりモーセの律法の書を持って来た後、用意された木の壇の上に立って、それを読みあげたとあります。
これは礼拝でいうところの「聖書朗読」にあたり、礼拝の中心であります。これが何と夜明けから正午迄、だいたい7時間程度かったというのですから、読む側のエズラはさぞや大変だったでしょう。しかし、その律法の書を聞く会衆も(律法の書を理解することのできる年齢に達したすべての男女すべて)もまた、エズラによって律法の書が開かれると、立ちあがったとありますので、その朗読の最中ずっと立ち続けて律法の書を聞いていたということでしょうか。こちらも大変であったかと思えますが。
そして驚くことは、その律法の書をもってきて朗読するようにしたのは、指導者たちではなく、民の会衆が主体的に要請した、とある点であります(1節)。
私たちのバプテストの教会も、信徒が主体的に教会形成に努め、牧師を立て、共に担いつつ教会を建て上げて来た。そういう伝統の上に今があるわけですが。それも又、ユダの民がまず律法の書により、信仰とその生活が築かれていったように、私たちキリストの教会も礼拝で聖書が朗読され、それを開くことを大切にしているわけですね。
そしてその朗読の後、「エズラが大いなる神、主をたたえると民は皆、両手を挙げて、『アーメン、アーメン』と唱和し、ひざまずき、顔を地に伏せて、主を礼拝した。」とあります。     
これは礼拝の私たちの「讃美」「感謝」「頌栄」「祝祷」といった要素であるといえます。

また7節には、エズラが読んだ律法の書を13人のレビ人たちが翻訳し、意味を明らかにしたとありますが。ユダの人々の中には原語であるヘブル語を話す人たちもいたようです。けれどその多くは長い捕囚の時代に生まれ育ちペルシャの文化や習慣、言語の影響を受け、アラム語を話していたようです。その点でも神の言葉を翻訳し、その意味を解説していくという作業が必要だったのです。その奉仕をヘブル語とアラム語ができたレビ人たちが担ったようであります。皆が理解できるようにとの配慮がなされていったということでしょう。

先日、日本聖書協会のスタッフの方のお話を伺う機会がありました。現在日本のキリスト書店や一般書店などからも40カ国近くの聖書が直接購入できるようですが。これまでに飜訳された聖書の言語は700言語を以上とのことですから、大変なご苦労があったことでしょう。世界の国々、又諸民族でも言語が複数あるわけで、それはすごいことだと思います。
まあユダヤ人と文化も時代も異なる私たちが、聖書の理解を深め、受け取っていくためには、その解き明かしの奉仕者やメッセンジャーを通して、聞き学んでいくということがどうしても必要なわけであります。

  • 「共に喜び祝う」
さて、ユダの会衆はレビ人たちがそのように神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読みあげたので、その朗読を理解した彼らは皆、律法の言葉を聞いて泣いていた、とあります。
それは、これまでの自分たちの辿ってきた道のり、神への背信による国家の崩壊、捕囚からそこに至るまでのあゆみが、まさに神の御言葉によって照らし出され、その御言葉が胸に迫った。今風に言えば「胸に刺さった」からでありましょう。また、損なわれた神との関係性を思い知らされ、自らの罪深さを嘆き悲しみ、泣いたのです。

しかし、それはただ嘆き、悲しんで後悔のみで終っては何にもならないのです。聖書が説く「悔い改め」、ギリシャ語でというメタノイアという言葉は、世間でよく誤解されて用いられている「後悔」や「反省」することとは全く異なります。神さまの方へ180度方向転換して、立ち返って生きるということです。何度も自分の罪をほじくり返しては自分や人を責め続けるのは、悔い改めではありません。
ネヘミヤとエズラは言います。「今日は、我らの主に捧げられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」
贖なってくださった解放の主の御業を喜び祝うということこそが、聖なる日にふさわしい、というのです。罪のゆえに捕囚の身とされていた人びと。あるいは廃墟に取り残されていた人びと。それらのすべての離散の民を主である神が憐れみ、いつくしみ、贖いとって、再び神の民としてユダの地に帰って来ることを良しとしてくださった。
ネヘミヤは1章8節で、「どうか、あなたの僕モーセにこう戒められたことを思い起こしてください。『もし背くならば、お前たちを諸国の民の中に散らす。もしわたしに立ち帰り、わたしの戒めを守り、それを行うならば、天の果てまで追いやられている者があろうとも、わたしは彼らを集め、わたしの名を住まわせるために選んだ場所に連れて来る。』彼らはあなたの僕、あなたの民です。あなたが大いなる力と強い御手をもって贖われた者です。」と神に祈りました。
このネヘミヤの神への祈りは叶い、ついに「主を喜び祝う日」が訪れたのであります。
その礼拝の後、「人々は最上の食物を食べ、ぶどう酒を飲んだのです。その備えのない人たちには、持っている人が分け合い、共に喜び祝うように促され、ユダの会衆は皆、その日、心から主を喜んで祝い、それを「力の源」としてあゆみ出すのです。

私たちの解放はまさに主イエス・キリストの救いの御業によってもたらされました。
私たちは月の初めに主の晩餐を分かち合います。救いの主、イエス・キリストは、私たちの罪を贖うために十字架につけられ、その尊い血によって私たちは救われています。この主の十字架を見上げる時、私の、そして人間の罪の深さを思い知らされます。しかし主は3日後によみがえられました。主の赦しと和解を得て、罪を悔い改めて生きようとする私たちが、新しく生きる者とされるために主は復活してくださったのです。
神は御独り子をこの地上に贈り、十字架の苦難と死を通して私どもの苦しみ、悲しみ、理解し得ないような私どもの苦悩をも共に負ってくださったのです。
この死と復活を通られたお方であられるからこそ、すべて人の痛みや苦しみを知ってくださる、インマヌエルなる神さまなのです。

最後に、本日は「共に喜び祝う」という題をつけさせて頂きました。
12節「民は皆、帰って、食べたり飲んだりし、備えのない者と分かち合い、大いに喜び祝った。」とあります。
ユダの民は神さまのみ教えを心から受け取り、それが救いの喜びとなったとき、その恵みを同胞と分かち合うゆたかさとなりました。私ども誰しも、体の不調、心の疲れ、仕事や生活のままならない時があるやも知れません。そんな時、聖書の御言葉に聴き、分かち合う友、祈り合える友が与えられているということは、ほんとうにありがたいことではないでしょうか。
私たちは主の御救いを祝う礼拝から生きる力の源に与っています。お祈りします。
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