礼拝宣教 ミカ書4章1~4節 アドベントⅡ・世界バプテスト祈祷週間最終日
本日はミカ書4章より「終末の約束」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。「終末」というと、皆さんどういうことを思い浮かべるしょうか。
まあ巷でいわれる「終末」、それは人類が滅びに向かう世紀末、世界の終わり、人類の滅亡の時をイメージされている方も多いのではないでしょうか。確かに、国内外において近年著しく地震、災害、事件、疫病、加えて平和が脅かされている国々の状況が深刻化してきており、終末は近いと感じる方も少なくはないと思いますが。
ユダヤ教の「終末観」によると、それは長く続いてきた「悪の時代が終わる時」であるとされています。ユダヤ教の終末とその完成は「地上の悪」が絶頂に達するとき、神・ヤハウェがメシアを地上界へ派遣し、サタン(悪)の勢力を滅ぼし、神・ヤハウェが最終的な勝利を収める、メシアを王とする「新イスラエル王国」が実現されるものとされています。
一方、キリスト教では、旧約聖書に預言されたメシアはすでに来られ、天に昇られましたが、目には見えませんが今も共におられると信じています。罪の力に滅ぶ外ない世界と人類がメシアなるキリストの贖い、その救いの業によって新たにされている。そこに終末はすでに来ているのです。それは遠い未来のことではなく、キリストが到来されたその時からすでに始まっているのです。 ユダヤ教でもキリスト教でも終末は神の主権による完成の時であることに変わりありません。が、その完成の日が近づきますと妊婦が子を産むときの産みの苦しみのような苦難があることを旧約、新約両聖書に記されており、そこには確かな信仰の道を歩み通していくことの重要性が語られているわけであります。キリスト者にとりましては終末のときを生きながら、未だ訪れていない主の来臨(再臨)を待ち望みつつ歩みを続けているのです。
聖書には終末の最後の審判ということが書かれています。その審判はメシアなるキリストによって罪贖われ、愛と救いの恵みに与って生きる者にとりましては希望です。それは羊である私たちが羊飼いである神を知り、羊飼いが羊を見分けるように、神ご自身が私たちを知っておられるからです。又、キリストに罪贖われた者は、神が滅びの罪を裁かれるまったき義と聖なるお方であることを知っています。神以外に完全にきよいものはありません。すべての人の救いを願われる聖なるお方に信頼して歩む者にとって、終末はまさに希望の約束なのです。
では、今日のミカ書から「終末の約束」のメッセージを聞いていましょう。
1―2節「終わりの日に/主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。もろもろの民は大河のようにそこに向かい/多くの国々が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう』」。
このように、その日が来るとユダの民だけでなく様々な国の人たちが主を礼拝するために世界中から「主の山」「神の家」に集うという預言であります。
ご存じの通り、イエス・キリストの降誕、地上での公生涯、その死と復活と聖霊降臨のときから現在に至ります2千年間、聖地エルサレムには世界中から巡礼に訪れる人たちの流れが尽きることはありません。さらには「主の山」「神の家」が聖地エルサレムという物理的場所に限定されるのではなく、今や世界中のイエスを主、救い主キリストと信じる共同体が「主の山」「神の家」とされているのです。それは、キリストのお約束が実現し、聖霊なる神さまが世界の国々のどこにあっても主を求める人の間に分け隔てなく臨まれるのです。今日もこうして私たちも又「主の山」「神の家」に共に集い、「世界の王なる主」を世界中の同心の友と共に礼拝しているのであります。なんと素晴らしい恵みでしょうか。
2節にはさらに「『主は道を示される。わたしたちはその道を歩もう』とございます。
「主の道」とは「主の教え」と「御言葉」です。続く2節に「主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る」とありますように、主の山、神の家に集い、神を礼拝する人びとは、その「主の教え」と「御言葉」を聞き、それを行いながら歩んでいくようにと、諭しているのです。
それは具体的には十戒に代表される神の律法でありますが。それらは「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神を愛せよ」。又「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」との戒めに集約されます。
申命記8章のところには「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉よって生きる」と記されていますが。人が人として生き、命を得るためにこそ、主は教えと御言葉を与えてくださるのです。また、キリストは「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われました。私たちは、生ける御言葉であるキリストが、そのご生涯の歩みを通して現わされた「主の道」を、キリストに倣い、歩み通してまいりたいと願うものです。「主の山」「神の家」に集うものが「主の道を歩む」その時、魂の喜びと平安に与ることができるのです。
さて、4節には本日の宣教題である「終末の約束」が実現したその世界観について次のようなビジョンが語られています。
「主は多くの民の争い裁き/はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない」。
1章の初めでミカは北イスラエルのサマリアと南ユダのエルサレムについて幻を見せられます。彼は同じく南ユダで活動した預言者イザヤより少し後になってから預言者の活動をいたします。イザヤは王に直接合って神から預かった言葉を訴えることができたように、ある程度地位のある人でありました。 一方のミカは民衆の一人として、南ユダの繁栄の陰に隠された重大な悪を告発し、訴え続けた預言者です。国の指導者たちは都市や国家の繁栄は計りますが、それは貧しい人たち、弱い立場の人たちの犠牲のうえに成り立っていたのです。政治家、宗教的な指導者の多くは腐敗し、自分たちの利権や地位を保全することばかりを考え奔走していました。
そういった有様をミカはよく見、身近に知っていたのです。神に聞き頼もうとはせず、大国との同盟を結び、国益を図ろうとおもねるような外交に走って行ったことが、遂に禍を招くこととなります。ユダの地とエルサレムは破壊され、略奪と民の捕囚という悲惨な結末を迎えます。
今日のミカの預言はもはや避けることのできないそうした絶望的状況を前に、それでもやがては「終末の時」、すなわち、先に申しました「神の業よる平和の実現」のときが必ず来る、という希望のメッセージなのです。
ここには、武器と農具の描写がでてまいりますが。戦時中は日本でも武器を作るために鍋などの金属が徴収されたと聞いていますが。それは生活のいわば人が生きるために必要な道具が、人を殺傷するための武器となって使われることのおぞましさであります。それがここでは、その戦争の道具、殺戮の武器となった剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とすると神自らがそのよう仰せになるのです。鋤と鎌といえば、庶民が農作物を生産していくための道具です。そこに人々の日常の暮らしと生活が取り戻されていくのであります。
ペシャワール会の中村哲医師が銃撃によって亡くなられてからこの12月4日で、2年となりました。中村医師は「水がないから食料がない、貧しいから争いが絶えず、患者が絶えないのだ」と、水の必要性を痛感なさって井戸を掘り続け始め、それがやがて一大灌漑用水となっていくのです。緑が茂った土地を見たとき、その住民がTVのインタビューで、「争いがないのでもう武器を手にしなくてよい」と語っていたのを以前見ましたが。まさに「武器が鍬や鎌」といった人が生きるための道具に打ち直されたように思ったものです。
中村医師は銃弾に倒れ、さらにアフガニスタンではクーデターが勃発しタリバン政権が統治するようになりました。灌漑用水はいったいどうなるのかと思いましたが。一昨日ニュースが飛び込んできました。タリバンの指導者の一人が会見し、中村医師のその働きに驚きと感謝を表し、この事業はアフガニスタンにとって必要な事業だと話していました。
預言者ミカが見たこの「終末の約束」は、今日の時代の中においても平和のビジョンとして高く掲げられています。ニューヨークの国連本部の入り口の所にこの「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」との御言葉が刻まれているのもそういった意味からでしょう。
確かに世界に目を向けますと、終末の完成、平和の実現の日とはかけ離れたような現実であります。が、であるがこそ、このミカが預かった御言葉に聞き従い、その来るべき日に向け、わたしたちも又、主の道を歩み続けるものとされていきたいと願うものです。
神はこのミカの時代から700年余の時を経、御子、イエス・キリストを全世界、全人類のメシア、救い主としてこの地上に遣わしてくださいました。 このお方によって世の権力、武力によらず、命の言葉、真理の御言葉を持って救いの業は実現し、神が真に望まれる平和の道が拓かれたのであります。
今日はこの後、主の晩餐が持たれます。エフェソ2章に次のような御言葉があります。 「あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。実に、キリストはわたしたちの平和であります」。アーメン。主イエス・キリストの十字架に厳粛なる神の義、いつくしみ深い神の愛がすべての世界と人々に顕わされました。この救いの業をとおして神との和解、さらに人と人、国と国、全被造世界との和解という究極の「平和への道」が拓かれているのであります。
「多くの国々が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの家に行こう。主は私たちに道を示される。わたしたちはその道を行こう』」。
この平和のキリストのご降誕を待ち望んでいくアドベントの時。私たちもその御声に聞き、平和の主、キリストの示される道を歩んでいく者とされてまいりましょう。