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サウロの回心から

2021-05-02 11:58:54 | メッセージ

礼拝宣教 使徒言行録9章1~22節 

 

新しい朝、主に命を、また生きる力と支えとを戴いて、今週の歩みをこの礼拝から始めることができます恵みを感謝します。

正義感は正しさを求める心ですが、その正しさが自己絶対化され自分こそは正しいと他者を裁き出しますと、それが偏見や排除になっていきます。コロナ禍でソーシャルディスタンスが呼びかけられていますが、海外からは日本人を含むアジア系の人たちに対する暴力を伴う差別が強まっているとのことです。日本国内におきましても不安や恐れから、偏り歪んだ正義感が他者の尊厳を傷つけるような差別や排除につながらないことを願います。

 

本日はクリスチャンを激しく迫害していたサウロが、復活の主、イエス・キリストとの出会いを経験し回心する物語です。彼はこの出来事を通してイエス・キリストの福音を伝える使者となっていくのであります。

幼い時から教育を受け、神の律法の知識においてもそれを守り行うことにおいても人一倍厳格で熱心だったサウロ。彼ら迫害者にとってクリスチャンは、神に裁かれ十字架で無残な死を遂げた得体の知れない人物を崇める不可解な人たちでしかありませんでした。先祖代々受け継がれて来た律法に背く神の敵対者と見なし、キリストの教会とその信徒たちを跡形もなく無くそうとサウロは意気込んでいました。そうして自らリーダーとなって男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行していったのです。

サウロがステファノの処刑に深く関与したのも、もとはと言えば彼の神への忠誠心から出たものであったといえましょう。神に敵対する教えは根絶せねば、という使命感からの行動であったのです。

 

そのサウロがさらなる迫害のためダマスコに近づいた時でした。

突然天からの光が彼の周りを照らし、彼は地に倒れます。そこで彼は「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか。わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と呼びかける「主」のみ声を聞くのです。

彼は茫然自失のうちにやっと起き上がったものの、「三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった」と記されています。

それほどまでの衝撃を受けたのは、彼が神の敵としてみなしていたイエスこそ、代々預言者を通して語られ約束されたメシア、救世主であったことを知ったからです。

神のために正しいと思い忠誠を尽くしてきた自らの行為すべてが、主ご自身を迫害するようなこと、神に敵対するようなことに外ならなかった。彼はそのことを知った衝撃で目が見えなくなってしまうのです。

彼は3日間暗闇の中で何を思い、何を願ったのでしょう。自らの罪の重さにさいなまれ、苦悩するサウロ。

しかし生ける神の救いの御業は実に、もはや自分の力ではどうしようもなくなった時、ただ神に祈り、懇願するほかなくなった時にこそ顕されるのです。

サウロにとってそれは主にある兄弟アナニアとの不思議な出会いを通して与えられます。まさに人の思いを超えた神の導きによる出会いでありました。    

 

すでに主イエスを信じておられる方がた、みなさんはイエス・キリストの福音と出会うきっかけとなったあの人、信仰の決心につながったこの人、とそのお顔や名前が浮かんで来るのではないでしょうか。

そこには人の思いを超えた計り知れない神のご計画があり、決して偶然ではない出会いを神が備えてくださったのであります。クリスチャンの人生はまさに神に導かれる出会いと救いの連続であります。時が経ってからこんなところでつながっていたのか、というような不思議な経験を私自身もそうですが、事ある毎に様々な方からお聞きし、その度に神のなさることに驚かされます。みなさんもそういったご経験をお持ちではないでしょうか。

サウロの回心は、確かに復活の主の声を聞いたところから起こされました。

しかし、彼がいやされ救いを受けて元気を取り戻すために、主はアナニアという一人の弟子をお用いになりました。これは大変意義深いことです。主はご自身の弟子である兄弟姉妹をお用いになられるのです。そしてそれは人の力や業によるのではなく、主の御計らいによって計画された出会いであるのです。

 

さて、サウロがそのような状況にあった時、主はダマスコにいたアナニアにサウロのもとへ行くようにとお命じになります。しかしアナニアにとってこれは大変困惑するようなことでありました。何しろサウロの激しい迫害の様子はすべてのクリスチャンに知れ渡り恐れられていたからです。

13-15節に主とアナニアとのやり取りが記されていますが。そのくだりを柳生直行さんという方が訳された聖書でちょっと読んでみますと。

「『主よ、お言葉ですが、あんな男と関わりたくありません。エルサレムにいるあなたのお弟子たちに、どんなひどいことをしたか、いやというほど聞かされております。それに、今度この町にやってきたのも、祭司長たちの許可のもとに、あなたを信じるものたちを片っ端から引っ捕えるためだそうではありませんか』。『いいから行きなさい』と主は言った。」

何だかそのやりとりが目に浮かぶ気がしますが。

まぁ、アナニアに恐れや嫌悪感があったとして当然でしょう。が、それにしても主の「いいから行きなさい」とのご命令には、もういやがおうでも従うほかありませんね。主のご計画は人知を超えているのです。

 

アナニアは主のご命令どおりサウロのもとへ行き、彼の上に手を置いて「兄弟サウロ、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです」と主のお命じになったことを伝えます。

するとこの主から託されたアナニアの言葉を聞いたサウロは、「たちまち目からうろこのようなものが落ち、元どおり見えるようになった」というのです。

サウロはアナニアを介して主の言葉を聞くのです。しかしそれは、自ら犯してきた罪に対する裁きではありませんでした。彼はアナニアから「兄弟サウロ」と呼びかけられたことをどのような思いで聞いたでしょう。これまでずっと脅迫や迫害を加えてきた相手から「兄弟」と呼びかけられるとは・・・。サウロに置かれたアナニアの手はどんなに温かかったことでしょう。

サウロはこのアナニアを通して神のゆるしと救いの主イエスの十字架の苦難と死の意味を身をもって知ったのです。旧約聖書をずっと学んできた彼の中で、預言者たちが語り記していたことが、主イエス・キリストについて語られたものである事を悟るのです。

その時サウロの目からうろこのようなものが落ちて見えるようになるのです。

 

みなさんもご存じの三浦綾子さんは、若い教員であった日々、自ら正しいと思いなした戦時下の教育が敗戦と共に虚構であったことを知らされ、自責の念と、信じていたことが崩れ去った虚しさに自暴自棄となって、とうとう体を壊しカリエスという病を患って何年間も病院のベッドで空しい日々を送られました。しかしそれが主による兄弟、三浦光世さんとの出会いによって福音に心の目が開かれ、後に作家として主の救いの恵みを証する人とされたというのです。塩狩峠、氷点などの作品をお読みになってキリスト教の信仰に導かれた方も少なくないでしょう。

一人の魂が救われていくには、その人自身の力だけではどうにもならないことがございます。だからこそ主は教会と主にある兄弟姉妹を備えてくださっておられるのです。

 

サウロは主イエスと出会い、自らの過ちに気付きますが、その思いが自分だけに向いている間は、自分の罪を責め苛み続けるという出口の見えないところにいるほかなかったのです。しかし主は、サウロの閉ざされた霊の目を開かせるためにアナニアをお遣わしになるのです。

サウロは自分が苦しめ迫害し続けたクリスチャンのアナニアから、主の福音、救いを聞くことにより、主に赦され、受け入れられたことを体験しました。

一人の魂が主の救いへと導かれる時、又救いの確信が与えられ、新たにされる時、そこには必ずといってよいでしょう、主は兄弟姉妹(教会)をお用いになります。確かにクリスチャンといえども人それぞれ考え方も異なるでしょうし、時に意見の対立も起こることもあります。けれどもなお主にある教会兄弟姉妹の間に主は共におられる。それが今回より読み始めた使徒言行録以後のずっと一貫したメッセージなのです。

主イエスの福音を信じてクリスチャンとされた私たちは、それが自分一人で得たものでないことを知っています。主にある教会、兄弟姉妹を通して主の福音が分かち合われるということ、それは神のまさに賜物なのです。

 

さて、福音に心の目を開かれたサウロの歩みはただ回心した、救われただけでは終りません。

20節にありますように、「数日の間弟子たちと一緒にいて、すぐあちこちの会堂で、この人こそ神の子であるとイエスのことを宣べ伝え」始めるのです。喜びに満たされて主の福音を分かち合わずにおれない福音の使者とされていくのであります。

主はこのサウロを異邦人や王たちに福音を伝える器として選ばれました。それは喜びと共に苦しみを伴うことでもありました。

クリスチャンたちから不信を持たれ、ユダヤ教徒たちからは裏切り者だと命を狙われます。彼の伝道者としての生涯は主イエスがおっしゃったとおり大変な苦労の連続でした。けれどもそのような中においても、Ⅰテサロニケ5:16にありますように「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことに感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」と主の教会の兄弟姉妹を励まし続けた使徒パウロ。どんな時でも主イエスの福音を伝えたい。何があっても福音を伝えずにはいられない。分かち合わずにおれない。

今日そんなパウロのスピリットとその原点を復活の主イエスとの出会いと回心の記事からご一緒に聞いてきました。

教会に通い始めたあの日。バプテスマに与ったばかりのあの日。信仰の確信を新たにしたあの時。どのような時も主が共におられる、という平安と感謝。誰かと分かち合いたい。実に神の私たちに対する救いのご計画はここにあるのではないでしょうか。

今はコロナ禍、自粛期間中でなかなか難しい状況ではありますが。しかし連絡を取り合って祈り合い、励まし合えると幸いです。私たちをどんな時も愛し、導いてくださる主に信頼と期待をして、共に歩み続けてまいりましょう。主にある交わりの尊さ、ゆたかさを忘れる事なく、共に祈り支え合っていく者とされてまいりましょう。

 

宣教音声→https://drive.google.com/file/d/11SbBnIop_fjvBOvYbh2V0Rq_HfzikSTK/view?usp=drivesdk

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