礼拝宣教 イザヤ書63章7-19節
今年も残すとこ1か月半となりました。私たちの教会はこの一年のテーマ・標語を「喜び、祈り、感謝」テサロニケ一5章16-18節の「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」というみ言葉を基に据え、ここまで歩んでまいりました。
振り返りますとほんとうに様々な出来事がありました。新しい方々との主にある出会い、ともなる礼拝を捧げられる喜び、感謝の出来事。一方で、6月末には私たちの主にある家族であるYさんが天に召されました。悲しく、寂しいことではありますが。私たちは愛する人を天に見送るとき、主の御もとで再び相まみえる希望、「私たちの本国は天にあります」という望みを頂いていることに感謝であります。皆さま方それぞれにおかれても、喜ばしいことも、又一口では言い表せないようなこともおありでしたでしょう。
それらの出来事の中で、私たちは如何に主に祈り、又主に執り成して来たか。私たちが如何に主と相対して生きているか、それは主との祈りの対話があるか無いかによって、その日々の重みといいますか、その中身が違ってまいります。
今年も40日あまり。意義ある一日一日を「喜び・祈り・感謝」のうちに歩んでまいりたいものです。
さて、本日のイザヤ63章7-19節の小見出しにもありますように「執り成しと嘆き」の祈りは、次の64章まで続いています。
先ほどこどもメッセージでも読まれましたように、捕囚となったバビロニアから約束の地エルサレムの都に帰って来た人々は、解放の喜び再建の期待を抱いて帰還しますが、しかし復興は一向に進まず、食べ物にも事欠く先の見えないような状況が続きます。神はもはや自分たちをお見捨てになったか、そんな嘆きさえ聞かれる現況の中で、預言者は執り成し祈ります。
はじめの7-14節で、預言者は過去のイスラエルの先祖に示された主の救いの御業を回想します。
彼は、主が過去にイスラエルの先祖に与えられた多くの恵み、救いのみ業を心に留め、主を賛美するのですね。「主が憐みと豊かな慈しみによってイスラエルの家は多くの恵みを賜った」と。
ここに語られた主の恵み:へセドは断腸の思いということです。又、主の憐み:レヘムは女性の子宮を意味する言葉で、それは母性的な愛や自己犠牲の愛を示しているといわれます。
9節の「彼らの苦難を常に御自分の苦難とし」というのも、単なる苦難ではありません。これは陣痛による苦難を意味する用語であります。
このように主の、その民に対する憐みと豊かな慈しみは、苦しい陣痛の中でわが子を産み出すような、断腸の痛みを伴うような「愛」であるということです。
生まれてくる子も苦しい。けれども、その生まれて来る愛する我が子、ご自分の民のために神自らその苦しみ痛みを身に負ってくださるということをそれは表しています。
私たちクリスチャン一人ひとりも又、神の民、救いの子として新たに誕生するには、主の大きな苦しみと痛みがあった。そして主は私たちが神の民、救いの個とされるために断腸の痛み、陣痛の痛みを伴う愛、それこそが主イエス・キリストの十字架の贖いの業をもって、私たちを新たに生み出してくださった。それは9節にありますとおり、「愛と憐みをもって彼らを贖い/彼らを負い、彼らを担ってくださった」のです。
8節では、そのように生み出した御自分の民を「わたしの民、偽りのない子らである、と」主は言われます。それ程までに主は御自分の民として彼らを愛しておられたのです。
それにも拘わらず10節を見ますと、「しかし、彼らは背き、主の聖なる霊を苦しめた」とあります。
国が繁栄するにつれて民の心は主から離れ、預言者が遣わされても耳を傾けようとはせず、主の愛に背き続け、主の聖なる霊を苦しめたのであります。
そして遂に同じ10節、「主はひるがえって敵となり、戦いを挑まれた」。遂に主はイスラエルの民をその愛のゆえに打たれることを決意なさるのです。
そうして、北イスラエルはアッシリアに、南ユダはバビロニアによる侵略に遭い、遂に都エルサレムは陥落し、神殿は崩壊します。こうして多くの者が異教の地へ捕囚となって連
れて行かれることになるのです。
そのような如何ともしがたいみじめな状況の中で彼らは激しい後悔に苛まれ、再び主に立ち返るべく悔い改めへと導かれていくのです。
11節「そのとき、主の民は思い起こした。昔の日々を、モーセを。どこにおられるのか。その群れを飼う者を海から導き出された方は云々」とありますように、そのように彼らは主を尋ね求めるのです。
かつて神がモーセを用いて出エジプトによる解放を導かれた出来事を思い起こし、イスラエルの先祖の民は荒れ野の長い年月を経て、遂に約束のカナンの憩いの地に導かれた。
ここで預言者は翻ってこう主に訴えます。「イスラエルの先祖の民が荒れ野にあろうとも、谷間にあろうとも主が導いて、遂に約束のカナンに地に主の霊が憩わせられた。このように主よ、あなたはわたしたちを御自分の民として導き、国を築かせ輝く名声をお与えになられたではありませんか」と。
預言者は、何とかして主に、わたしたちはあなたの民、神の宝の民であることを思い起していただこうと、訴え祈るのです。これは、自分が神の民、宝の民である、という宣言ということができます。
私たちも、神の救いに与った神の民、あなたの宝の民ですと、どんな時も宣言する信仰、神さまが行われた救いの出来事を思い起こして宣言し続けることは大切な事です。現在の苦しみの中であえぐ時、今しか見えません。自分が小さく思え、価値のないように思え、見放された者のように孤独に思える時、「主が贖い出された者、主の民です」と宣言いたしましょう。
この預言者のすごいところは、どこまでも主に食い下がっていくように祈っているところです。
「どうか、天から見下ろし、輝かしく聖なる宮から御覧ください。どこにあるのですか/あの熱情と力強い御業は。あなたのたぎる思いと憐みは/抑えられていて、わたしには示されません」。さらに「あなたはわたしたちの父です。だれが認めなくても主よ、あなたはわたしたちの父です。『わたしたちの贖い主』/これは永遠の昔からあなたの御名です」、そうではありませんか、と預言者は格闘するように祈り訴えているのです。
そしてさらに、「なにゆえ主よ、あなたはわたしたちを/あなたの道から迷い出させ/わたしたちの心をかたくなにして/あなたを畏れないようにされるのですか」と、民の不信を嘆きながらも、ここでも引き下がらず、主に向かって、「立ち帰って下さい、云々」と、民を主に執り成し祈るのです。いやもう壮絶な祈りであります。
この前の宋富子さんも、もうどうにもこうにも事態が動かなくて膠着状態になった時、泣きながら訴える祈る中で、「なにを黙ってんの、神さまあんたちょっとここに降りて来てや」と、もう格闘するように祈ると、神の声を聞かれたというお証を伺いました。
もうどう仕様もなく、二進も三進もいかなくなった時に、あきらめて祈るのやめてしまうことがないでしょうか。この時民が陥ったように心が頑なになって、どうせ祈っても聞かれないと見くびってしまうなら、主の栄光を見ることはできません。
時に、主に訴え格闘するような祈り。食らいついて祈る。主はそういう人を、又そういう執り成し手が起こされていくことを願っておられるのです。
イザヤ書62章のところ、本日の前の章の6節、7節を見ますと、そこにはこのように書かれています。
「エルサレムよ、あなたの城壁の上に/わたしは見張りを置く。昼も夜も決して黙してはならない。主に思いを起こしていただく役目の者よ/決して黙してはならない」。
この見張り人(ウオッチマン)とは、主の証人ともいえるのでありますが。その役目は、主の民のため、かた神の栄光が顕されるために、昼も夜も目を覚まして執り成し祈る人のことです。
今、主イエスの新約の時代にあっては、その役目を担う人は何か特別な人というのではなく、神の愛と恵みによって神の子とされた証をもつ人すべてが、その祈りの執り成し手として立てられているのです。神を愛し、隣人を愛し、執り成し、主に祈り求めること、訴えること、懇願する働き手として。
今日の箇所の最後では、預言者が「どうか、天を裂いて降って下さい」と、まさに神の沈黙を破らんばかりの気迫で祈るのでありますが。この預言者の祈りはさらに64章に続いていきます。
主は、その「どうか、天を裂いて降って下さい」と訴える祈る声に遂に沈黙を破られるように大いなる希望の宣言をなさるのです。
それは「新しい点と新しい地を想像する」という救いの約束であります。
このことについては次週さらに詳しく聖書からお話したいと思いますが。
このイザヤの預言の言葉の実現として、神さまは御独り子を世界の救い主として地上にお遣わしになられます。こういう形で、預言者のその訴える祈りにお応え下さったのです。
それは御子イエス・キリストが人間の罪の審きをその身に負い、全き罪の贖いを成し遂げ、救いのみ恵みを信じ受け入れるものすべてに、それはユダヤの民のみならず、全世界にお与えになられたのです。
主イエスは死と復活を経て、天に昇られ、主を信じて生きる者に聖霊をお与えになり、日々神に栄光が帰されるためにお働き下さっています。
今この主が私たちに求めておられることは、まさに主のみ救いの証人として、「昼も夜も決して黙することなく祈り、主に執り成し続けること」であります。祈りの声をたゆまずあげ続けていくことが私たちの大切な務めなのです。
今週末は関西地方連合の協力伝道会議、これは私たち関西地方の諸教会が厳しい時代の中にあって、今後どうようなかたちで主の働きを担い合っていけるかを2日間、語り合い祈り合います。来週の27日は台湾から元歌手で献身された祝牧師をはじめ賛美伝道隊が来阪され、「天を開くワーシップ集会」が主によって導かれました。又25日は世界祈祷週間礼拝を迎えます。
ますます祈りの霊によって教会が開かれていき、主のゆたかな御業がおこされていくことを期待しつつ、共に祈りを合わせてまいりましょう。
今週もここから、それぞれ祈り仕える生活の場へと遣わされてまいりましょう。